月一度の診察日に、いつも何か本を持参する。結構な時間になる病院での待ち時間を埋めるためだ。
また、妻の毎月末の診察日にも同様に、駐車場での待ち時間を読書で過ごしている。
不思議なことに、その一時が、しばし惰性の時の流れを止め、今を、明日を考える貴重な時間となっているように思える。
昨日、妻を病院まで送る間際に本棚から何気なく手に取った本は、岡百合子著「白い道を行く旅」だった。
題名を見て随筆と思い取ったが、本の帯に「僕は12才」と見えた。そうか、あの高史明さんの奥さん、「ぼくは12才」高真史のお母さんの半生史だった。
本の後ろの扉には「1993.12.12郡山・東北書房で求む」とメモがあった。たぶん、いろいろな場面で、高史明の思いに触れていた時期に求めたものだろう。
すっかり忘れていたあの高史明さんを思い出しながら、ページをめくった。
本の中のアンダーラインから、遠い記憶がかすかに浮かんできた。
そこには、反戦学生同盟に参加し、レッドパージ、血のメーデー事件などの時代に高史明に出会い反対を押しきっての国際結婚、
日本と朝鮮の大きな溝、共産党活動での行き詰まり、そして一人息子の突然の死…。
彼女の苦難の中で仏のまなざしに気づくまでの波瀾に満ちた半生が書き綴られていた。
家に戻り、「わたしは12才」をもう一度開いた。
併せて、その後、高史明さんの書いた「生きることの意味 ある少年の生い立ち」と、その後の青春編3部作を本棚から取り出した。
「わたしは12才」は、中学一年生の一人息子真史君の残した、優しい、聡明な詩集だ。
その中の「アルバム」に真史君の写真を見ながら、「悲しみの中から」の両親の思い【同行三人 岡百合子】と【あとがきとして 高史明 】を読んだ。切なかった。
両親が、12才で命を絶った真史くんに、繰り返し繰り返し「なぜ」と問いながら、少年の心理、世の中の環境、民族の狭間・・・と思いを語る。
真史君の死の前に「生きることの意味」が書かれたが、真史はそれをまともに読むことなく自らの命を絶ってしまった。
父、史明氏は〈どうして、せめて一度でいいから、あの本を終わりまで読んでくれなかったんだ」〉とつぶやく。
両親が、一人息子の死を見つめ、悩み苦しみ、そして教えられたことを胸に、もう一度「生きることの意味」を読ませていただきたいと思った。
今手元に高史明の歎異抄の講義がある。この彼の行き着いた思いも、もう一度読んでみたいと思っている。
しばし自分の子どもたちを育ててきた道を振り返った。子育てもただ一生懸命だった。]
試行錯誤で、子どもたちが人として豊かな人生を歩んでくれる心を持って欲しいと。
そんな子どもたちもそれぞれに社会人となり、それぞれの人生を歩んでいる。
良かったか悪かったかはわからないが、既に手は離れた。
でも、今、日々接する孫たちには少し手を貸せるかもしれない。
「白い道を行く旅」の中に
《・・・人間とはなんと悲しいものだろう。わたしは息子の瞳に映る我が姿を見、小さないのちを全身で抱きしめながら、
、そのとき同時に、わたしの瞳にも息子の姿が映っているであろうことは考えなかった。
わたしは見る側の人間なのであった。わたしも向こうから見つめられる存在である、と言う思いが全くなかったのだ。・・・》」とあった。
せいぜい、孫の目、こころに立って対応していかなければと思っている。