「紙芝居のおっさんが公園に来とったど」
悪ガキの一人が情報をもたらすと私たちはおっさんを呼びに行ったものである。おっさんは子どもたちの暮らす地区の神社境内に移動して自転車の荷台に積んだ大きな木箱から道具と駄菓子を取り出した。まずは麦芽水飴を売るのである。料金は50円程度ではなかっただろうか。小学校の前でヒヨコを売るおっさんがどこか陰があるのに対して紙芝居屋は終始明るかった。話術は流石に巧みでガキどもは食い入るように絵を見ていた。内容はヒーロー物が多かったと思う。
昭和50年代に入ってすぐにおっさんは来なくなった。テレビのアニメや漫画の影響で商売が成り立たなくなったのだろう。そしてスペースインベーダーのヒットを発端にゲーム&ウォッチが開発されると今度は公園で遊ぶ子どもが激減した。紙芝居屋が消えてからわずか5年のうちに遊び方は大きく変わったのである。自ら考える楽しみを放棄する傾向はこの辺から始まっていたのかもしれない。
悪ガキの一人が情報をもたらすと私たちはおっさんを呼びに行ったものである。おっさんは子どもたちの暮らす地区の神社境内に移動して自転車の荷台に積んだ大きな木箱から道具と駄菓子を取り出した。まずは麦芽水飴を売るのである。料金は50円程度ではなかっただろうか。小学校の前でヒヨコを売るおっさんがどこか陰があるのに対して紙芝居屋は終始明るかった。話術は流石に巧みでガキどもは食い入るように絵を見ていた。内容はヒーロー物が多かったと思う。
昭和50年代に入ってすぐにおっさんは来なくなった。テレビのアニメや漫画の影響で商売が成り立たなくなったのだろう。そしてスペースインベーダーのヒットを発端にゲーム&ウォッチが開発されると今度は公園で遊ぶ子どもが激減した。紙芝居屋が消えてからわずか5年のうちに遊び方は大きく変わったのである。自ら考える楽しみを放棄する傾向はこの辺から始まっていたのかもしれない。

児童虐待に関するニュースを見るたびに「忍耐力のない幼稚な大人」が増殖している現実を強く意識する。年寄りと一緒に生活していた私の幼い頃は「我慢することは当たり前」であった。例えばテレビ番組の選択権は子どもには無かった。唯一の例外は「マジンガーZ」だったが、これは単に祖父が気に入っていたからかもしれぬ(笑)
3月28日の産経新聞で加地伸行さんが「抑止力なき個人主義の害」というエッセイの中で「人間の屑」が発生する原因を分析しておられた。
…戦後教育、わけても義務教育において、東北アジアにおける死生観の<私たちの生命は、祖先以来の生命の連続として存在する>という儒教的伝統をほとんど教えてこなかったことに根本的原因があると私は思っている。
戦後教育においては、祖先という抑止力を教えてこなかったため、抑止力なき個人主義教育からは、ただ利己主義者を生み出すのみとなった。そういう利己主義者が頼るのは金銭だけである。祖先も、祖先以来の生命の連続の大切さ、厳粛さも分からない。ひたすら求めるのは日本国憲法の「婚姻は両性の合意のみに基づく」夫婦の幸せだけであり、子を虐待し<殺人>して恥じぬ人間の屑が生まれてきたのだ。
私が入学した屑高校では道徳教育に無関心な教員がすこぶる多く偏った思想を押し付けてきた。教員とは名ばかりの活動家の短絡思考にはただ呆れるばかりであった。愚か者は「自分たちの考え以外は×だ」と発言して生徒を洗脳しようと無駄な努力をしたが、私は「お前らの属する団体自体がそもそも×だろうが」と思って腹の中で笑っていた。
思い返せば、己の非を決して認めようとせず全て他人のせいにする人間は既に20年以上も前から増えていたのである。彼らの子どもがクローンだと考えれば加地さんの指摘は素直に頷ける。
3月28日の産経新聞で加地伸行さんが「抑止力なき個人主義の害」というエッセイの中で「人間の屑」が発生する原因を分析しておられた。
…戦後教育、わけても義務教育において、東北アジアにおける死生観の<私たちの生命は、祖先以来の生命の連続として存在する>という儒教的伝統をほとんど教えてこなかったことに根本的原因があると私は思っている。
戦後教育においては、祖先という抑止力を教えてこなかったため、抑止力なき個人主義教育からは、ただ利己主義者を生み出すのみとなった。そういう利己主義者が頼るのは金銭だけである。祖先も、祖先以来の生命の連続の大切さ、厳粛さも分からない。ひたすら求めるのは日本国憲法の「婚姻は両性の合意のみに基づく」夫婦の幸せだけであり、子を虐待し<殺人>して恥じぬ人間の屑が生まれてきたのだ。
私が入学した屑高校では道徳教育に無関心な教員がすこぶる多く偏った思想を押し付けてきた。教員とは名ばかりの活動家の短絡思考にはただ呆れるばかりであった。愚か者は「自分たちの考え以外は×だ」と発言して生徒を洗脳しようと無駄な努力をしたが、私は「お前らの属する団体自体がそもそも×だろうが」と思って腹の中で笑っていた。
思い返せば、己の非を決して認めようとせず全て他人のせいにする人間は既に20年以上も前から増えていたのである。彼らの子どもがクローンだと考えれば加地さんの指摘は素直に頷ける。

本来、ちくわ(竹輪)の中央には竹が入っている。備後の手にぎりちくわは白身魚(すり身)を主原料として作られるので、歯応えがあり自然な美味しさがウリとなっている。澱粉と旨味調味料を大量にぶち込んだ偽ちくわとは全然別物だ。
私は地元のことをあまり褒めない男だが、この食品はどこに出しても恥ずかしくない傑作だと思っている。製造業者の多くは架橋問題で揺れる港町にある。私が最高点をつけるのは「T本店」の製品。そしてお手ごろ価格のちくわで健闘しているのが「S商店」。地元民であればイニシャルが何を示しているか、すぐにピンとくるだろう(笑)
話し合いのために再び港町を訪れる予定の湯崎広島県知事には手にぎりちくわを鱈腹食べていただきたいものだ。

私にとっての母の味は何だろうかと考えてみたところ、2つあった。オムライスとばら寿司である。後者は特別な日に作ることもあって子どもはワクワクしていたものである。私が作るばら寿司は母が作っていたものより甘味と酸味を抑えているが、工夫して美味しくする精神は完全に引き継いだと思っている。
旬の食材(比較的安く手に入る)を入れて小奇麗に盛るのが基本だ。広島県東端という地のため明らかに岡山のばら寿司(藩主の出した質素倹約令に庶民が反抗して知恵を絞り生み出したという説あり)の影響を受けていると思う。
焼き穴子を入れたかったが、断念。サゴシの酢〆、スミイカの湯引き、絹さや、ワラビなどを使った。赤、黄、緑の食材をさりげなく配置するばら寿司は見た目の自然な美しさがウリのイタリア料理と類似点が多い。「暑苦しさ」を感じさせない岡山流を「備後の人間」として積極的に支持したい(笑)

最近、田原総一朗さんを見かけないなと思っていたら、何と看板番組が終わっていたとは…。私は水島総さんの文章を読んでその事実を知ったのである。
一九八九年四月に放送開始以来、二十一年間続いていたテレビ朝日のサンデープロジェクトが三月いっぱいで終了した。メインキャスターの田原総一朗(敬称略)に対する好き嫌いや明らかな左翼的偏向はともかく、報道系のテレビ番組としては数少ないオリジナリティーのある番組だった。
…テレビ番組は「結果」であり、視聴率によってスポンサーの付き具合が大きく左右される。サンプロの視聴率は、過去には一〇%越えもあったが、過去ニ十年間の平均で七・六%、最近は六・六%程度に落ちていた。スポンサーも、最近ではパチンコ屋や高利貸し(消費者金融)ばかりが増えていた。だから、テレビ局として、新番組を企画することもあり得るのである。
田原は自分に賛同する協力者は番組内で持ち上げ、非協力者は番組で叩きまくるといった「愛と脅し」という、まるで地上げ屋か総会屋がやるような手口の取材やインタビュー手法を駆使し、かなり面白い番組作りをした。
ジャーナリストとしての田原を批判しようとすればいくらでもできるだろうが、田原のようにありとあらゆる手段を使って日本の政治家や財界人の懐に飛び込み、彼以上に「マシ」な取材やインタビューをした人物はほとんどいない。
「サンプロ」を典型として、戦後日本のテレビメディアはそういう反権力的物語を報道番組として装い、報道として、この左翼リベラル物語を推進してきた。
戦後左翼の夢であり、中国、南北朝鮮の悲願でもあったこの物語は、ついに戦後六十四年にして民主党政権の誕生として、この日本において現実化し、実現してしまったのである。…
その結果として、田原がメインキャスターを務める番組は、民主党政権誕生によって実は「物語」を失い、「敵」を失い、中身そのものが空洞化してしまった。
更に興味深い指摘が続く。学習能力の低い(一部の)団塊の世代が最も目にしたくない「現実」を赤裸々に語っている点は秀逸だ(笑)
構造的に言って、田原やテレビ朝日は、民主党政権自体を敵にすることはできないが、このハッピーエンド物語をぶち壊す事態が起きた。鳩山や小沢という正義の主役のはずが、実は旧態依然の金権腐敗にまみれた「悪代官」と無能な「バカ殿様」だとばれてしまったのである。
それは、これまでの「物語」、すなわち、戦後日本が生みだした小泉劇場も民主党政権交代物語も全て幻想物語であり、空しき虚構そのものであったことが、日本国民に完膚なきまでにバレてしまったのである。
今、民主党政権の惨憺たる体たらくを通して日本社会に現出しているのは、戦後日本総体と、その象徴である日本国憲法が、偽善に満ちた美しい言葉だけの空虚な金権と、唯物主義を本質としていたことが暴露されている姿である。
…マスメディアの「寵児」となった田原総一朗の終焉は、この戦後日本の終焉と軌を一にしている。
同時に、テレビの報道番組がこれまで行ってきた偽善的な反戦平和の劇場型のエンタテインメントニュースショーの終焉をも意味しているのである。
新番組「サンデーフロントライン」は、民主党新政権そのものの姿のごとく、きれいごとのリベラル姿勢では、もはや新しい危機の時代に対応できない日本と日本のマスメディアの姿を曝した。
4月17日に「帰化人に関する発言」で物議をかもした石原都知事にはしたたかな計算があったものと思われる。白昼、城の堀にナトリウムを投げ込むような荒技には苦笑したが、この問題について真剣に考え出した国民も多いはずだ。愚民に知恵をつける年寄りの存在というものは決して馬鹿にできないのである。
昨年の8月6日、広島市内で「ヒロシマの平和を疑う!」という実にスパイシーな講演会があった。講師の田母神俊雄さんは、核武装や憲法改正に関する持論を展開する中で、新政権は一年持たないだろうと発言した。実際に、言論弾圧を推進する(平成の治安維持法制定などを企む)香ばしい輩の寄り集まりは急速に支持を失い、既に救いようのない領域に到達しつつある。WiLL最新号の総力特集「新聞ではわからない沖縄」と「蒟蒻問答 第49回」は一読の価値ありと付け加えておく。
