寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市東深津町7丁目の長尾寺(後編)

2012年12月23日 | 郷土史
深津の歴史ある長尾寺は残念なことに福山空襲で焼け落ちている。現住職の御尊父(と思われる方)が当日を回想して次のような手記を遺している。寺と軍隊の絡みについては関係者にしか書けないもので資料的価値は非常に高い。

長尾寺にて
藤井正純
当時 一七才

 私のお寺は福山城の東方、現在暁の星女学院のたっている深津高地の一角にあります。
 地方では一応、古刹ということになっていて、その由緒も古くからいろいろと言い伝えられ、郷土誌にも記録されています。しかし、もうそれを表わす面影はありません。ただ裏山の墓の数と古さがそれを物語ってくれるかもしれません。
 ここ深津というところは古く開けたところのようで万葉集にもその名が出て来ます。深津郡深津村から深安郡深津村となり、昭和八年、福山市に合併となり現在は福山市東深津町となっていますが、この深津高地があるために市内との往来は勝手が悪かったようですし、またいろんな設備も取り残されたようです。
 この山に囲まれて町は旧国道に面してほとんど一本すじに固まっており、その周囲は全部田んぼという田園地帯です。しかし、そんなのどかなところへも早くから軍隊との関係があったのです。というのは明治四〇年ごろこの福山に第四十一連隊が置かれたわけですが、それからあまり年数を経ずして、一面畑作地であったこの深津高地が取り上げられて第四十一連隊の演習場になったわけです。そしてまたその時から私の寺へ軍隊が出入りするようになったのです。いわゆる演習に来る兵隊たちの休憩所のようなものになったのです。

 …昭和十八年、梵鐘の応召がありました。

 そして、昭和二十年、大きな犠牲を払う原因となるできごとが起こりました。…兵隊の宿にしたのです。…兵隊といっても、まともな兵隊たちでなく病気上がりの人たちです。福山連隊に陸軍病院がありましたが、それもたくさんの患者で満員となり、なんとか動ける人をあちこちのお寺へ分散させたわけで、私の寺でも三十人ぐらいの人数の割当てがあったのです。いわば病院からあふれた人たちで一人前の軍隊の仕事はできないし、かといって除隊は許されない人たちのようですから、その気持ちはおもしろくなかっただろうと思います。その人たちは寺を宿にしては陸軍用地のあちこちを開墾して作物(といってもかぼちゃやいもぐらい)をつくって、食物の足しにしていたようです。(病院からも何がしの食糧は来ていたようですが、)そんな中に今では有名な柴田錬三郎さんがおられたようですが、その時の生活を前に「がめついやつ」の中で書かれているわけです。本によればその生活は相当なものだったようです。寺の方でも相手が兵隊ですし大勢ですから遠慮して小さくなっていたようです。道具なども生活用品から娯楽用品まで貸与していたようで、風呂なども勝手の悪いことでした。そんな中で福山にも空襲に来るんだという話を聞きました。
 ビラを見たという人もいて、そこには福山がチャンと書いてあったという。でも深津の人や寺へ参ってくる人はたいてい、ここは大丈夫でしょう。焼けやしませんよと云っていました。

 …八月七日に広島の様子が伝えられました。なんでも広島へ落ちた爆弾は今までのと違って、ピカッと光っただけで、大音響と共に一面の焼野が原になり、人も物も影も形もなくなるということでした。
 当八日夜、寝入り端をたたき起こされ、外に出たとたん、真昼のような明るさになりました。…照明弾というものだそうです。…どこまでもよく見えました。
 …その時一人の兵隊がいて「照明弾が落ちたから、防空壕へ避難しなければ危ないぞ。」と言ったようです。あたりは静かだし、他の兵隊は見当たらないのでどうしたのかなと思ったが、どうも先に逃げたらしい。みんな急いで壕に入った。とにかく新型爆弾のことがこわくてしかたがなかった。
 そのうち飛行機の音がはげしくなり出しました。…そのうちいっそう大きな音がした。どうやら寺に落ちたようです。防空壕のそばまで燃え広がって来たので、逃げなくては危ないということなので、上の山の方へ逃げました。そのころはもう飛行機の音もしなくなり、静かになっておりました。でも家族一同、無事で逃げることができてなによりです。
 …寺へ落ちた爆弾は六角の小さいのではなく、大きな油脂焼夷弾でしたので、どうにもならなかったと思います。
 山から見ると市内はまるで火の海、そのとき福山城の四層目から焼けくずれるのを見たのが、今でも目の奥に焼けついて印象に残っています。
 その後は何をどうしたのかよく思い出せない。おそらくみんな呆然自失、深津高地にすわって町や、我が家が焼けるのを見ていたのではないでしょうか。
 そのうちに夜が明けた。隣保班の人が、周囲の村からの食糧の炊き出しが来ているから、人数を言ってもらいなさいということでした。おむすびとつけものだった。ほんとうに手づかみで食べました。なんとも言えない味だったろうと思います。

 …寺の復興の話が持ち上がりました。…檀家の人がまず片付けをすることになり何日もかかって入れ代わり立ち代わり、ガレキの山を片付けて頂き、すっかり片付いた中で、再建の話が決まりました。それも新円発行ということで、貯金の全封鎖が行われ、大きな金が動かされなくなった中でです。こうして、昭和二十三年五月 以前のものにくらべれば非常に小さく、また、古い寺をもらいうけて建つわけですから新しくもないけれども、市内の焼失寺院の中で最初に復興したということで自慢したいものです。

『福山空襲の記録(昭和五十年)』

『福山空襲 焼失家屋地図』より深津高地周辺を拡大(長尾寺と墓地を緑で色づけした)

『福山空襲 焼失家屋地図』を参考にすると現・東深津町6丁目と7丁目の一部が燃えている。つまり福山陸軍練兵場が攻撃目標だったとすれば焼夷弾が若干東にずれて落ちたことになる。だから戦後生まれの私にも長尾寺前住職の無念さはひしひしと伝わってくるのだ。

六地蔵と秋葉大権現

長尾寺の裏山に広がる墓地

焼失を免れた墓地からかつての焼け野原と陸軍用地跡に出来た女子高を望む。敗戦から67年が経過し空襲を経験した人たちがどんどん鬼籍に入っている。今のうちに聞き取りをして書籍化しておいた方がよいだろう。母が米座周辺(深津の字の一つ)の惨状をボソボソと話すのを見てその思いを強くした。

墓地より私立女子高を眺める

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福山市東深津町7丁目の長尾寺(前編)

2012年12月23日 | 郷土史
西荒神社を後にして辻の坂につながる旧(国)道に出る。近くの民家の間にある北向きの祠を拝みに寄ると2匹の犬がワンワン吠えた。

東深津町6丁目3の小さな祠

旧国道

「こりゃいかん」と旧道に戻り北東へ進み真言宗大覚寺派・長尾寺(東深津町7丁目13-1)に至る。急勾配の石段を上って初めて寺を訪れた日のことを私は今でもはっきりと覚えている。

長尾寺の参道

長尾寺の法界地蔵尊

法界地蔵尊を一瞥して境内に入るとたまたま住職が庭掃除をしていた。時の挨拶を交わしてから雑談が始まり私は色んなことを教わった。長尾寺がかつては明王院の末寺(ピラミッド型の序列があった)で世襲となる前の住職はせっせと寄進をしていたという。尾道や松永といった地域では無くなってしまった大師講(だいしこう)が東深津町で今でも続いていることを住職は大層褒めた。

長尾寺
寳龍山と同宗同末で縁起によるに弘法大師開山觀音寺といふ、其の後崇院御再建長尾隼人中興す。水野家のはじめ本尊たる觀音を吉津村にうつす。今の觀音寺が元である。此に於て隼人の功をたづねてその時今の名に改めた。隼人は島の臣で作州津山の人である。今の觀音はもと中條村の寒水寺にあり、寳永の頃此の寺に乞來れるもので空海の手製であると云ふ。高さ六尺白木の立像で本堂に安置さる。

大師講 弘法大師を奉讃する講社にして眞言宗大部分を占むる村なる故非常に盛にして各組々にある外一組にても二つ以上ある所あり少きも三四人多きは二十人に余る講社あり、毎月舊暦二十日夜を例日とす。

『土基本調査 深津尋常高等小學校(昭和三年)』

専故寺の念仏塔の所在を探していると私が最後に言うと彼は女子校が建つ山の方を指差して「あの鉄塔が見える辺りにある」と教えてくれたのだった。

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