玉島歴史民俗海洋史料館前の道路から一本南の新町通りへ移動する。東へ約150m行くと甕江先生旧宅と書かれた石碑が建っている。


大きな屋敷の格子戸には案内板が紐で括り付けられており、大国屋という屋号の廻船問屋であったことが分かる。
大国屋 川田甕江生家
江戸時代中期(一八〇〇年頃)の建物で綿廻船問屋の店舗として使用されていました、当家は川田甕江の生家であり氏は和歌を小野務に学び儒学を鎌田玄渓に学ぶ板倉勝静将軍徳川慶喜に従い江戸に至る
明治五年三島中州と共に「二松学舎」を起こした。
また玉島事変に熊田恰の自刃に際し玉島を戦火から守り部下の助命嘆願書を備前藩に提出する草案を作った。
維新後、東宮待講、貴族院勅選となり東大教授宮中顧問官に任ぜられた。
平成四年八月 新町ルネッサンス振興会
川田甕江は幕末の漢学者で玄孫(やしゃご)に相良直美がいる。甕江(おおこう)とは玉島港の別名で港の形が水甕に似ていることに因む。甕江の生家は現在合資会社安原倉庫(玉島中央町1丁目15-11)の事務所として使用されている。



大きな屋敷の格子戸には案内板が紐で括り付けられており、大国屋という屋号の廻船問屋であったことが分かる。
大国屋 川田甕江生家
江戸時代中期(一八〇〇年頃)の建物で綿廻船問屋の店舗として使用されていました、当家は川田甕江の生家であり氏は和歌を小野務に学び儒学を鎌田玄渓に学ぶ板倉勝静将軍徳川慶喜に従い江戸に至る
明治五年三島中州と共に「二松学舎」を起こした。
また玉島事変に熊田恰の自刃に際し玉島を戦火から守り部下の助命嘆願書を備前藩に提出する草案を作った。
維新後、東宮待講、貴族院勅選となり東大教授宮中顧問官に任ぜられた。
平成四年八月 新町ルネッサンス振興会
川田甕江は幕末の漢学者で玄孫(やしゃご)に相良直美がいる。甕江(おおこう)とは玉島港の別名で港の形が水甕に似ていることに因む。甕江の生家は現在合資会社安原倉庫(玉島中央町1丁目15-11)の事務所として使用されている。

