深津の歴史ある長尾寺は残念なことに福山空襲で焼け落ちている。現住職の御尊父(と思われる方)が当日を回想して次のような手記を遺している。寺と軍隊の絡みについては関係者にしか書けないもので資料的価値は非常に高い。
長尾寺にて
藤井正純
当時 一七才
私のお寺は福山城の東方、現在暁の星女学院のたっている深津高地の一角にあります。
地方では一応、古刹ということになっていて、その由緒も古くからいろいろと言い伝えられ、郷土誌にも記録されています。しかし、もうそれを表わす面影はありません。ただ裏山の墓の数と古さがそれを物語ってくれるかもしれません。
ここ深津というところは古く開けたところのようで万葉集にもその名が出て来ます。深津郡深津村から深安郡深津村となり、昭和八年、福山市に合併となり現在は福山市東深津町となっていますが、この深津高地があるために市内との往来は勝手が悪かったようですし、またいろんな設備も取り残されたようです。
この山に囲まれて町は旧国道に面してほとんど一本すじに固まっており、その周囲は全部田んぼという田園地帯です。しかし、そんなのどかなところへも早くから軍隊との関係があったのです。というのは明治四〇年ごろこの福山に第四十一連隊が置かれたわけですが、それからあまり年数を経ずして、一面畑作地であったこの深津高地が取り上げられて第四十一連隊の演習場になったわけです。そしてまたその時から私の寺へ軍隊が出入りするようになったのです。いわゆる演習に来る兵隊たちの休憩所のようなものになったのです。
…昭和十八年、梵鐘の応召がありました。
そして、昭和二十年、大きな犠牲を払う原因となるできごとが起こりました。…兵隊の宿にしたのです。…兵隊といっても、まともな兵隊たちでなく病気上がりの人たちです。福山連隊に陸軍病院がありましたが、それもたくさんの患者で満員となり、なんとか動ける人をあちこちのお寺へ分散させたわけで、私の寺でも三十人ぐらいの人数の割当てがあったのです。いわば病院からあふれた人たちで一人前の軍隊の仕事はできないし、かといって除隊は許されない人たちのようですから、その気持ちはおもしろくなかっただろうと思います。その人たちは寺を宿にしては陸軍用地のあちこちを開墾して作物(といってもかぼちゃやいもぐらい)をつくって、食物の足しにしていたようです。(病院からも何がしの食糧は来ていたようですが、)そんな中に今では有名な柴田錬三郎さんがおられたようですが、その時の生活を前に「がめついやつ」の中で書かれているわけです。本によればその生活は相当なものだったようです。寺の方でも相手が兵隊ですし大勢ですから遠慮して小さくなっていたようです。道具なども生活用品から娯楽用品まで貸与していたようで、風呂なども勝手の悪いことでした。そんな中で福山にも空襲に来るんだという話を聞きました。
ビラを見たという人もいて、そこには福山がチャンと書いてあったという。でも深津の人や寺へ参ってくる人はたいてい、ここは大丈夫でしょう。焼けやしませんよと云っていました。
…八月七日に広島の様子が伝えられました。なんでも広島へ落ちた爆弾は今までのと違って、ピカッと光っただけで、大音響と共に一面の焼野が原になり、人も物も影も形もなくなるということでした。
当八日夜、寝入り端をたたき起こされ、外に出たとたん、真昼のような明るさになりました。…照明弾というものだそうです。…どこまでもよく見えました。
…その時一人の兵隊がいて「照明弾が落ちたから、防空壕へ避難しなければ危ないぞ。」と言ったようです。あたりは静かだし、他の兵隊は見当たらないのでどうしたのかなと思ったが、どうも先に逃げたらしい。みんな急いで壕に入った。とにかく新型爆弾のことがこわくてしかたがなかった。
そのうち飛行機の音がはげしくなり出しました。…そのうちいっそう大きな音がした。どうやら寺に落ちたようです。防空壕のそばまで燃え広がって来たので、逃げなくては危ないということなので、上の山の方へ逃げました。そのころはもう飛行機の音もしなくなり、静かになっておりました。でも家族一同、無事で逃げることができてなによりです。
…寺へ落ちた爆弾は六角の小さいのではなく、大きな油脂焼夷弾でしたので、どうにもならなかったと思います。
山から見ると市内はまるで火の海、そのとき福山城の四層目から焼けくずれるのを見たのが、今でも目の奥に焼けついて印象に残っています。
その後は何をどうしたのかよく思い出せない。おそらくみんな呆然自失、深津高地にすわって町や、我が家が焼けるのを見ていたのではないでしょうか。
そのうちに夜が明けた。隣保班の人が、周囲の村からの食糧の炊き出しが来ているから、人数を言ってもらいなさいということでした。おむすびとつけものだった。ほんとうに手づかみで食べました。なんとも言えない味だったろうと思います。
…寺の復興の話が持ち上がりました。…檀家の人がまず片付けをすることになり何日もかかって入れ代わり立ち代わり、ガレキの山を片付けて頂き、すっかり片付いた中で、再建の話が決まりました。それも新円発行ということで、貯金の全封鎖が行われ、大きな金が動かされなくなった中でです。こうして、昭和二十三年五月 以前のものにくらべれば非常に小さく、また、古い寺をもらいうけて建つわけですから新しくもないけれども、市内の焼失寺院の中で最初に復興したということで自慢したいものです。
『福山空襲の記録(昭和五十年)』
『福山空襲 焼失家屋地図』を参考にすると現・東深津町6丁目と7丁目の一部が燃えている。つまり福山陸軍練兵場が攻撃目標だったとすれば焼夷弾が若干東にずれて落ちたことになる。だから戦後生まれの私にも長尾寺前住職の無念さはひしひしと伝わってくるのだ。
焼失を免れた墓地からかつての焼け野原と陸軍用地跡に出来た女子高を望む。敗戦から67年が経過し空襲を経験した人たちがどんどん鬼籍に入っている。今のうちに聞き取りをして書籍化しておいた方がよいだろう。母が米座周辺(深津の字の一つ)の惨状をボソボソと話すのを見てその思いを強くした。
長尾寺にて
藤井正純
当時 一七才
私のお寺は福山城の東方、現在暁の星女学院のたっている深津高地の一角にあります。
地方では一応、古刹ということになっていて、その由緒も古くからいろいろと言い伝えられ、郷土誌にも記録されています。しかし、もうそれを表わす面影はありません。ただ裏山の墓の数と古さがそれを物語ってくれるかもしれません。
ここ深津というところは古く開けたところのようで万葉集にもその名が出て来ます。深津郡深津村から深安郡深津村となり、昭和八年、福山市に合併となり現在は福山市東深津町となっていますが、この深津高地があるために市内との往来は勝手が悪かったようですし、またいろんな設備も取り残されたようです。
この山に囲まれて町は旧国道に面してほとんど一本すじに固まっており、その周囲は全部田んぼという田園地帯です。しかし、そんなのどかなところへも早くから軍隊との関係があったのです。というのは明治四〇年ごろこの福山に第四十一連隊が置かれたわけですが、それからあまり年数を経ずして、一面畑作地であったこの深津高地が取り上げられて第四十一連隊の演習場になったわけです。そしてまたその時から私の寺へ軍隊が出入りするようになったのです。いわゆる演習に来る兵隊たちの休憩所のようなものになったのです。
…昭和十八年、梵鐘の応召がありました。
そして、昭和二十年、大きな犠牲を払う原因となるできごとが起こりました。…兵隊の宿にしたのです。…兵隊といっても、まともな兵隊たちでなく病気上がりの人たちです。福山連隊に陸軍病院がありましたが、それもたくさんの患者で満員となり、なんとか動ける人をあちこちのお寺へ分散させたわけで、私の寺でも三十人ぐらいの人数の割当てがあったのです。いわば病院からあふれた人たちで一人前の軍隊の仕事はできないし、かといって除隊は許されない人たちのようですから、その気持ちはおもしろくなかっただろうと思います。その人たちは寺を宿にしては陸軍用地のあちこちを開墾して作物(といってもかぼちゃやいもぐらい)をつくって、食物の足しにしていたようです。(病院からも何がしの食糧は来ていたようですが、)そんな中に今では有名な柴田錬三郎さんがおられたようですが、その時の生活を前に「がめついやつ」の中で書かれているわけです。本によればその生活は相当なものだったようです。寺の方でも相手が兵隊ですし大勢ですから遠慮して小さくなっていたようです。道具なども生活用品から娯楽用品まで貸与していたようで、風呂なども勝手の悪いことでした。そんな中で福山にも空襲に来るんだという話を聞きました。
ビラを見たという人もいて、そこには福山がチャンと書いてあったという。でも深津の人や寺へ参ってくる人はたいてい、ここは大丈夫でしょう。焼けやしませんよと云っていました。
…八月七日に広島の様子が伝えられました。なんでも広島へ落ちた爆弾は今までのと違って、ピカッと光っただけで、大音響と共に一面の焼野が原になり、人も物も影も形もなくなるということでした。
当八日夜、寝入り端をたたき起こされ、外に出たとたん、真昼のような明るさになりました。…照明弾というものだそうです。…どこまでもよく見えました。
…その時一人の兵隊がいて「照明弾が落ちたから、防空壕へ避難しなければ危ないぞ。」と言ったようです。あたりは静かだし、他の兵隊は見当たらないのでどうしたのかなと思ったが、どうも先に逃げたらしい。みんな急いで壕に入った。とにかく新型爆弾のことがこわくてしかたがなかった。
そのうち飛行機の音がはげしくなり出しました。…そのうちいっそう大きな音がした。どうやら寺に落ちたようです。防空壕のそばまで燃え広がって来たので、逃げなくては危ないということなので、上の山の方へ逃げました。そのころはもう飛行機の音もしなくなり、静かになっておりました。でも家族一同、無事で逃げることができてなによりです。
…寺へ落ちた爆弾は六角の小さいのではなく、大きな油脂焼夷弾でしたので、どうにもならなかったと思います。
山から見ると市内はまるで火の海、そのとき福山城の四層目から焼けくずれるのを見たのが、今でも目の奥に焼けついて印象に残っています。
その後は何をどうしたのかよく思い出せない。おそらくみんな呆然自失、深津高地にすわって町や、我が家が焼けるのを見ていたのではないでしょうか。
そのうちに夜が明けた。隣保班の人が、周囲の村からの食糧の炊き出しが来ているから、人数を言ってもらいなさいということでした。おむすびとつけものだった。ほんとうに手づかみで食べました。なんとも言えない味だったろうと思います。
…寺の復興の話が持ち上がりました。…檀家の人がまず片付けをすることになり何日もかかって入れ代わり立ち代わり、ガレキの山を片付けて頂き、すっかり片付いた中で、再建の話が決まりました。それも新円発行ということで、貯金の全封鎖が行われ、大きな金が動かされなくなった中でです。こうして、昭和二十三年五月 以前のものにくらべれば非常に小さく、また、古い寺をもらいうけて建つわけですから新しくもないけれども、市内の焼失寺院の中で最初に復興したということで自慢したいものです。
『福山空襲の記録(昭和五十年)』
『福山空襲 焼失家屋地図』を参考にすると現・東深津町6丁目と7丁目の一部が燃えている。つまり福山陸軍練兵場が攻撃目標だったとすれば焼夷弾が若干東にずれて落ちたことになる。だから戦後生まれの私にも長尾寺前住職の無念さはひしひしと伝わってくるのだ。
焼失を免れた墓地からかつての焼け野原と陸軍用地跡に出来た女子高を望む。敗戦から67年が経過し空襲を経験した人たちがどんどん鬼籍に入っている。今のうちに聞き取りをして書籍化しておいた方がよいだろう。母が米座周辺(深津の字の一つ)の惨状をボソボソと話すのを見てその思いを強くした。