■待ちに待った公開■
映画化すると知って以来、待ちに待ったが、2011年7月9日にこのブログでも紹介した「永遠の0」が映画化され、ついに昨年末の12月21日から公開が始まった。しかし実際に見に行くまでは少しの不安があったのも事実だった。と言うのも、これまで邦画には随分と裏切り続けられたうえ、TVから流れてくるCMは、ボクの最もキライな、映画を見た素人?を写して「泣けました」と言わせる的なモノが一部で流されていたからだ。
もっとも、原作者の百田尚樹さん自身が、これまで映画化を幾度か打診されても脚本が納得できず、断り続けた経緯があっての今作品であることから、その流れから言えば問題はなさそうでもあったのだが…。
そんな中、正月休みを利用して映画館に足を運んだ。そして今回は、「夫婦のいずれか片方が50歳に達した時点で、2人で¥2000」の割引が適応され、自身がシニアになった事実を突きつけられたことに少々へこみつつの入館になった。

■近年で一番の邦画■
映画の内容については記述を差し控えるが、高度なVFX技術が導入されていて、空母赤城から飛び立つ零戦の主翼が揚力を支えるために「クンッ」と、しなる所まで細かに再現されている。そんな技術の下支えもあって、本来は史実の上に乗ったフィクションであるはずのストーリーであるのに、妙にリアリティを感じてしまうため、冒頭の主人公=宮部久蔵が操る零戦が飛んでいる姿を見ただけで、ついついオジサンは涙腺を緩めてしまった。
小説では高山という新聞記者の発言がどうにも堪らなかったが、その部分の表現を別に置き換えて語るところもあった。しかし、小説の内容全てを脚本にすると時間がいくらあっても足りず、その表現はそれでウマくまとめてあるようにも思え、現代人に対して語るには、そのアプローチの方が適切であるように思えた。
また、愛情の表現に関しても、現代風の一般ウケする方法を使うのではなく、当時の人達がとったであろう、精一杯の表現に押さえられていて好感が持てる。そのことは全体にも反映されており、この時代を知らない人達のために説明臭い表現をすることもなく、史実に対する考証に基づいた=リアリズムを追求しているところが素晴らしかった。
とは言え、大東亜戦争の3年8ヶ月の流れを掴んでいる人にのみしか理解できない部分があるように思える。従って、そこを埋めるために原作を読んでから見た方が、よりスムーズに鑑賞できるのかも知れない。
いずれにせよ、ボク的には近年見た邦画の中で最高の作品であったことには間違いなく、原作者の百田尚樹さん自身が上映会で3回見て、3回とも大泣きしたことも理解できる内容だった。
■映画の背景■
これまた、以前、このブログでも紹介した本に、神立尚紀氏著「祖父たちの零戦」というのがある。これは実際に零戦に搭乗して大東亜戦争を戦い抜いた人達の証言で綴られたモノであり、搭乗員の実際を知るには最適な手段の一つだと思う。現在では文庫化されているので、「永遠の0」の背景を知るために是非読んでもらいたい一冊だ。

この本でも触れられているが、それまで民意に押されて戦っていた彼らが、終戦という一大局面を過ぎて以降に、”手のひらを返したような仕打ち”を受けたこと多くの人々に知って欲しいと思う。それは、特攻隊員を含む飛行機搭乗員やその他の将兵に対し、その生死に関わらず行われたのだ。
その例を示すと、特攻で散った人達は終戦後、「軍国主義下の教育で洗脳された犠牲者」、悪くすると「無駄死に扱い」とされ、何らかの理由で出撃できずに生き残った特攻隊員は”特攻崩れ”と呼ばれて社会から差別されていたことが挙げられる。また、職業的に軍人の道を選んだ人の生き残りは公職から追放されたのはもちろんのこと、訴追されたわけでもないのに「あいつは戦犯だ。」と扱われて、一般の就職ですら制約を受けることもあったそうだ。
上述の特攻崩れに関しては、行き場を失った彼らが愚連隊化したことが原因とする説もあるが、「梯子を外された」彼らの気持ちを考えると攻められない側面もあるから、「どっちが先かの卵論」と同じであろうし、「軍国主義下の教育による洗脳」についても、生き残った人の証言などを読み、その心理が解れば全く違った意見に変わってしまうだろう。(第一、国民学校教育は昭和16年からだから、大正~昭和のごく初期生まれが中心の彼らには教育の影響は少ないと思うのだが…。)
そんな中、戦後まで生き残った彼らの多くは「敗戦の原因は自身にもある」として、言い訳せずに批判を受け入れて、多くを語らなかった。このことが特攻を含めた彼らの実態が今に正しく伝わらなかった原因の一つだと思うが、百田尚樹さんもそれに気付いたからこそ永遠の0を書いたのであろう。
大東亜戦争の犠牲者数は日本人だけでも300万人、その内軍人は230~240万人と言われているだけに、振り返ってみれば、1~3世代前に犠牲となった人が現代人の中にも少なからず居るハズで、ボク自身も、ボクをかわいがってくれた祖母が、海軍機関学校出身の兄と、海軍兵学校出身の弟を亡くしている。その大叔父達が守りたかったのは、当時小学校高学年だったボクの母を含めた親兄弟や友人達であり、その人達が暮らす日本そのものだったハズだ。だから、言うまでもなく、ボクに流れる血は彼らが献身し、護ってくれたために流れているのだと理解している。
「平和ボケだから」、「学校では教えないから」、なんて言い訳はヤメて、皆が自身の目ででこの時代を検証することを願いたい。かく言うボクも、ある程度の年齢になるまではそんなことを考えてはいなかったので、エラそうなことは言えないのだが…。
とにかく小説及び映画「永遠の0」はそれを知るイイ切っ掛けになるハズだ。そしてそれを知った結果、イデオロギーの違いとは関係のない、別次元での、「人としての感謝の意」を戦った彼らに示して欲しい。そうすることが現代に生きる日本人としての努めだとボクは思う。
映画化すると知って以来、待ちに待ったが、2011年7月9日にこのブログでも紹介した「永遠の0」が映画化され、ついに昨年末の12月21日から公開が始まった。しかし実際に見に行くまでは少しの不安があったのも事実だった。と言うのも、これまで邦画には随分と裏切り続けられたうえ、TVから流れてくるCMは、ボクの最もキライな、映画を見た素人?を写して「泣けました」と言わせる的なモノが一部で流されていたからだ。
もっとも、原作者の百田尚樹さん自身が、これまで映画化を幾度か打診されても脚本が納得できず、断り続けた経緯があっての今作品であることから、その流れから言えば問題はなさそうでもあったのだが…。
そんな中、正月休みを利用して映画館に足を運んだ。そして今回は、「夫婦のいずれか片方が50歳に達した時点で、2人で¥2000」の割引が適応され、自身がシニアになった事実を突きつけられたことに少々へこみつつの入館になった。

●公式のパンフレット●
■近年で一番の邦画■
映画の内容については記述を差し控えるが、高度なVFX技術が導入されていて、空母赤城から飛び立つ零戦の主翼が揚力を支えるために「クンッ」と、しなる所まで細かに再現されている。そんな技術の下支えもあって、本来は史実の上に乗ったフィクションであるはずのストーリーであるのに、妙にリアリティを感じてしまうため、冒頭の主人公=宮部久蔵が操る零戦が飛んでいる姿を見ただけで、ついついオジサンは涙腺を緩めてしまった。
小説では高山という新聞記者の発言がどうにも堪らなかったが、その部分の表現を別に置き換えて語るところもあった。しかし、小説の内容全てを脚本にすると時間がいくらあっても足りず、その表現はそれでウマくまとめてあるようにも思え、現代人に対して語るには、そのアプローチの方が適切であるように思えた。
また、愛情の表現に関しても、現代風の一般ウケする方法を使うのではなく、当時の人達がとったであろう、精一杯の表現に押さえられていて好感が持てる。そのことは全体にも反映されており、この時代を知らない人達のために説明臭い表現をすることもなく、史実に対する考証に基づいた=リアリズムを追求しているところが素晴らしかった。
とは言え、大東亜戦争の3年8ヶ月の流れを掴んでいる人にのみしか理解できない部分があるように思える。従って、そこを埋めるために原作を読んでから見た方が、よりスムーズに鑑賞できるのかも知れない。
いずれにせよ、ボク的には近年見た邦画の中で最高の作品であったことには間違いなく、原作者の百田尚樹さん自身が上映会で3回見て、3回とも大泣きしたことも理解できる内容だった。
■映画の背景■
これまた、以前、このブログでも紹介した本に、神立尚紀氏著「祖父たちの零戦」というのがある。これは実際に零戦に搭乗して大東亜戦争を戦い抜いた人達の証言で綴られたモノであり、搭乗員の実際を知るには最適な手段の一つだと思う。現在では文庫化されているので、「永遠の0」の背景を知るために是非読んでもらいたい一冊だ。

●祖父たちの零戦●
この本でも触れられているが、それまで民意に押されて戦っていた彼らが、終戦という一大局面を過ぎて以降に、”手のひらを返したような仕打ち”を受けたこと多くの人々に知って欲しいと思う。それは、特攻隊員を含む飛行機搭乗員やその他の将兵に対し、その生死に関わらず行われたのだ。
その例を示すと、特攻で散った人達は終戦後、「軍国主義下の教育で洗脳された犠牲者」、悪くすると「無駄死に扱い」とされ、何らかの理由で出撃できずに生き残った特攻隊員は”特攻崩れ”と呼ばれて社会から差別されていたことが挙げられる。また、職業的に軍人の道を選んだ人の生き残りは公職から追放されたのはもちろんのこと、訴追されたわけでもないのに「あいつは戦犯だ。」と扱われて、一般の就職ですら制約を受けることもあったそうだ。
上述の特攻崩れに関しては、行き場を失った彼らが愚連隊化したことが原因とする説もあるが、「梯子を外された」彼らの気持ちを考えると攻められない側面もあるから、「どっちが先かの卵論」と同じであろうし、「軍国主義下の教育による洗脳」についても、生き残った人の証言などを読み、その心理が解れば全く違った意見に変わってしまうだろう。(第一、国民学校教育は昭和16年からだから、大正~昭和のごく初期生まれが中心の彼らには教育の影響は少ないと思うのだが…。)
そんな中、戦後まで生き残った彼らの多くは「敗戦の原因は自身にもある」として、言い訳せずに批判を受け入れて、多くを語らなかった。このことが特攻を含めた彼らの実態が今に正しく伝わらなかった原因の一つだと思うが、百田尚樹さんもそれに気付いたからこそ永遠の0を書いたのであろう。
大東亜戦争の犠牲者数は日本人だけでも300万人、その内軍人は230~240万人と言われているだけに、振り返ってみれば、1~3世代前に犠牲となった人が現代人の中にも少なからず居るハズで、ボク自身も、ボクをかわいがってくれた祖母が、海軍機関学校出身の兄と、海軍兵学校出身の弟を亡くしている。その大叔父達が守りたかったのは、当時小学校高学年だったボクの母を含めた親兄弟や友人達であり、その人達が暮らす日本そのものだったハズだ。だから、言うまでもなく、ボクに流れる血は彼らが献身し、護ってくれたために流れているのだと理解している。
「平和ボケだから」、「学校では教えないから」、なんて言い訳はヤメて、皆が自身の目ででこの時代を検証することを願いたい。かく言うボクも、ある程度の年齢になるまではそんなことを考えてはいなかったので、エラそうなことは言えないのだが…。
とにかく小説及び映画「永遠の0」はそれを知るイイ切っ掛けになるハズだ。そしてそれを知った結果、イデオロギーの違いとは関係のない、別次元での、「人としての感謝の意」を戦った彼らに示して欲しい。そうすることが現代に生きる日本人としての努めだとボクは思う。