深津高地に到着した私は道なりに北北西に進んだ。畑の先には大山共用墓地が広がる。墓地の住所は東深津町6丁目1で西深津町3丁目と接している。
西深津町という区分が出来たのは昭和の後期で、それ以前は東深津町の一部であった。だから町名変更となるまでの東深津町は非常に広かったのだ。
戦前深津高地は福山陸軍練兵場になっており、敗戦後まもなくして私立の女子中学校、および高校が建設された。その後宅地造成が着々と行われ巨大な市営住宅群が完成したのである。大山共用墓地の北部と西部が軍用地だったことを知る者は年々少なくなっている。
参考までに戦前の深津高地の地図(※黄色い線が辻の坂)を載せておく。現墓地の下(南側の農地)辺りに隔離病舎(避病院)があったことが分かる。おそらく火葬場も近くにあったものと考えられる。
私は墓地の北端で足を止め草むらに埋没しそうになっている石造物に目を向けた。卒塔婆と光明真言曼荼羅碑は廃寺となった専故寺のものである。
西深津町という区分が出来たのは昭和の後期で、それ以前は東深津町の一部であった。だから町名変更となるまでの東深津町は非常に広かったのだ。
戦前深津高地は福山陸軍練兵場になっており、敗戦後まもなくして私立の女子中学校、および高校が建設された。その後宅地造成が着々と行われ巨大な市営住宅群が完成したのである。大山共用墓地の北部と西部が軍用地だったことを知る者は年々少なくなっている。
参考までに戦前の深津高地の地図(※黄色い線が辻の坂)を載せておく。現墓地の下(南側の農地)辺りに隔離病舎(避病院)があったことが分かる。おそらく火葬場も近くにあったものと考えられる。
私は墓地の北端で足を止め草むらに埋没しそうになっている石造物に目を向けた。卒塔婆と光明真言曼荼羅碑は廃寺となった専故寺のものである。