「人生は浮き沈み」の感慨は、沈んでいるときに慰めに思うことだろう。
家に籠もりっきりで庭の雪をぼんやりながめる。そんなことではなかなか気は晴れそうになかった。
雪の花を写しに庭に出た。長靴が埋まるほどの積雪だ。
朝日が燦然と差し、輝く枝の雪が美しい。
真上の桐の枝を見上げると、青空に薄いもやが流れている。心が洗われるようだった。
枝の雪が、風に、陽の光にはらはらと降り落ちてくる。これを風花というのだろうか。
なんと美しいことか。感動にシャターを切った。
いつも思うことだが、ファインダーを通すと、なぜかその美しさは褪せてしまうような気がする。何故だろう。
それはたぶん、眼に映ったその美しい光景はこころのファインダーを通るからに違いない。
そしてまた、その感動は冷たい澄みきった空気がなければ生まれないものだろう。
とすると、本当の感動は、そのとき一瞬の美しさで、写真のデータは偽物の美しさかもしれない。
一瞬の感動であれば、しばらくはその余韻を楽しむことは出来るが、いずれ思い出として記憶されるものだ。
記憶をたどり、これまでの感動のいくつかは思い出せる。出来ればこれからも沢山の感動を味わえる人生でありたいものだ。
”我が生何処より来たり 去って何処にかゆく”などと、良寛は根源的な問いを自問自答し、
終わりに”縁に随いてまさに従容”とか、”騰々としてしばらく縁に任す”と解を残している。
見倣って、やはり「騰々として天真に任せ」「草木を以て隣と為す」日々を送っていこう。そう結論づけて、少し楽になった。
>なぜかその美しさは
>褪せてしまうような気がする。
という記述、カメラで写していると何時も身につまされるように実感しています。
早く感じたままにカメラに撮り込めるような腕を持ちたいものです。
いつか尋ねた土門拳記念館で、日本人の心を写しきった彼の芸術を静かに鑑賞しました。彼は「実物以上に実物である写真が本当の写真」「写真は肉眼を越える」などと述べています。
「感動できる作品を撮る!」意気込みでシャターを切りたいものですね。