丁字路交差点から辻の坂を望む。右側(東)の大きな建物がアイムス福山壱番館(東深津町6丁目10‐30)である。私が立つ位置からは山を人力で削り緩やかな坂に変えたことがはっきりと確認できる。「昔辻の坂はバス通りで大型車とかち合った時には冷や汗が出たわ」と母は昭和30年代後半頃の話をしてくれた。当時はもっと道幅が狭かったという。
辻の坂
明治のおわりごろまでの辻の坂は、急勾配の上、幅は大八車がやっと通れるほどのせまさで、曲折もあり、ここを通る人々は困っていた。夜道をとおると「おいはぎ」がでるといううわさもたっていたほどである。
旧山陽線の踏切附近からすぐ坂道となり、頂上にある金比羅さんの横をとおって深津保育所前の曲部へおりていた。深安郡福山町の人村田虎吉は通行人の苦しみをみるにつけこの峠をほりさげて平たくしようと考えていた。ちょうどそのころ福山城の東堀端をうめて両備鉄道の駅舎にするという話がもちあがっていた。
明治維新以降、城はあれ放題で堀の南部分は明治二十年すぎに埋められ、山陽本線が二十四年九月から営業をはじめていたが、明治四十四年八月福山・府中間の軽便鉄道敷設免許がおり、十一月には資本金四十五万円の両備鉄道株式会社が設立され、河合三郎が社長に就任している。会社設立と同時に敷設工事にかかり、まず城の東から奈良津をとおって横尾をぬける線路工事を急いだのである。
駅舎をつくるには堀をうめる必要があり、それにはかなりの土砂がいる。村田虎吉は深津高地の土を運搬すれば一挙両得であると判断、まず深津村長に相談して賛同を得、快く援助を約束してもらった。両備鉄道の河合社長も村田の意見をとり入れ、大正二年四月八日に起工、虎吉自ら監督に当たり、一年一か月の間、寒暑の中も休まず、鶴はしで土をほりさげ、大八車に土をつんで全く人力で二キロの道を運搬したのである。そして、大正三年五月には東堀が完全に埋められ、新しい駅舎が建ち、七月には両備鉄道が開通した。土砂をとりのぞいた辻の坂は、前にくらべて勾配もゆるやかとなり、道幅も倍以上にひろがり、人馬の往来は急にふえてきた。この作業はほとんど人力で堀さげ運搬したのだから、当時の人たちにとっては大へんな労働であったといえる。
村田が完成させた道路は、深津平野へぬける要衝として一躍クローズアップし、多くの馬車が通るようになったが、まだまだ難所で東西のふもとで小休しなければこえられなかった。ときに疲労で馬がたおれたのをみたという人もおり、人力の荷車なら荷物が少なくても三人位が後おしをしなければのぼれなかったといわれる。
…現在の辻之坂は石碑に刻んでいる村田虎吉の第一期工事にはじまり、大正末期ごろの第二期、昭和二十六年度の第三期と大きくは三回の堀りさげをしたことになる。昭和三十年代になると、自動車の大型化で道幅があまりにも狭いので、南手城町をとおる国道の新設が行なわれ、昭和三十六年には国道としての役割を解除されることになった。
福山文化財シリーズ№10 福山の碑より引用
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』
坂を上り始めてまもなく左手に開鑿記念碑、遭難供養地蔵尊が見える。更に進むと小さな祠が崖下にへばりつくように建っている。
祠の中の無縁法界地蔵尊(左)と大乗妙典六十六部供養塔(右)に向けてシャッターを切る私を小学生が怪訝そうに眺めていた。詳しいことを知らぬ子供が「何が面白いのだろう」という表情を浮かべるのは自然だ。目が合った児童に親指を立てると笑みを返してくれた。
笠岡街道は、薬師寺の門前で深津島山の丘陵に突き当たり、左に折れて辻の坂を越えます。辻の坂もかつては人馬も難渋する急峻な坂道で7・8月には湯茶の接待があったほどでした。
それを見かねた村田虎吉によって明治の終わりに切り下げられ、現在のように勾配がゆるくなりました。坂の頂上にはその功績をたたえた記念碑が建っています。傍らの地蔵さんは、ここの難所の守り仏で、1746年(延享3年)の年号が刻まれています。
『広報ふくやま』歴史散歩 1997年7月号に掲載
「いつの日か彼らの中の数人でも辻の坂の開鑿に携わった人々の苦労と情熱を偲ぶようになってくれるといいが」と私は淡い期待を寄せた。
辻の坂
明治のおわりごろまでの辻の坂は、急勾配の上、幅は大八車がやっと通れるほどのせまさで、曲折もあり、ここを通る人々は困っていた。夜道をとおると「おいはぎ」がでるといううわさもたっていたほどである。
旧山陽線の踏切附近からすぐ坂道となり、頂上にある金比羅さんの横をとおって深津保育所前の曲部へおりていた。深安郡福山町の人村田虎吉は通行人の苦しみをみるにつけこの峠をほりさげて平たくしようと考えていた。ちょうどそのころ福山城の東堀端をうめて両備鉄道の駅舎にするという話がもちあがっていた。
明治維新以降、城はあれ放題で堀の南部分は明治二十年すぎに埋められ、山陽本線が二十四年九月から営業をはじめていたが、明治四十四年八月福山・府中間の軽便鉄道敷設免許がおり、十一月には資本金四十五万円の両備鉄道株式会社が設立され、河合三郎が社長に就任している。会社設立と同時に敷設工事にかかり、まず城の東から奈良津をとおって横尾をぬける線路工事を急いだのである。
駅舎をつくるには堀をうめる必要があり、それにはかなりの土砂がいる。村田虎吉は深津高地の土を運搬すれば一挙両得であると判断、まず深津村長に相談して賛同を得、快く援助を約束してもらった。両備鉄道の河合社長も村田の意見をとり入れ、大正二年四月八日に起工、虎吉自ら監督に当たり、一年一か月の間、寒暑の中も休まず、鶴はしで土をほりさげ、大八車に土をつんで全く人力で二キロの道を運搬したのである。そして、大正三年五月には東堀が完全に埋められ、新しい駅舎が建ち、七月には両備鉄道が開通した。土砂をとりのぞいた辻の坂は、前にくらべて勾配もゆるやかとなり、道幅も倍以上にひろがり、人馬の往来は急にふえてきた。この作業はほとんど人力で堀さげ運搬したのだから、当時の人たちにとっては大へんな労働であったといえる。
村田が完成させた道路は、深津平野へぬける要衝として一躍クローズアップし、多くの馬車が通るようになったが、まだまだ難所で東西のふもとで小休しなければこえられなかった。ときに疲労で馬がたおれたのをみたという人もおり、人力の荷車なら荷物が少なくても三人位が後おしをしなければのぼれなかったといわれる。
…現在の辻之坂は石碑に刻んでいる村田虎吉の第一期工事にはじまり、大正末期ごろの第二期、昭和二十六年度の第三期と大きくは三回の堀りさげをしたことになる。昭和三十年代になると、自動車の大型化で道幅があまりにも狭いので、南手城町をとおる国道の新設が行なわれ、昭和三十六年には国道としての役割を解除されることになった。
福山文化財シリーズ№10 福山の碑より引用
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』
坂を上り始めてまもなく左手に開鑿記念碑、遭難供養地蔵尊が見える。更に進むと小さな祠が崖下にへばりつくように建っている。
祠の中の無縁法界地蔵尊(左)と大乗妙典六十六部供養塔(右)に向けてシャッターを切る私を小学生が怪訝そうに眺めていた。詳しいことを知らぬ子供が「何が面白いのだろう」という表情を浮かべるのは自然だ。目が合った児童に親指を立てると笑みを返してくれた。
笠岡街道は、薬師寺の門前で深津島山の丘陵に突き当たり、左に折れて辻の坂を越えます。辻の坂もかつては人馬も難渋する急峻な坂道で7・8月には湯茶の接待があったほどでした。
それを見かねた村田虎吉によって明治の終わりに切り下げられ、現在のように勾配がゆるくなりました。坂の頂上にはその功績をたたえた記念碑が建っています。傍らの地蔵さんは、ここの難所の守り仏で、1746年(延享3年)の年号が刻まれています。
『広報ふくやま』歴史散歩 1997年7月号に掲載
「いつの日か彼らの中の数人でも辻の坂の開鑿に携わった人々の苦労と情熱を偲ぶようになってくれるといいが」と私は淡い期待を寄せた。