都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
土蜘蛛とは、古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑(律令制に従わない、いわば『服(まつろ)わぬ民』)などに対する蔑称。
『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られる。
例えば、『肥前国風土記(えちぜんのくにふどき):713 年の詔により作られた風土記の一。主に地名の由来を記す。』には、景行天皇(けいこうてんのう)が志式島(しきしま。平戸)に行幸(72年)した際、海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいるのがわかった。そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたという記事がある。
また、『豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)713 年の詔により作られた風土記の一。』にも、五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野(ねぎの)の打猴(うちさる)・頸猴(うなさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白などの多数の土蜘蛛が登場する。 また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。(「鬼」については2009.08.29を御参照下さい)
土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山(やまとかつらぎさん:、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境に位置する山。)にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじん じゃ)には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇(古事記、日本書紀において日本の初代天皇とされている)が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。
一般に土蜘蛛は、背が低く、手足が長く、洞穴で生活していたといわれる。これは縄文人の体形と、農耕ではなく狩猟や採集を主とする穴居生活から連想されたものらしく、このような生活習慣の違いなどが人々からさげすまれた原因とも考えられている。
14世紀頃に書かれた『土蜘蛛草紙』では、京の都で大蜘蛛の怪物として登 場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて「目くらま し」を仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎(は)ねると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約20個の小さな髑髏があったという。
このように、天皇への恭順を表明しないものたち『服(まつろ)わぬ民』は、妖怪、怪物として後世に伝えられていくのである。
したっけ。