山手橋の工事の見学説明会に参加した。パンフレットを貰って席に着き担当者の説明を聞いたが、現場を見るのが一番だった。

工事は4000トンの山手橋をジャッキアップして下流側にゆっくりとスライドさせるというものだ。メロディーが流れて橋が少しずつ動く様子は私のところからも何となく分かった。


見学説明会の最大の目玉は高所作業車に乗って作業工程を確認できることだった。案の定、希望者が殺到して長蛇の列が出来た。

待ち時間に近くにいた年寄りが「こんな経験は一生に一度あるかないかじゃねー」と言ったが、全く私も同感だった。高所作業車のバスケット(カゴ)に見学者5人とオペレーターと説明者の計7人(重量制限)が乗り込み8分ほど展望できるという粋な計らいである。

私の番が回って来た時に突如雲行きが怪しくなりバスケット上昇中に突風が吹いた。ヒヤリとはまさにこのことだ。命綱(安全帯)が無ければ吹き飛ばされる位の激しさである。ヘルメットだけでなく脚もガクガク揺れた。


青ざめた表情のオペレーターと目が合ったので「怖いというのを通り越して寒さに堪えるって感じですなー。もうちょっとで前を濡らしそうだ」と話しかけた。オペレーターは私の冗談に軽く頷いて「ほんとそうですよね」と答えた。橋の下で毎日作業する人達の苦労が少しは分かった。


バスケットの中からは芦田川や堤下の集落の形状を把握することができた。これは私にとって最大の収穫であった。私達のグループが見学を終えると一旦休憩に入った。男達は尿意を必死で我慢していたのである。1時間以上も過酷な環境で頑張っていたオペレーターと説明者に労いの言葉をかけて仮設トイレにダッシュして思い切り放出した。

すっきりした私は土手に上がり山手橋東詰の完成予想図を眺めてから本庄町中・二股の荒神社にお参りした。辻堂で一休みしたいところだったが、予定が押していたので坂を一気に下り福山城を目指した。


工事は4000トンの山手橋をジャッキアップして下流側にゆっくりとスライドさせるというものだ。メロディーが流れて橋が少しずつ動く様子は私のところからも何となく分かった。


見学説明会の最大の目玉は高所作業車に乗って作業工程を確認できることだった。案の定、希望者が殺到して長蛇の列が出来た。

待ち時間に近くにいた年寄りが「こんな経験は一生に一度あるかないかじゃねー」と言ったが、全く私も同感だった。高所作業車のバスケット(カゴ)に見学者5人とオペレーターと説明者の計7人(重量制限)が乗り込み8分ほど展望できるという粋な計らいである。

私の番が回って来た時に突如雲行きが怪しくなりバスケット上昇中に突風が吹いた。ヒヤリとはまさにこのことだ。命綱(安全帯)が無ければ吹き飛ばされる位の激しさである。ヘルメットだけでなく脚もガクガク揺れた。


青ざめた表情のオペレーターと目が合ったので「怖いというのを通り越して寒さに堪えるって感じですなー。もうちょっとで前を濡らしそうだ」と話しかけた。オペレーターは私の冗談に軽く頷いて「ほんとそうですよね」と答えた。橋の下で毎日作業する人達の苦労が少しは分かった。


バスケットの中からは芦田川や堤下の集落の形状を把握することができた。これは私にとって最大の収穫であった。私達のグループが見学を終えると一旦休憩に入った。男達は尿意を必死で我慢していたのである。1時間以上も過酷な環境で頑張っていたオペレーターと説明者に労いの言葉をかけて仮設トイレにダッシュして思い切り放出した。

すっきりした私は土手に上がり山手橋東詰の完成予想図を眺めてから本庄町中・二股の荒神社にお参りした。辻堂で一休みしたいところだったが、予定が押していたので坂を一気に下り福山城を目指した。


この歳になっても知らないことは多い。つい先月のこと、南手城町の裏道を通っていた時に偶然地神さんと常夜灯が目に入った。急いでいた私が足を止めたのは背後の赤い建造物が気になったからだ。
「あれ、たこと違うか」
何と手城中公園にはたこの滑り台があったのである。

千間土手(国道2号線)より南の手城新涯(※干拓地)の石造物調査中に思いも寄らぬ物を発見することができた。

なお南側のフェンスに取り付けられたプレートにはご丁寧に「通称:たこ公園」という表示があった。手城名物の一つとして皆さんにご紹介しておく。

※太平の世において福山藩では領地を増やすため盛んに干拓が行われた(現在の福山市中心部の原型となっている)
「あれ、たこと違うか」
何と手城中公園にはたこの滑り台があったのである。

千間土手(国道2号線)より南の手城新涯(※干拓地)の石造物調査中に思いも寄らぬ物を発見することができた。

なお南側のフェンスに取り付けられたプレートにはご丁寧に「通称:たこ公園」という表示があった。手城名物の一つとして皆さんにご紹介しておく。

※太平の世において福山藩では領地を増やすため盛んに干拓が行われた(現在の福山市中心部の原型となっている)

アルファオート福山の看板を見上げる私の顔は明らかに強張り息は上がっていた。自転車で己の体一つ運ぶのも楽ではないのだから、牛馬の苦しみは想像に難くない。実際坂の頂上に到達する前にくたばった人や動物はかなりの数に上ったのではないだろうか。


中古車販売点の先(左手)には巨大な石塔が並び「千田大峠」の表示が出ている。一番大きい(高さ約3.8メートル)のが宝篋印塔(ほうきょういんとう)で隣が力士・朝香山の墓、続いて法界地蔵蓮弁座像という具合で見る者を圧倒する。私は石仏の前に立つ度に「無事で良かった」と思うのだ。

長い下りは本当にスピードが出る。しこたまかいた汗が四方に飛び散り次第に快感を覚えてくる。道路標識が見えたら右(北消防署方面)に曲がる。


奈良津の坂を下り切ると農協の前に出る。ここで道は三方に分かれる。ホームセンターの方へ行けば坪生往還にぶち当たり、西へ進むと地下道経由で焼き場に行くことも出来る。その途中に八十八箇所の第三十四番の石仏が祀られている。



もちろん私は念仏街道(水路より右側の道、先に地神あり)を走る、角さんのあの有名なポーズをして。国道313号の下(両備鉄道の路線跡の石組みが残る)を通過すると福山城下は間近である。五反田地蔵堂と上井手川に架かる五反田橋が視界に入った。私は「多くの霊に囲まれて疲れたわ」と呟きペダルを力強くこいだ。



中古車販売点の先(左手)には巨大な石塔が並び「千田大峠」の表示が出ている。一番大きい(高さ約3.8メートル)のが宝篋印塔(ほうきょういんとう)で隣が力士・朝香山の墓、続いて法界地蔵蓮弁座像という具合で見る者を圧倒する。私は石仏の前に立つ度に「無事で良かった」と思うのだ。

長い下りは本当にスピードが出る。しこたまかいた汗が四方に飛び散り次第に快感を覚えてくる。道路標識が見えたら右(北消防署方面)に曲がる。


奈良津の坂を下り切ると農協の前に出る。ここで道は三方に分かれる。ホームセンターの方へ行けば坪生往還にぶち当たり、西へ進むと地下道経由で焼き場に行くことも出来る。その途中に八十八箇所の第三十四番の石仏が祀られている。



もちろん私は念仏街道(水路より右側の道、先に地神あり)を走る、角さんのあの有名なポーズをして。国道313号の下(両備鉄道の路線跡の石組みが残る)を通過すると福山城下は間近である。五反田地蔵堂と上井手川に架かる五反田橋が視界に入った。私は「多くの霊に囲まれて疲れたわ」と呟きペダルを力強くこいだ。


唐丸の切り通しを過ぎ自転車のペダルをこぎ坂を上る。念仏街道(福山への往還)右手は桜の名所だが、国道182号が完成する以前はここから下って向こう側の又来軒辺りに行く道があったという。

国道182号の千田蓮池(南)の丁字路交差点の横断歩道を渡り(千田町4丁目に入り)左折、蔵王方面に向かう。


国道に沿って南東に進み小土井の信号機の先にコンクリート製のお堂がある。ここが寺西下の辻堂跡(千田町4丁目8)で礎石が残っている。


辻堂とは説明にあるように水野勝成公の時代に造られた庶民や旅人の休憩所だが、福山城下外れで真っ先に思いつくのは本庄町中4丁目のそれである。

もともとは本庄八幡神社参道脇(石段上り口の左手)にあったもので現在地に移築した後に倒壊したため再建したようだ。


国道182号の千田蓮池(南)の丁字路交差点の横断歩道を渡り(千田町4丁目に入り)左折、蔵王方面に向かう。


国道に沿って南東に進み小土井の信号機の先にコンクリート製のお堂がある。ここが寺西下の辻堂跡(千田町4丁目8)で礎石が残っている。


辻堂とは説明にあるように水野勝成公の時代に造られた庶民や旅人の休憩所だが、福山城下外れで真っ先に思いつくのは本庄町中4丁目のそれである。

もともとは本庄八幡神社参道脇(石段上り口の左手)にあったもので現在地に移築した後に倒壊したため再建したようだ。


祝いの席には欠かせないイセエビ、抜群の人気を誇る万能選手のクルマエビ、寿司屋の玉子焼の原料になるシバエビ、かき揚げや海老味噌にするトビアラなど、それぞれ良さがある。だが、「お前の好きなエビを一つ挙げよ」と言われるならば私は迷うことなく「瀬戸内で水揚げされるシラサエビ」と答える。
シラサエビは正式名称をヨシエビといい、体長10cm程度(最大でも15cm)のものが備後では一般に流通している。値段と味の兼ね合いを考えるとお得な食材と思う。
たまに踊り(生)も食べるが、刺身用を買ってきて火を通すことがほとんどである。竹串を刺して塩焼きにしたものは最高の酒のアテだ。頭と殻も一緒に食べられるから無駄がない。こんなアテをお母さんが時々作ってあげればお父さんも寄り道せず早く家に帰ってくるはずだ(笑)
シラサエビは正式名称をヨシエビといい、体長10cm程度(最大でも15cm)のものが備後では一般に流通している。値段と味の兼ね合いを考えるとお得な食材と思う。
たまに踊り(生)も食べるが、刺身用を買ってきて火を通すことがほとんどである。竹串を刺して塩焼きにしたものは最高の酒のアテだ。頭と殻も一緒に食べられるから無駄がない。こんなアテをお母さんが時々作ってあげればお父さんも寄り道せず早く家に帰ってくるはずだ(笑)

唐丸の坂(切り通し)の中ほどに3体の石仏がまとめられている。もともとこれらは丘の上にあったものである。

石仏群向かいの丘には神社があるのを住宅地図で見つけた私は一度上まで行ったことがある。神社にお参りするには民家の前を通る必要があるので一声掛けるのが礼儀であろう。


藪の中を進むと墓地の上に小さな祠が4つある。その内の1つが十二神社であることは聞いたが、後は失念した。昔は鳥居があり頂上付近に昭和10年代の初めまで家が一軒建っていたという話だ。

丘の上からは下界の動きがはっきりと分かる。当時は北及び西側の川南村がよく見えたことだろう。街道歩きの際に高低差という視点を入れると一層面白みが増す。Nシステムの原型は江戸時代の初期には完成していたものと思われる。

石仏群向かいの丘には神社があるのを住宅地図で見つけた私は一度上まで行ったことがある。神社にお参りするには民家の前を通る必要があるので一声掛けるのが礼儀であろう。


藪の中を進むと墓地の上に小さな祠が4つある。その内の1つが十二神社であることは聞いたが、後は失念した。昔は鳥居があり頂上付近に昭和10年代の初めまで家が一軒建っていたという話だ。

丘の上からは下界の動きがはっきりと分かる。当時は北及び西側の川南村がよく見えたことだろう。街道歩きの際に高低差という視点を入れると一層面白みが増す。Nシステムの原型は江戸時代の初期には完成していたものと思われる。

神辺町川南から千田町大字千田に入ってすぐ工場が2つある。街道左手が品川リフラクトリーズ(旧名は品川白煉瓦)株式会社岡山工場千田製造室で現在は稼動していない。この向かいに位置するのが子会社の品川窯材株式会社で両会社の建つ場所がまさしく湯坂谷という字である。

どちらも日本鋼管(現JFEスチール)が福山に来てから出来たという話だが、土地買収が行われるまでは田んぼが広がっていたそうだ。

親会社の正門から南側が唐丸(とうまる)の坂で道路脇に大きな石碑が建っている。江戸中期までは湯坂・唐丸の2つの峠越えはかなりの難所であったことが『神辺町史 前巻』に記されている。
福山藩領では、その米を二俵ずつ担うて湯坂の峠を越え、福山築切における藩の倉庫に運んだ。牛や馬を有するものは一頭が三俵を背にのせて行くので輸送上甚だ優位であった。
当時、湯坂や唐丸の峠は、石段を上って越えるという悪路であったから、天明五年(一七八五)川南村の庄屋菅波市左衛門は、組頭重政新右衛門、同重政政治郎、同晝田谷治と諮り、且つ千田村の庄屋と協議し、藩の許可を得て、寄附を募集し、湯坂を一間(一・八二メートル)唐丸を九尺(二・七三メートル)切り下げたので、輸送上大いに利を得ることになった。藩主はこれを賞して一代限り苗字を免したという。さもあるべきことであろう。
『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』
幕府瓦解後、更に何度か開鑿工事が行われて緩やかな勾配の坂になったおかげで今では自転車でも難なく通過することができる。長年に亘る先人達の苦労を今に伝えるのが唐丸の開鑿碑である。


どちらも日本鋼管(現JFEスチール)が福山に来てから出来たという話だが、土地買収が行われるまでは田んぼが広がっていたそうだ。

親会社の正門から南側が唐丸(とうまる)の坂で道路脇に大きな石碑が建っている。江戸中期までは湯坂・唐丸の2つの峠越えはかなりの難所であったことが『神辺町史 前巻』に記されている。
福山藩領では、その米を二俵ずつ担うて湯坂の峠を越え、福山築切における藩の倉庫に運んだ。牛や馬を有するものは一頭が三俵を背にのせて行くので輸送上甚だ優位であった。
当時、湯坂や唐丸の峠は、石段を上って越えるという悪路であったから、天明五年(一七八五)川南村の庄屋菅波市左衛門は、組頭重政新右衛門、同重政政治郎、同晝田谷治と諮り、且つ千田村の庄屋と協議し、藩の許可を得て、寄附を募集し、湯坂を一間(一・八二メートル)唐丸を九尺(二・七三メートル)切り下げたので、輸送上大いに利を得ることになった。藩主はこれを賞して一代限り苗字を免したという。さもあるべきことであろう。
『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』
幕府瓦解後、更に何度か開鑿工事が行われて緩やかな勾配の坂になったおかげで今では自転車でも難なく通過することができる。長年に亘る先人達の苦労を今に伝えるのが唐丸の開鑿碑である。

