寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市東深津町4丁目の艮神社

2012年12月29日 | 郷土史
東深津町4丁目6-30の丁分(よーろぶ)公民館の西隣に艮神社(うしとらじんじゃ)が建っている。私は近くでよく遊んでいたにもかかわらずその存在に長らく気付いていなかった。

艮神社由緒
艮神社は 人皇第七代考霊天皇の皇子備後国総鎮守 吉備津彦の大神を奉斎してある備後一宮 吉備津神社の荒魂を深津松山(蔀山)に分祀(六百四十年前)していたものを昭和四十一年九月三十日この地にお移ししつゞいて昭和五十五年十一月一日新に社殿を新営したものです 御祭神は 吉備津彦命で第十代崇神天皇の御代四道将軍として この吉備国においでになり国内を平らかにお治めになりました 以来この地方の守護神として崇敬せられております
神社本庁所属 宗教法人 艮神社

艮神社の由緒

図書館で住宅地図を見ていて偶然発見した時には非常に驚いたのだ、灯台下暗しとはまさにこのことだと。

東深津町4丁目から見たJR山陽本線の沖踏切

沖踏切

艮神社のすぐ北側を山陽本線が走っている。沖踏切は私の記憶の中の(昭和40年代後半)の姿とほぼ同じだ。遮断機の前で普通電車を見送る男は数十秒だけ虫篭を持って野原を駆け巡る少年に戻っていた。

沖踏切を通過する普通電車

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福山市東深津町7丁目の深津八幡神社 (後編)

2012年12月29日 | 郷土史
深津八幡神社境内の北側斜面を「宮の端長寿園」という。広島県福山市には端(はし)と書いて「はな」と読む地名が結構存在する。宮の端(みやのはな)は深津隧道から東へ伸びる道路沿い周辺(神社の北東部)を指す。宝くじの高額当選者がよく出る酒屋そばに「宮ノ端交差点(信号機付き)」として地名が残っている。

東深津町の宮ノ端交差点

宮の端長寿園のシバザクラ

長寿園(約150坪)には地元の人がシバザクラを植えており春には美しい花を咲かせる。上の画像は今年撮影したものだ。左手(方角は西)に見えるのは東深津町1丁目の東部第14公園。

傾斜15°の坂の表示

坂の中間地点辺りから社殿を望む

神社境内から西に歩いて行くと小高い丘(坂)となる。傾斜15°を上り下りして体を鍛える人も多いと聞く。坂の半ば辺りから眺めた社殿は見事な左右対称形である。

標高12.9mを示す柱

頂上(標高12.9m)から南方の深津小学校・福山通運本社を望む。水野勝成公が推進した干拓事業の結果がこれだ。あの世のお殿様も備後国福山の発展をさぞかし喜ばれていることだろう。

傾斜15°の坂を上った地点から南方を望む

私にはまだ行くべき所が幾つかあった。郷土史に詳しい読者の中には「こんな(≒こいつという意味の備後弁)は深津のアレを忘れとらんか」と心配した人もいるかもしれない。その話は今年中に片付けるつもりだ。

深津八幡神社境内から石鳥居を見下ろす

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福山市東深津町7丁目の深津八幡神社 (前編)

2012年12月29日 | 郷土史
米座倶楽部前の道を北東に川に沿って進む。ほどなくしてして重厚感のある石鳥居が現れる。

深津八幡神社の石鳥居

石段を上った左手奥に深津八幡神社(東深津町7丁目9-8)の社殿がある。福山市民にはあまり存在を知られていないが、歴史上重要な神社と言ってよかろう。

深津八幡神社の拝殿

社名 出崎八幡宮
祭名 應神天皇 功皇后 仲哀天皇
位置及び由緒の大要 米座 東八幡西八幡の二社あり。

『土基本調査 深津尋常高等小學校(昭和三年)』

旧深津村の米座(こめざ)という字(あざ)は毛利元康の時代に納米蔵が置かれていたことに由来する。

出崎八幡
東西両社なり、此宮の下を藏之崎と云。元康の時代、納米藏の跡なり。當村の詞に他村を在といひ、他村の人を在者といふ。徃古元康の城下なりしゆへ、其時の言葉殘れり。

『備陽六郡志』

深津八幡神社の本殿

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