童門冬二著の小説『蒲生氏郷』を楽しく読んだ。
雪降りの縁側で、窓の雪の明るさを借りて、来る日も来る日も読書だった。
現在の会津若松の基礎は文武両道に優れた人材・蒲生氏郷によって築かれ、郷土の恩人と言われている。
先日十日市に行った折りに、神明通り脇の興徳寺に蒲生氏郷公の墓所を訪ねた。
また最近、関連する拙ブログへ、keiさん(ブログ『京の辻から』)からコメントをいただき、童門冬二著の小説『蒲生氏郷』を知った。
いつか読んでみたいと思っていた。
とかく幕末・戊辰の会津に目が向きがちだったが、古代からの会津の歴史を見つめ直したいとも思っていた。
「小説蒲生氏郷」は分厚い約700ページの集英社文庫で、カバーには
《かつて織田信長から受けた薫陶を忘れず、商人優遇の領地経営を心がける戦国武将・蒲生氏郷。
戦場往来で出世を重ね、独自の経営哲学を実践するかれの周囲では、さまざまな商人が、新たな人生をきりひらいていく。
乱世に芽吹いた商いの道とは何か。後に「近江商人育ての親」と呼ばれる蒲生氏郷の生涯を通じて”商いの原点”を高らかにうたいあげた異色の戦国ロマン。
全1冊・決定版。》とある。
また、書評には
《「信用」「情報」「忍耐」「才覚」「倹約」をモットーに一世を風靡した近江商人の「商いの原点」と天秤棒精神。
天下取りの苛烈な時代を背景に、"信用"第一の着実な歩みが生み出す世界を切り開いていった男と、
目まぐるしい闘争が繰り返される権力の世界に生きた男の生涯を通して、現代の日本人の生き方、経営のあり方を問うた雄渾の長編小説。》と。
読了して心に響いたシーンをあげれば、
・辞世の句を詠んだいきさつ(利休の死)
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
・氏郷が仁右衛門の息子仁五郎に語ること(茶室の再会)
・ひたすらに、この世のむなしさを思う氏郷(春の山嵐)・・・などか。
本書は、もともと『近江商人魂-蒲生氏郷と西野仁右衛門』のタイトルで発刊されたものであり、
戦国武将としての蒲生氏郷と、近江商人の西野仁右衛門の生き方を対比させるかたちで進行していく。
氏郷は実在の人物だが、西野仁右衛門は、武士出身の坊主の行商人・鈴木正五が教える”行商に必要なホトケの心”を具現した近江商人だ。
調べてみたら、「天秤棒」に出てくる鈴木正五は、歴史上の人物、禅僧・鈴木正三ではないだろうか。
今まで琵琶湖周辺の地理には疎かったが、少しわかり興味がわいた。
今年の秋には、大学の同級会が琵琶湖湖畔の彦根で開催予定である。
近くの日野や観音寺城跡、小谷や賤ヶ岳など、歴史の土地を訪ねてみたい。今から楽しみにしている。
かつて読んだ司馬遼太郎の『街道をゆく』1巻「湖西のみち」や24巻「近江散歩」などを本棚から出して読みはじめた。
(参考)
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会津若松観光公社HP(http://www.tsurugajo.com/history/index.htm)
【蒲生氏郷時代】より。
○ 会津若松の基礎を作った、文武両道に優れた名将
蒲生氏郷は、戦国の英雄・織田信長の寵臣で、信長の娘・冬姫と結婚しています。現在の会津若松の基礎は彼によって築かれました。黒川を会津と改めたのも蒲生氏郷です。文武両道に優れた人材でしたが、わずか40才でこの世を去りました。
1590(天正18年)・・・ 豊臣秀吉の命により伊達政宗が陸奥国岩手山城(宮城県)へと移る。会津、仙道十一郡が蒲生氏郷に与えられました。
1592(文禄元年)・・・ 氏郷は秀吉にしたがって九州名護屋にくだり、朝鮮の役へ加わる。
その間、六月から黒川城の改築を中心に城下町の建設がはじまる。
1593(文禄2年)・・・ 六月には七層の天守閣をもつ城郭の改築とともに、城下町の建設がほぼ完成し、はじめて家臣団の住む郭内ができ、庶民の住む郭外とは土居と外堀で分け、黒川を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名。
1595(文禄4年)・・・ 二月七日、氏郷が亡くる。享年40歳。京都の大徳寺昌林院に葬り、遺髪が若松の興徳寺に葬らる。氏郷のあとは、子の秀行が継ぐ。
1598(慶長3年)・・・ 秀行が宇都宮に十八万石で転封。
○ 郷土の恩人・蒲生氏郷
このような、氏郷の功績は、今も私たちの生活に大きな影響を残しています。大町の十日市は会津の正月を彩る一大イベントですし、夏のお日市はまちまちの風物詩として親しまれています。氏郷が近江国から移入した漆器と酒造は、歴史と自然に恵まれた郷土会津を代表する2大地場産業として全国に知られています。会津若松市民が今も郷土の恩人として氏郷を讃えていることも当然といえます。
信長は安土城を築き、楽市楽座を設け、城下町を整えるなど、自由で豊かな桃山時代をおこしたことで有名ですが、その女婿でもある氏郷も会津に大きな足跡を残しました。
氏郷は会津に入ると鶴ヶ城の整備に着手しました。氏郷の郷里近江の国からたくさんの技術者を呼び寄せ、現在も残されている野面積み(のづらづみ)の天守台を築き、七層の天守閣を建てたと伝えられています。
また、葦名時代の手狭な城下を一新し、郭内から神社やお寺を外に出して家臣の屋敷を連ね、車川を利用して外堀を築き、郭外には庶民を住まわせ、その要所に神社やお寺を配置するなど今日の会津若松市街地の骨格を定めました。そして郷里である近江国蒲生郷の「若松の森」にちなんで黒川を若松と改めました。
さらに商工業の発展を奨励するため、いくつかの有意義な施策を講じました。その一つは市を設けて生産物の交易を図ったことです。馬場町は「1」と「8」、本郷町は「2」と「7」、三日町は「3」、柱林寺町は「4」と「9」、大町は「5」と「10」、六日町は「6」と、日を定めて市を設けました。次に近江国から木地師と塗師を招き、会津の地場産業として今も大きな役割を占めている会津漆器の基礎を作りました。また酒造や金工など、上方の優れた技術を会津へ移入することで後世に伝えられる産業の振興を図りました。
○ 文武両道
氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には興味深いものがあります。
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