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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市東深津町6丁目の深津塩崎神社(後編) 

2012年12月30日 | 郷土史
塩崎神社は正保三年に水野宗休公によって再建されたと伝えられる。難航する干拓事業の成就を祈願してからは千間土手が決壊しなくなった経緯は数々の歴史書に記されている。

…千間土手は正保二年にはほぼ出来上がっていたが、其の後度々堤防が切れ干拓地が潮をかぶった。…時の領主二代目水野勝俊は参勤で江戸に在住していたため隠居して宗休と号していた勝成公が指示を行っていた。
この時深津の庄屋藤井庄五郎氏が当時小字才ノ尾(参重山)にあった小社、潮崎大明神に「ご祈願されては」と進言した。宗休公はその言葉を入れて祈願をしてから堤防は崩れなくなり正保四年(一六四七)千間土堤は完成。深津沖新田百七町歩の干拓させる入封時深津村の石高は七六九石であったものがこの干拓によって二〇〇八三石にもなった。
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』

深津塩崎神社の注連柱と拝殿

才の尾(崖)

参拝を終えた私はもと神社があったという崖(才ノ尾)を見上げた。そして木の柵の奥に防空壕の跡を発見し因島の造船所周辺にもこのような壕がたくさん残っていることを思い出した。

崖下の防空壕跡

参考までに昭和15年頃の深津嶋山周辺地図と福山空襲被災地域図を載せておく。深津の国民学校(現在の幼稚園)と長尾寺周辺、辻の坂の麓などが燃えたことがお分かりになるだろう。

昭和15年頃の福山市街地図(あき書房による復刻)

福山空襲被災地図より深津高地を拡大

深津の被災状況については『福山空襲の記録(昭和五十年)』における藤井猛氏(当時盈進工業学校勤務 四十三才)の回想が非常に参考になる。

○八月八日午後五時過学校から帰宅して間もなく六時過ぎであったろう。空襲警報が発令され、隣組の人々は鉄帽にゲートル、モンペ姿で直ちに防空壕に避難した。ふと米軍機が近距離に接近し、照明弾を落した。暮れがかる空が真昼の如く明るくなり、その白光はしばらく続いた。著者は…鉄兜を被り、自転車に乗って学校へ急行した。その時北の方吉津旭通り辺に車から西へもくもくと黒煙が上がるのを見た。八時過ぎであったろう。まだ暮れていないのではっきり見えたのだ。三吉町の通りは人影もまばらであった。
 いよいよ日が暮れると大部隊のB二十九の編隊が東の方から市の上空を旋回して、焼夷弾攻撃を何回も何回も加えた。…
 午後十一時頃校舎も三吉町本通りも松原も焼けていない。本校は助かるかも知れぬと思った。そのうち日本化薬工場が火焰に包まれた。次いで、山陽線南側の藁工品倉庫が火災になった。南北の火焰に照し出され校舎四棟が黒々と浮び上がっていたので敵機は見逃す筈はない。最後に焼夷爆弾が武道場(校舎の西側)の剣道部物置に落下した。
 武道場の火は続いて渡廊下にそして二階建木造校舎二棟に延焼した。…次いで東側の武器庫宿直室等を総なめに焼いた。夜が次第に明けてゆくと惨たんたる焼跡だ。…
 学校の周辺を自転車に乗って廻って見ると、北の方三吉町本通りと三枚橋東側の松原は焼けずに元のままの状景であった。南の方、日本化薬の工場は全焼し、福山城天守閣も焼失、市の中央部は完全に廃虚となった。手城町も広い範囲で煙があがっていた。東深津町は深津高地に立つ長尾寺が先ずねらわれ西、沖、深津小学校を中心に周辺が全焼していた。下丁分辺りは大部分が焼失し、田圃には焼夷弾が落ちて稲が焼けた跡が約十米おきぐらいに点々と続いていた。上丁分、王子山附近は残っていた。

防空壕からほど近くに何故か足踏み水車(戦後動力ポンプが普及するまではこれが主流だった)が置かれていた。本体に墨で昭和拾参年五月と書かれており焼失を免れたことがわかる。過去と現在をつなぐ木造品に私は不思議な縁を感じた。

足踏み水車
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福山市東深津町6丁目の深津塩崎神社(前編) 

2012年12月30日 | 郷土史
JR山陽本線・沖踏切を渡り左手の坂に目を向ける。自動車が頻繁に行き交う道路は辻の坂の丁字路交差点に通じているが、私が寄り道をして向かうのは歩道の方だ。

沖踏切から休憩所のある山を望む

休憩所(地蔵堂)

以前から深津嶋山の中腹に休憩所(東深津町6丁目11-1の東側)らしきものが建っていることは知っていたが、行ったことはなかった。辻堂によく似た造りで奥に涎掛けをつけた3体の地蔵が安置されている。

休憩所(地蔵堂)に安置された地蔵

深津塩崎神社へ向かう

地蔵堂で一服した後川沿いの道に入り北東へ進む。私は沖組会館脇に設置された掲示板の先に自転車を止めた。

深津塩崎神社の掲示板

そして新年の祈願祭の時刻を確認し石鳥居前で一礼して深津塩崎神社(同町6丁目15-36)の境内に入った。参拝者が一人もいないのは珍しい。

深津塩崎神社の鳥居前

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コーヒーを抽出しながらふと思う

2012年12月30日 | 日記
コーヒーの甘い香りを嗅ぎながら私は広島県知事と福山市長の対立について考えていた。港町の埋立架橋計画がポシャリ、知事に対して横柄な態度を取る市長だが、ホテルプリンスの火災事故発生など悪いニュースが全国に流れ逆風に晒されている。

我を張っても得るものは少ないだろうと知人が指摘していたが、これは僻地の住民に関しても同じことが言える。ゴネれば相手が折れる(金が落ちる)という時代は終わった。市全体の利益を考えて理性的に行動してもらいたいと中心部の人間は冷ややかに見ている。

釣り人像の前で市の杜撰な仕事を糾弾する人を役所もそろそろ無視できなくなっているのではないだろうか。来年はもっと膿が出ると私は予想する(笑)

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