塩崎神社は正保三年に水野宗休公によって再建されたと伝えられる。難航する干拓事業の成就を祈願してからは千間土手が決壊しなくなった経緯は数々の歴史書に記されている。
…千間土手は正保二年にはほぼ出来上がっていたが、其の後度々堤防が切れ干拓地が潮をかぶった。…時の領主二代目水野勝俊は参勤で江戸に在住していたため隠居して宗休と号していた勝成公が指示を行っていた。
この時深津の庄屋藤井庄五郎氏が当時小字才ノ尾(参重山)にあった小社、潮崎大明神に「ご祈願されては」と進言した。宗休公はその言葉を入れて祈願をしてから堤防は崩れなくなり正保四年(一六四七)千間土堤は完成。深津沖新田百七町歩の干拓させる入封時深津村の石高は七六九石であったものがこの干拓によって二〇〇八三石にもなった。
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』


参拝を終えた私はもと神社があったという崖(才ノ尾)を見上げた。そして木の柵の奥に防空壕の跡を発見し因島の造船所周辺にもこのような壕がたくさん残っていることを思い出した。

参考までに昭和15年頃の深津嶋山周辺地図と福山空襲被災地域図を載せておく。深津の国民学校(現在の幼稚園)と長尾寺周辺、辻の坂の麓などが燃えたことがお分かりになるだろう。


深津の被災状況については『福山空襲の記録(昭和五十年)』における藤井猛氏(当時盈進工業学校勤務 四十三才)の回想が非常に参考になる。
○八月八日午後五時過学校から帰宅して間もなく六時過ぎであったろう。空襲警報が発令され、隣組の人々は鉄帽にゲートル、モンペ姿で直ちに防空壕に避難した。ふと米軍機が近距離に接近し、照明弾を落した。暮れがかる空が真昼の如く明るくなり、その白光はしばらく続いた。著者は…鉄兜を被り、自転車に乗って学校へ急行した。その時北の方吉津旭通り辺に車から西へもくもくと黒煙が上がるのを見た。八時過ぎであったろう。まだ暮れていないのではっきり見えたのだ。三吉町の通りは人影もまばらであった。
いよいよ日が暮れると大部隊のB二十九の編隊が東の方から市の上空を旋回して、焼夷弾攻撃を何回も何回も加えた。…
午後十一時頃校舎も三吉町本通りも松原も焼けていない。本校は助かるかも知れぬと思った。そのうち日本化薬工場が火焰に包まれた。次いで、山陽線南側の藁工品倉庫が火災になった。南北の火焰に照し出され校舎四棟が黒々と浮び上がっていたので敵機は見逃す筈はない。最後に焼夷爆弾が武道場(校舎の西側)の剣道部物置に落下した。
武道場の火は続いて渡廊下にそして二階建木造校舎二棟に延焼した。…次いで東側の武器庫宿直室等を総なめに焼いた。夜が次第に明けてゆくと惨たんたる焼跡だ。…
学校の周辺を自転車に乗って廻って見ると、北の方三吉町本通りと三枚橋東側の松原は焼けずに元のままの状景であった。南の方、日本化薬の工場は全焼し、福山城天守閣も焼失、市の中央部は完全に廃虚となった。手城町も広い範囲で煙があがっていた。東深津町は深津高地に立つ長尾寺が先ずねらわれ西、沖、深津小学校を中心に周辺が全焼していた。下丁分辺りは大部分が焼失し、田圃には焼夷弾が落ちて稲が焼けた跡が約十米おきぐらいに点々と続いていた。上丁分、王子山附近は残っていた。
防空壕からほど近くに何故か足踏み水車(戦後動力ポンプが普及するまではこれが主流だった)が置かれていた。本体に墨で昭和拾参年五月と書かれており焼失を免れたことがわかる。過去と現在をつなぐ木造品に私は不思議な縁を感じた。

…千間土手は正保二年にはほぼ出来上がっていたが、其の後度々堤防が切れ干拓地が潮をかぶった。…時の領主二代目水野勝俊は参勤で江戸に在住していたため隠居して宗休と号していた勝成公が指示を行っていた。
この時深津の庄屋藤井庄五郎氏が当時小字才ノ尾(参重山)にあった小社、潮崎大明神に「ご祈願されては」と進言した。宗休公はその言葉を入れて祈願をしてから堤防は崩れなくなり正保四年(一六四七)千間土堤は完成。深津沖新田百七町歩の干拓させる入封時深津村の石高は七六九石であったものがこの干拓によって二〇〇八三石にもなった。
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』


参拝を終えた私はもと神社があったという崖(才ノ尾)を見上げた。そして木の柵の奥に防空壕の跡を発見し因島の造船所周辺にもこのような壕がたくさん残っていることを思い出した。

参考までに昭和15年頃の深津嶋山周辺地図と福山空襲被災地域図を載せておく。深津の国民学校(現在の幼稚園)と長尾寺周辺、辻の坂の麓などが燃えたことがお分かりになるだろう。


深津の被災状況については『福山空襲の記録(昭和五十年)』における藤井猛氏(当時盈進工業学校勤務 四十三才)の回想が非常に参考になる。
○八月八日午後五時過学校から帰宅して間もなく六時過ぎであったろう。空襲警報が発令され、隣組の人々は鉄帽にゲートル、モンペ姿で直ちに防空壕に避難した。ふと米軍機が近距離に接近し、照明弾を落した。暮れがかる空が真昼の如く明るくなり、その白光はしばらく続いた。著者は…鉄兜を被り、自転車に乗って学校へ急行した。その時北の方吉津旭通り辺に車から西へもくもくと黒煙が上がるのを見た。八時過ぎであったろう。まだ暮れていないのではっきり見えたのだ。三吉町の通りは人影もまばらであった。
いよいよ日が暮れると大部隊のB二十九の編隊が東の方から市の上空を旋回して、焼夷弾攻撃を何回も何回も加えた。…
午後十一時頃校舎も三吉町本通りも松原も焼けていない。本校は助かるかも知れぬと思った。そのうち日本化薬工場が火焰に包まれた。次いで、山陽線南側の藁工品倉庫が火災になった。南北の火焰に照し出され校舎四棟が黒々と浮び上がっていたので敵機は見逃す筈はない。最後に焼夷爆弾が武道場(校舎の西側)の剣道部物置に落下した。
武道場の火は続いて渡廊下にそして二階建木造校舎二棟に延焼した。…次いで東側の武器庫宿直室等を総なめに焼いた。夜が次第に明けてゆくと惨たんたる焼跡だ。…
学校の周辺を自転車に乗って廻って見ると、北の方三吉町本通りと三枚橋東側の松原は焼けずに元のままの状景であった。南の方、日本化薬の工場は全焼し、福山城天守閣も焼失、市の中央部は完全に廃虚となった。手城町も広い範囲で煙があがっていた。東深津町は深津高地に立つ長尾寺が先ずねらわれ西、沖、深津小学校を中心に周辺が全焼していた。下丁分辺りは大部分が焼失し、田圃には焼夷弾が落ちて稲が焼けた跡が約十米おきぐらいに点々と続いていた。上丁分、王子山附近は残っていた。
防空壕からほど近くに何故か足踏み水車(戦後動力ポンプが普及するまではこれが主流だった)が置かれていた。本体に墨で昭和拾参年五月と書かれており焼失を免れたことがわかる。過去と現在をつなぐ木造品に私は不思議な縁を感じた。
