私が注目したのは表紙の地図(鳥瞰図)である。福山城二の丸付近に南高(戦前は県女)と記載されているので昭和24年~28年の間に発行されたものと思われる。同時期誠之館は東高校と呼ばれていた。この南高校は昭和28年に広島県立福山葦陽高校と改称する。
今年廃止された競馬場の北側に市営球場(水呑の市民球場とは別物)が描かれているのが貴重だ。球場が福山護国神社跡地(現草戸町5丁目)に短期間存在したことを知る人は今や少ない。護国神社の建設が始まったのは戦時中のことだが、完成直前に米軍の空襲(昭和20年8月8日)によって破壊されたため「幻の神社」とも言われる。私はこの話を水呑の古老(大正生まれ)から聞いた。(旧芦田川)廃川地に福山護国神社(→市民球場→現・福山市体育館)、競馬場が造られたわけだが、埋め立て前は五本松の海水浴場があったという。
備後護国神社の大鳥居は敗戦後丸之内1丁目に移築された(福山市体育館前の石橋は数少ない遺構の一つである)。ちなみに沖野上町5丁目のホテルグランティア前(西側)の歩道が旧芦田川の左岸土手にあたる。
今年廃止された競馬場の北側に市営球場(水呑の市民球場とは別物)が描かれているのが貴重だ。球場が福山護国神社跡地(現草戸町5丁目)に短期間存在したことを知る人は今や少ない。護国神社の建設が始まったのは戦時中のことだが、完成直前に米軍の空襲(昭和20年8月8日)によって破壊されたため「幻の神社」とも言われる。私はこの話を水呑の古老(大正生まれ)から聞いた。(旧芦田川)廃川地に福山護国神社(→市民球場→現・福山市体育館)、競馬場が造られたわけだが、埋め立て前は五本松の海水浴場があったという。
備後護国神社の大鳥居は敗戦後丸之内1丁目に移築された(福山市体育館前の石橋は数少ない遺構の一つである)。ちなみに沖野上町5丁目のホテルグランティア前(西側)の歩道が旧芦田川の左岸土手にあたる。