東京出張(9/11)前日の日曜日、早めに奈良を出て靖国神社に立ち寄ることにした。靖国の近くを通ったことはあったが、鳥居をくぐるのはこれが初めてだった。
JR市ヶ谷駅に降り立ったのは、お昼を少し過ぎた頃だ。駅舎を出ると突然、ムッとした異臭に包まれ、思わずハンカチで鼻を押さえた。見ると外堀の水は大量発生したアオコに覆われ、濃い黄緑色に染まっている。そこから、磯に打ち上げられた海藻のような悪臭が漂ってくる。
空は晴れ上がり、太陽がじりじりと照りつけてくる。まるで映画で見た8月15日の空だ。9月も半ばというのに、この日の東京は最高気温が33.7℃と、平年(28.0℃)を5.7℃も上回る厳しい暑さだった。
背中に汗をにじませながら、靖国通りをひたすら東へ上った。やがて、瓦の載った靖国神社の長い塀が現れる。京都の大徳寺付近の景色によく似ている。靖国通りが、まるで北大路通りのように見えて困った。
南門から靖国の境内に入ると、右手に大村益次郎像(陸軍の創設者)と大鳥居(第一鳥居)、左手には拝殿と本殿が見える。この日はまず、真っ直ぐ遊就館(ゆうしゅうかん)に向かった。
遊就館は、明治15年に開館したわが国初の軍事博物館だ。「遊就」とは、高潔な人物に就いて交わり学ぶという意味だそうだ。合祀者の遺品や兵器など約3千点が展示され、収蔵品は10万点を越える。入場料は800円だった。
岡崎久彦氏(元駐タイ大使)は、産経新聞「正論」欄で遊就館の展示(説明文)の反米的な記述を問題にし、「この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなるとまであえて言う」と書いた(「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」06.8.24付)。
靖国はこれに直ちに反応し、翌日の産経で「内容を変更することを決めた」ことを明らかにした(06.8.25付)。直後の「朝まで生テレビ」で田原総一朗が言及していたから、ご存じの方も多いだろう。
しかしこの日には、まだ「変更」はできていなくて、「米国は国内経済の復興を目的に対日開戦を志向したと解釈できる内容」(同紙)のままだった。
それにしても遊就館の展示物には圧倒される。玄関ホールには三菱零式艦上戦闘機52型(ゼロ戦)。そのほか高速艦上爆撃機・彗星、88式7.5糎(サンチ)野戦高射砲、人間魚雷・回天…。
97式中戦車にも、始めてお目にかかった。もと戦車隊の小隊長だった司馬遼太郎氏が「この戦車の最大の欠陥は、戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もないにひとしかった」(新潮文庫『歴史と視点』)と書いたいわくつきの戦車だ。
全長5.52m×全高2.23mと、ホンダのステップワゴン(4.63×1.77)よりひと回り大きいはずだが、塗装が新しいからか、まるでオモチャだ。大砲の砲身も短い。隣に重厚な黒塗りの回天(全長14.75m×直径1m)があるので、よけい貧相に見える。
館内に展示室は全部で20室ほどあり、中心は太平洋戦争戦争の展示(10室)だ。さすがに館内には中・韓国語の表記はなく、所々に英語の表示がついている。出口に近い数室では、壁一面にハガキ大の遺影(遺族らの提供による白黒写真)がびっしりと貼られ、息苦しさを覚える。売店では軍帽や徽章などのレプリカやのらくろグッズ、戦闘機・軍艦のプラ模型などが売られていて、多くの人を集めていた。
外へ出ると、何やら騒がしい。第二鳥居のあたりから、ラッパを吹く数人の楽団を先頭に、軍服姿の兵隊2人がボロボロの旭日旗(きょくじつき・朝日を描いた軍旗)を掲げて歩いてくる。その周りを見物人が取り囲み、競って携帯のカメラで撮っている。まるでディズニーランドのパレード見物のノリだ。
写真がその一団だ。拝殿前で敬礼し、そこで解散した様子だ。8月15日のTVニュースでよく見る風景だが、普段の靖国でお目にかかれるとは思わなかった。
靖国の参拝客には高校生のグループや若いカップルが多い。遊就館の展示や、「報道機関の写真撮影・インタビュー禁止」の看板などを別にすれば、予想していたような重々しさはない。敷地も、奈良県内の橿原神宮や大神神社(おおみわじんじゃ=三輪明神)に比べると狭く、天理市新泉町の大和神社(おおやまとじんじゃ=「戦艦大和」命名の神社)を思わせるたたずまいだった。
小泉首相の参拝で存在感が増した靖国だが、戦後60年以上が過ぎ、良かれ悪しかれ、参拝する人々から戦争の記憶が薄れている。この先、議論がどちらへ進展するにせよ、人々の「記憶の風化」だけは不可逆的に進んでいく、確かなのはそれだけだ。
JR市ヶ谷駅に降り立ったのは、お昼を少し過ぎた頃だ。駅舎を出ると突然、ムッとした異臭に包まれ、思わずハンカチで鼻を押さえた。見ると外堀の水は大量発生したアオコに覆われ、濃い黄緑色に染まっている。そこから、磯に打ち上げられた海藻のような悪臭が漂ってくる。
空は晴れ上がり、太陽がじりじりと照りつけてくる。まるで映画で見た8月15日の空だ。9月も半ばというのに、この日の東京は最高気温が33.7℃と、平年(28.0℃)を5.7℃も上回る厳しい暑さだった。
背中に汗をにじませながら、靖国通りをひたすら東へ上った。やがて、瓦の載った靖国神社の長い塀が現れる。京都の大徳寺付近の景色によく似ている。靖国通りが、まるで北大路通りのように見えて困った。
南門から靖国の境内に入ると、右手に大村益次郎像(陸軍の創設者)と大鳥居(第一鳥居)、左手には拝殿と本殿が見える。この日はまず、真っ直ぐ遊就館(ゆうしゅうかん)に向かった。
遊就館は、明治15年に開館したわが国初の軍事博物館だ。「遊就」とは、高潔な人物に就いて交わり学ぶという意味だそうだ。合祀者の遺品や兵器など約3千点が展示され、収蔵品は10万点を越える。入場料は800円だった。
岡崎久彦氏(元駐タイ大使)は、産経新聞「正論」欄で遊就館の展示(説明文)の反米的な記述を問題にし、「この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなるとまであえて言う」と書いた(「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」06.8.24付)。
靖国はこれに直ちに反応し、翌日の産経で「内容を変更することを決めた」ことを明らかにした(06.8.25付)。直後の「朝まで生テレビ」で田原総一朗が言及していたから、ご存じの方も多いだろう。
しかしこの日には、まだ「変更」はできていなくて、「米国は国内経済の復興を目的に対日開戦を志向したと解釈できる内容」(同紙)のままだった。
それにしても遊就館の展示物には圧倒される。玄関ホールには三菱零式艦上戦闘機52型(ゼロ戦)。そのほか高速艦上爆撃機・彗星、88式7.5糎(サンチ)野戦高射砲、人間魚雷・回天…。
97式中戦車にも、始めてお目にかかった。もと戦車隊の小隊長だった司馬遼太郎氏が「この戦車の最大の欠陥は、戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力も攻撃力もないにひとしかった」(新潮文庫『歴史と視点』)と書いたいわくつきの戦車だ。
全長5.52m×全高2.23mと、ホンダのステップワゴン(4.63×1.77)よりひと回り大きいはずだが、塗装が新しいからか、まるでオモチャだ。大砲の砲身も短い。隣に重厚な黒塗りの回天(全長14.75m×直径1m)があるので、よけい貧相に見える。
館内に展示室は全部で20室ほどあり、中心は太平洋戦争戦争の展示(10室)だ。さすがに館内には中・韓国語の表記はなく、所々に英語の表示がついている。出口に近い数室では、壁一面にハガキ大の遺影(遺族らの提供による白黒写真)がびっしりと貼られ、息苦しさを覚える。売店では軍帽や徽章などのレプリカやのらくろグッズ、戦闘機・軍艦のプラ模型などが売られていて、多くの人を集めていた。
外へ出ると、何やら騒がしい。第二鳥居のあたりから、ラッパを吹く数人の楽団を先頭に、軍服姿の兵隊2人がボロボロの旭日旗(きょくじつき・朝日を描いた軍旗)を掲げて歩いてくる。その周りを見物人が取り囲み、競って携帯のカメラで撮っている。まるでディズニーランドのパレード見物のノリだ。
写真がその一団だ。拝殿前で敬礼し、そこで解散した様子だ。8月15日のTVニュースでよく見る風景だが、普段の靖国でお目にかかれるとは思わなかった。
靖国の参拝客には高校生のグループや若いカップルが多い。遊就館の展示や、「報道機関の写真撮影・インタビュー禁止」の看板などを別にすれば、予想していたような重々しさはない。敷地も、奈良県内の橿原神宮や大神神社(おおみわじんじゃ=三輪明神)に比べると狭く、天理市新泉町の大和神社(おおやまとじんじゃ=「戦艦大和」命名の神社)を思わせるたたずまいだった。
小泉首相の参拝で存在感が増した靖国だが、戦後60年以上が過ぎ、良かれ悪しかれ、参拝する人々から戦争の記憶が薄れている。この先、議論がどちらへ進展するにせよ、人々の「記憶の風化」だけは不可逆的に進んでいく、確かなのはそれだけだ。