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団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖

都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

本当の「酒呑童子(酒顛童子、酒天童子、朱点童子)」について考える

2009-10-18 10:44:44 | 神話・御伽噺・民話・伝説

プロローグ

2115244296_500 室町時代の物語を集めた『御伽草子』などによると、「酒呑童子」の姿は、顔は薄赤く、髪は短くて乱れた赤毛、背丈が6m以上で角が5本、目が15個もあったといわれる。

彼が本拠とした大江山(京都府にある山。京都市西京区と亀岡市の境に位置する。標高は480m。)では龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたという。

酒呑童子生立ち伝説

その1

伝教法師(最澄:さいちょう)や弘法大師(空海)が活躍した平安初期(8世紀)に越後国で八岐大蛇と人間の娘との間で生まれた彼は、若くして比叡山に稚児(昔貴族や寺院に仕えた少年)として入って修行することとなったが、仏法で禁じられている飲酒をし、しかも大酒呑みであったために皆から嫌われていた。ある日、祭礼の時に被った仮装用の鬼の面を、祭礼の終了後に彼が取り外そうとしたが、顔に吸い付いて取ることができず、やむなく山奥に入って鬼としての生活を始めるようになった。そして茨木同時と出会い、彼と共に京都を目指すようになったといわれている。

その2

酒呑童子は、越後国(現在の新潟県本州部分)の蒲原郡中村で誕生したと伝えられているが、伊吹山の麓で、『日本書紀』などで有名な伝説の大蛇、八岐大蛇が、スサノオとの戦いに敗れ、出雲国(島根県東部)から近江へと逃げ、そこで富豪の娘との間で子を作ったといわれ、その子供が酒呑童子という説もある。その証拠に、父子ともども無類の酒好きであることが挙げられる。

その3Photo

伝教法師(最澄)や弘法大師((空海)が活躍した平安初期(8世紀)に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった(国上山麓には彼が通ったと伝えられる「稚児道」が残る)。

その4

越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて56歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。『前太平記(通俗史書。40巻・目録1巻。藤元元作。天和元年(1681)ごろの成立。)』によればその後、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったという。また、鬼っ子と蔑(さげす)まれたために寺に預けられたが、その寺の住職が外法(妖術)の使い手であり、童子は外法を習ったために鬼と化し、悪の限りを尽くしたとの伝承もある

その5

12, 3歳でありながら、絶世の美少年であったため、多くの女性に恋されたが全て断り、彼に言い寄った女性は恋煩い(こいわずらい)で皆死んでしまった。そこで女性たちから貰った恋文を焼いてしまったところ、想いを遂げられなかった女性の恨みによって、恋文を燃やしたときに出た煙にまかれ、鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。

酒呑童子退治伝説

その1あらすじ

01913_49_i12_1008_2 02913_49_i12_1009 03913_49_i12_1019 04913_49_i12_1028 05913_49_i12_1029 06913_49_i12_2008 07913_49_i12_2009        酒呑童子は大江山の棲む鬼で、都を荒らし回っては数多くの人を殺して食べたり、貴族の姫君をさらったりした鬼です。

 その存在は晴明によって暴かれます。

 ある貴族の姫君が突然、行方不明になったのを心配した一条天皇は、晴明を召しだし08913_49_i12_2018占わせ、「これは大江山に棲む鬼の仕業です。このまま捨て置けば、都はおろか諸国にまで仇なすことは間違いありません。」と、陰陽道の力で明らかにしたのです。

10syuten それで、天皇は、源 頼光に酒呑童子の退治を命じ、源 頼光は渡辺 綱ら四天王を連れて、大江山に向かうので。頼光たちは酒呑童子を見つけると、鬼の仲間のふりをし、酒呑童11syutendouji1子を油断させ、だまして毒酒を飲ませて退治するのです。

 酒呑童子が都を襲ったのは、一条天皇の時代の正暦元年(990年)から正暦6年(995年)のあいだと言われています。晴明は6974歳。陰陽道としては重鎮中の重鎮です。占術にしても呪術にしても神の領域に達するほどだったでしょう。

 12_j0113確かに酒呑童子を倒したのは武力です。しかし、この陰には晴明の呪力があったことを忘れてはなりません。

 13_j0111_2晴明は式神や護法童子を京のあちこちに放ち、酒呑童子が都に入って来られないよう守りを固めたのです。

 そう、晴明はたった一人で、広い京の全てを防衛したのです。

 そのおかげで、酒呑童子は京に入ることが叶わず、大江山で歯がみして悔しがりながら酒14_j0112を呑んでいたのです。

 源 頼光の活躍の陰には晴明がいたのです。

 15img461592ca0f17eそして、晴明が後顧の愁いを絶ったからこそ、頼光らは酒呑童子を倒すことだけを考えることができた。そう、晴明なくして酒呑童子は倒せなかったのです。

その2解説

酒呑童子の物語は仏教文化を背景として宗教説話的な要素を盛り込んだものです。

「今昔物語」をはじめとして、多くの物語で仏教に敵対するものは鬼として描かれており、酒呑童子もそんな鬼の一人なのです。

20031 ただ、仏教説話が流行したこの時代は、とりもなおさず仏教がそのまま政治に置き換えられる時代である事を、忘れてはならないのです。つまり、政教一致の時代だったのです。

そのことを考えあわせると、この時代でいう仏教に敵対するものというのは政治に敵対するものだったのです。

そんな反逆者が大江山という古代製鉄技術や出雲神話の痕跡が存在する山に住んでいたのは単なる偶然ではありません。

少なくとも「酒呑童子」という物語の作者は「酒呑童子」の真実を知っていたのだと思います。

酒呑童子が最期に言った「鬼神に横道なきものを(※後期酒呑童子参照)」という言葉には、山中で古くからの文化を守り続けた勇者達の悲痛な叫びが込められている様な気がしてならないのです。22032

当時、鬼と呼ばれた者達が歴史の闇の中で、妖怪、化け物の類として塗り変えられていった悲劇を垣間見ることができるのではないでしょうか。

丹波各地にある数々の旧跡は「出雲」と「鉄」を媒介として酒呑童子とのつながりを見せてくれています。

大江山のみならず出雲、熊野、越後などなど酒呑童子等、即ち鬼達の歴史の舞台をこれからも機会があれば探ってみたいと思います。

*

以下に掲載する「酒呑童子の物語」は、当時の歴史的背景や混乱の中で、鬼というものがどのように創作され、政治に利用されていったのか・・・。鬼たちの正義、政治を司るものたちの悪意、謀略、陰陽師たちの正体が暴かれていきます。

ですから、前記の良く知られている「あらすじ」とは微妙に異なった展開となり、最後には、私たちの知っている「酒呑童子」とはまったく違う、鬼たちの悲痛な叫び声が聞こえてきます。

*酒呑童子のいく通りもある伝説の一編を掲載します。

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「酒呑童子の物語-第1章-」

2009-10-18 10:27:49 | 神話・御伽噺・民話・伝説

鬼女

《いったい何本の松があるのでしょう》

 和泉式部は、細長く伸びた砂嘴(さし)に生えた松並木の眺めは、いつ見ても美しいと思った。天の橋立は、与謝(よさ)の海を真一文字に切っている。陸地と天の橋立によって阿蘇海という入り江がつくられる、稀にみる景勝の地だ。波打ち際から見える海水は、浜の砂粒が比較的大きいからか、波が洗ってもすぐ透き通った。

 和泉式部は、国司の館から時折わずかの者を引き連れて天の橋立を見に来た。式部は海を見ていると時間の経つのを忘れてしまうのだった。波の音を聞き潮風にあたりながら、すうーっと伸びた天の橋立の砂嘴を見ていると不思議と心が安らいだ。心に積もった塵芥が、きれいに払われていく。

 男性遍歴の豊かだった和泉式部の最後の夫は丹後の国司、藤原保昌(ふじわらのやすまさ。国司の館は宮津(京都府北西部、若狭湾に臨む)にあって、天の橋立を見ようと思えばすぐ見られるのだが、身分上、館から気軽に出ることはできない。今日は久しぶりで海を見にやってきたのだった。

 海だけでなく、和泉式部は丹後の生活環境が最近好きになってきていた海で働く漁師や、狭い田畑を耕す農民たちの暮らしが身近にあった。彼らにとって、生きて行くことは、「生活」していくことであり、恋愛で明け暮れる浮草のような宮中の世界とはかけ離れたものだった。

 血色の悪い青白い化粧をした顔よりも、赤銅色に日焼けした汗のにじむ顔が、和泉式部に生きているという実感を呼び起してくれた。丹後の守として赴任する夫の藤原保昌(ふじわらのやすまさについて、ともに険しい丹後路を輿で越えてきた時、和泉式部はさすがに心細く感じた。しかし、海を見たい一心がその恐怖感にうちかった。

「海はまだ見えませぬか」

 和泉式部は何度も従者に聞いた。

 海にそれほど恋い焦がれるのは理由がある。

 かつての夫である和泉国司橘道貞(たちばなのみちさだ)とともに行った和泉(現在の大阪府南部)の海が、恋に傷ついた心を癒してくれた経験があるからだった。

「丹後の国へお連れください」

 式部が、そう藤原保昌に懇願したとき、保昌は式部の言葉をにわかに信じることができなかった。

「鄙びた(ひなびた)ところぞ」

「もとより承知しておりまする」 

保昌が驚いたのも無理はない。

 和泉式部は、生粋の都人である。藤原道長の取り持ちで一方的に和泉式部を手に入れた保昌は、式部が自分のことを本当は好きでもないことは充分わかっていた。

 丹後が辺境の地であり、『地の果て』とまでは言えないが、そんな遠くへ付いて行けるのは愛する人があってのことであるのは、今も昔も変わらない。

 若くもない、しがない国司についてきてくれるとあって、保昌は小躍りした。

和泉式部が、前の夫橘道貞と別れて、帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王と燃えるような恋をして、それを綴ったのが『和泉式部日記』として残っている。最愛の帥宮も熱病で他界し、悄然(しょうぜん)の和泉式部をみかねた父、大江雅致(おおえのまさむね)は関白道長に頼んで、藤原道長の娘、一条天皇の中宮彰子(しょうし)のもとへ歌詠みとして出仕させることにした。

 道長はすでに娘の中宮彰子(しょうし)のもとへ、紫式部赤染衛門(あかぞめえもん)などを出仕させていた。娘に文学的教養をつけさせるためである。

 そうしているうちに、道長の家司、藤原保昌との縁談話がもちあがり、保昌五十三歳和泉式部三十三歳で結婚することになった。表向きは藤原保昌と和泉式部との縁談は道長がとりもった形になっているが、実際は藤原保昌が、和泉式部を娶りたいと道長に『恩賞』として願い出たのであった。

 数多くの激しい恋によって、宮中で『浮かれ女(め)』などと噂される和泉式部ではあったが、美貌と教養を兼ね備えた式部に文をよこす男はあとを絶たなかった。藤原保昌はそんな和泉式部を勝ち取ったことを男として誉れとさえ思っていた。

 それにしても、『恩賞』とは何に対する恩賞なのか・・・・・。

話は二年前の京に遡(さかのぼ)る。

 京堀川の一条戻橋に柳がそよそよとゆらめき流れていた。

 月明かりが橋を照らしている。橋の方に向かって一見横着な座り方で馬に乗ってやってくる武士がいた。

 渡辺綱(わたなべのつな)。京において武勇で名を馳せる、源頼光(みなもとのらいこう)の家来である。

綱は、坂田公時(さかたのきんとき)碓井貞光(うすいのさだみつ)卜部季武(うらべのすえたけ)らとともに、京で評判の頼光の四天王に数えられている。 綱は頼光の父満仲の婿、敦(あつし)の養子になっているので頼光とは主従の関係とはいえ、同族であるともいえる。

主人頼光の使いで一条大宮に住む一条帝の蔵人頭(くろうどのとう)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の屋敷まで出かけた。その帰り道であった。

綱が先刻まで訪問していた蔵人頭、藤原行成・・・。清少納言と、とかく浮名を流し小野道風(みちかぜ)藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟と呼ばれる書の達人であるばかりか藤原道長の片腕でもあった。

「はっくしょ」

大きな嚔(くさめ)が出た。妙に生暖かい風が綱の鼻孔をくすぐったからである。

源頼光の屋敷は一条戻橋のすぐ近くにあった。一条戻橋という名前は、かつて浄蔵(じょうぞう)という僧が、死んだ父を加持祈祷(かじきとう)によって蘇生させたことから命名されたという。

綱は、頼光の屋敷までもうすぐだと思い、橋の西のたもとでいったん馬を止めて居ずまいを正した。襟を揃(そろ)えてふと前方を見ると橋の東のたもとに人がいるのに気が付いた。どうも若い女のようであった。

目を凝らして見ると、その女は紅葉散らしの被衣(かつぎ)をかぶって、川面(かわも)を思案気に見つめているようすだ。

《すわ、入水(じゅすい)か!》

綱は一瞬そう思った。

「もうし、そなたそこで何をしておる。川に飛び込もうなどと考えなさるなよ。それに、こんな夜更けに女子(おなご)一人とは物騒ではないか」

綱は、女の入水をとりあえず引き留めようと、馬上から女に声をかけた。

「そうです、そのとおりでございます。ですから、あなたさまのような強そうな殿方にお送り願いたいと思い、このようにお待ちしていたのです」

入水ではなかったので綱は一応安心したが、初対面の男に送ってもらいたいとは、いかにも軽々しい女だと思った。だがそれはそれ。頼りにされた相手は美人である。不自然な理屈など気になるはずもない。

「ほう、そうか。それにしても、危ないことよ。で、どこまでお送りいたせばよかろうかのう」

 そのとき、渡辺綱にほのかな浮気心が宿った。

 よく見れば、透き通るような白い肌だ。綱のような剛の者をまいらせるには刀よりも色香が有効である。

「お言葉に甘えて、五条にある私の家まで送って頂きとうございます」

「よかろう。さあ、まいろうではないか」

 渡辺綱が前鞍に乗せようと馬上に引き上げるため女に手を差し伸べた。 柔らかな手応えと女の甘い香りが綱の情感をさらに掻(か)きたてた。堀川小路を南に下がって、正親町小路あたりまで来た。

手綱(たづな)を握るのをいいことに、女を抱きかかえるようにして馬を進めていく。女も綱にしなだれかかるようにしている。

綱は『こんな機会(おり)もたまには世にはあるものだわ』と、一種の幸福感に包まれ、ほくそ笑んでいた。

 すると、そのだらしなくなった綱の心の隙を狙いすましたかのように、女が急に振り返った。その女の形相はものすごいものに変化していた。般若(はんにゃ)と言えばいいのか鬼女と言えばいいのか。

 間髪を入れずその鬼女は、すごい力で綱の髻(もとどり)をつかんで、綱の体ごと宙に引き上げようとした。

「何をする!」

 綱は、驚きはしたものの、さすがに音に聞く武士である。綱は肝がすわっていた。初めは空を鬼女が飛ぶように思われたが実は単純なからくりであることを見破った。

 腰の縄が近くの木の枝に結ばれていて、枝の反動で綱を引き上げようとしていたのだ。したがって、綱はたいした恐慌をきたさずに、すぐに腰の刀の柄に手をかけ、抜いた刀が弧を描いた。刃は髻を鷲づかみにしている鬼女の腕をすっぱりと、切り落とした。

「グェッ!」

刀は主人頼光から預かった名剣『髭切(ひげきり)』である。頼光は二本の名剣を持つ。一つはこの『髭切』で、もう一つは『膝丸(ひざまる)』という。

源頼光の父、満仲が鍛治に命じて八幡宮に祈願しながら必死に六十日も鉄を打って造りあげたという。

 腕を切られた鬼女は、宙を舞うようにして身軽に家の屋根伝いに愛宕山(あたごやま)方面へ走り去った。

 綱は自分の肩のあたりで何か蠢(うごめ)いていのを感じた。振り返ってみると、綱の髻をつかんだまま腕がまだ生きていているではないか。それは、 一個の独立した生き物であった。頑強に髻をつかんで絶対離さないといった様子である。

「うむ、この妖(あやかし)が・・・」

 綱がその腕から髻をもぎ取ろうとしたが、腕はいっそう握力を増しているようだ。

 仕方なく、綱は自分の髻ごと小刀で切り取って腕を綱から分離した。すると、あざ笑うかのように、腕は綱の髻を手放した。腕は、渡辺綱に屈辱を与えれば、それでよかったのだ。 髻を切ったので当然、綱の髪はさんばらになってしまった。

「くそっ、何たる不始末(ふしまつ)・・・・・・。髪がこんなふうになってしまった訳(わけ)を頼光様に説明せねばなるまい。それに、どうもこれには深いからくりがありそうだ。うむ・・・・」

綱はいまいましく思って歯軋りをした。 まだ腕はひくひくと動いている。こんな気持ちの悪い物を何の因果であろうか、 証拠品として頼光の屋敷まで持っていかなければならない。 綱は、再び源頼光の屋敷に向かった。

「それにしても、ひどい目にあったものだわ。女は魔物よ、くわばら、くわばら・・・」

 そう言って、馬上の綱は苦笑いをした。

 綱ともあろうものが、女に下心を抱いて思わぬ不覚をとったのだから、世間のもの笑いの種になりかねない。羞恥からの苦笑いであった。 

すると綱は急に何かを思い出したかのように懐(ふところ)を探り始めた。ただし、金子(きんす)を掏(す)られたと思ったのではない。綱は一条大宮の蔵人頭行成から預かってきた大切な書状を思い出したのである。先程の鬼女との格闘でその書状を落としたかもしれないと思った。

 懐にある書状を確かめて綱は安堵した。

「よしよし、銭など盗られても屁でもないが、これを失くしては切腹ものだからな。髪がこんなふうになってしもおたが、髪などじきに生えるからの」

 額にかかったさんばらの髪をうるさそうに左右に振りはらいながら、独り言(ひとりご)ちた。さすが剛の者である。命を狙われてもどうということはなかった。主人からの命令の遂行こそが、武士の綱にとって絶対的なものであった。 腰に差した鬼女を斬った『髭切』はこれ以後『鬼切』と呼ばれるようになる。渡辺綱という男、とかく世間で話題になる武士(もののふ)であった。

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「酒呑童子の物語-第2章-」

2009-10-18 10:24:14 | 神話・御伽噺・民話・伝説

鬼同丸

綱が襲われる前年の冬、ある寒い夜に、頼光は弟の源頼信(よりのぶ)の屋敷に渡辺綱(わたなべのつな)坂田公時(さかたのきんとき)碓井貞光(うすいのさだみつ)卜部季武(うらべのすえたけ)の四天王を連れて立ち寄った。

 暖(だん)をとるために、頼信はもう酒を飲んで陶然(とうぜん)としていた。そこへ、大好きな兄者が訪問してきたから、たちまち大酒宴となった。

公家の子弟であれば源氏物語のような『雨夜(あまよ)の品定め(しなさだめ)』のような浮いた話になるのであるが、四天王や頼光、頼信ともなるとやはり互いの武勇伝となる。

こういう座談の時、進行役をかってでる貞光は、まず卜部季武の豪胆さを話題にすることにした。

「美濃での季武の肝はすわっておったな」

 貞光がそう言うと皆は貞光に賛同するように、頷いている。それは、源頼光が美濃の国司として赴任した際に、四天王も同行した。そのときの話であった。

「渡川のことなら、言わずともよいではないか・・・」

 季武は、本当は話題にして欲しいのに、わざと嫌がる素振りをした。

 美濃国にある渡川近くの詰所で四天王が酒を飲んでいた。 そして、誰ともなく渡川の『産女(うぶめ』という化け物の話を持ち出した。産女という妖怪は、難産で命を落とした女の亡霊らしかった。

「川を渡る時に、『赤子を抱け』と近寄って来るらしいぞ」

 碓井貞光が、そう言った。

「赤子を抱くはいいが、その赤子はだんだん大きくなって、喉元に食らいつくというぞ」 もともとは、捨て子であって赤子の話になると弱い坂田公時がつけ加えた。

 橋など懸かっていることがむしろ珍しい時代である。川は歩いて渡る。渡川で、『産女』が声をかけてくるというのである。

 武士にとっては、むしろ刀で斬りつけてくる者の方が対処しやすい。産女など、どう扱っていいのかわからないのだ。

『拙者(それがし)が渡ろう』と卜部季武が言い出した。

 興に乗って、兜や刀、鎧や弓などがその肝試しの成否に掛けられた。

「ではまいろうではないか」

 皆、同時にそう言って渡川まで馬で疾走して行った。

 問題の渡川に到着した。生臭い風が吹き、墨を流したような夜陰の中から、いかにも産女が出てきそうな雰囲気が漂っていた。

馬から降りた季武は、不気味な雰囲気にも動じることなく、川の中に入って行った。

確かに川を渡ってきたという証拠として矢を向こう岸に突き刺してくるという約束がなされた。

『ざっざっ』と水をかき分ける音が続いたかと思うと、『ざくっ』と矢を向こう岸の地面に突き刺す音がした。

季武は、約束を果たして戻ろうとした。

こちら岸では、皆が、『何だ、産女など出なかったではないか』と拍子抜けしていた。

すると、闇のむこうから、やおら声が聞こえてきた。

「これを抱け、これを抱け・・・・・」

 岸にいた三人はその声に恐怖でこごえた。併せて、赤ん坊の泣き声も闇の中から聞こえる。

「抱けばいいのだな」

 産女の言ったことに季武が答える。

「そうじゃ」

 季武はどうも赤ん坊を、産女が言う通りに抱いたらしい。

 すると、今度は急に気弱そうに産女が季武に訴えた。 

「返しておくれよ」

「抱けと言ったではないか。抱けと言ったり、返してくれと言ったり理不尽ではないか。赤子は連れて帰る」

産女のすすり泣く声がした。

「返しておくれよ」

 さかんに産女が叫ぶ。そうしているうちに、季武が岸へ戻ってきた。背負う格好をしているが赤ん坊の姿は見えない。そのかわり背中には木の葉が、数枚張り付いていた。

 皆は身の毛のよだつ思いがしたが、一方で季武の豪胆さに感心した。

 詰所の侍部屋に帰ってきて、約束どおり、賭けの武具を季武に差し出すと、

「これしきのこと、だれでもできるわい」

と、言って辞退した。

 皆は感じ入って、酒を季武の杯に挙(こぞ)って注(つ)ごうとした。

「おおっと、酒がこぼれるに・・・・もったいない。その方がおそろしい」

皆、笑い転げた。

さらに、順番に武勇伝が繰り広げられた。

 藤原保昌と盗賊『袴垂(はかまだれ)』の話。貞光が、頼信に無礼をはたらいた者の首を味方の少ない東国で討ち取って、頼信の兄、頼光から褒美に『光』の字をもらい貞通から貞光と名を変えた話。渡辺綱が羅城門で鬼と戦った話。

 坂田公時の足柄山の話になるころは、宴もたけなわになった。

 すると突然ものすごい唸り声が外庭から聞こえてきた。

 頼光が不審に思い頼信に尋ねる。

「頼信!あの唸(うな)り声は何だ」

「ああ、 泥棒が先(せん)だって侵入してきたので捕えたのです。厩(うまや)の方の大きな木に縛り付けておきました。そのうちに検非違使(けびいし)にでも引き渡そうと考えておりました」

「呑気なことを言っておるわい」

 気になって、渡辺綱と坂田公時が厩へ、その盗賊を見に行った。

 坂田公時が興奮しながらもどってきて言った。

「頼光様、あれは鬼同丸(きどうまる)という盗賊です。大物ですよ」

大物ということを聞いて、頼光に闘争心にも似た好奇心が働いた。

早速、頼光も厩の方へ見に行くことになった。

「鬼同丸とやら、頼信の屋敷と知らずに忍び込んだのか大馬鹿者が。この頼光、そして弟頼信は武門の棟梁である。おまえらなどが束になってかかってきても屁でもないわ。もう少し相手を選ぶことだな、はっはっはっ」

 頼光は、酒の勢いも手伝って鬼同丸を罵倒する言葉を吐いた。

「この屋敷が頼信のものであることは、もとより承知だ。民から巻き上げた米や銭をとり戻そうと思うたが、埴猪口(へなちょこ)相手に思わぬ不覚をとったものよのぅ・・・」

 鬼同丸が、腹を立てながら言った。

 不敵な鬼同丸の言葉を聞いて、今度は頼光が腹をたてた。

「巻きあげたなどと何という言い草じゃ。自分の民から徴収して何が悪い。道長様の家礼(けらい)である我らにそのような物言いは許さんぞ」

 そう言って刀の鞘を首もとにぐいぐいと捩じ込(ねじこ)んだ。痛みと憤怒で激しくじたばたした。すると鬼同丸の縄が緩んだ。これを見た頼光は、頼信を叱るように言った。

「頼信、縄が解(ほど)けそうになっているではないか。逃がさないようにして間違いなく検非違使に引き渡さなければならぬ。金鎖でもって縛りなおせ。本来なら即刻、 斬り捨てるべきところだが、 明日のことを思うとそうもいかぬでなぁ」

家人たちは、 さっそく金鎖をどこからか持って来て、 横に 、縦に、襷(たすき)掛けにと、鬼同丸をがんじがらめにした。

「うむ。 それでいい。さて皆、 飲み直しとしようぞぉ」

頼光は腹いせに鬼同丸に唾を吐いて、四天王たちと談笑しながら座敷にもどって行った。

《この恨み晴らさずおくべきか・・・・・・》

鬼同丸は心の中で復讐を誓った。

しばらくして夜も更けた頃、鬼同丸は金鎖から逃れた。関節をはずすいわゆる『縄抜けの術』をやってのけたのである。

頼光たちは酒に酔って横になっていた。見張り番たちも丈夫な金鎖をしたので、もはや安心と思って義務づけられていた定刻の巡回を怠った。

彼らは酒を台所からくすねてきて、燗酒を飲みながら世間話をしていた。 鬼同丸は、屋敷を去る際に有力な情報を得ようと、屋根の破風(はふ)から忍び込んで、見張り番の詰めている部屋の天井のところまできた。

「明日は、頼光様は、四天王の方々を引き連れての鞍馬参詣だとよぉ。わしらも頼光様のご威光にあやかりたいのう。なにせ、頼光様ときたら、お亡くなりになった兼家様(道長父)が二条京極にお屋敷を新造した時に、祝いとして馬三十頭を献じなさったくらいの羽振りのよさじゃ。どうせお仕えするなら弟の頼信様ではなく兄の頼光様の方がよかったかもなぁ」

「これ、めったなことを言うでない」

 頼光が『明日のこともあるでな』と言って鬼同丸を斬りすてるのをやめたのは、鞍馬参詣を明日に控えて、刃傷に及ぶと穢れをつくってしまうので、それを忌避したのだった。

《頼光、今に見ておれ・・・・・・》
 鬼同丸は、頼光たちが鞍馬参詣へ行く途中の道で襲うことを決心した。

 見張り番たちが言うように、頼光と道長の結び付きは強い。

 藤原氏北家の九条流兼家の四人の息子たち道隆、道兼、道長、道綱の中で末っ子の道長以外は皆、疫病にかかって死ぬか失脚した。結局おっとり型の道長に権力が転がり込んできた。

道長が、競争相手の兄道隆の子の伊周(これちか)を抑えて左大臣になったのは長徳元年(995)。まさに、大江山討伐の年であった。

兼家に馬30頭を献上したあと、頼光は直感で仕える主人を、時めく長男の道隆を選ばずに、あえて道長にした。

《あの方がきっと廟堂の首位にお立ちになる方だ。権力というのは意外にそれを得ようとしてぎらぎらしている者の所には行かない。むしろ、道長様のように落ち着いて構えているお方にこそ、権力が舞い込むのだ》 

 頼光の勘は当たった。

道長は30才で内覧(天皇のかわりに文書に目をとおす)の役につき、右大臣、そして翌年には左大臣になって権力の階段を一歩一歩登っていったのである。

  この世をば わが世とぞ思う望月(もちづき)の 欠けたることのなしと思へば

この歌は、 寛仁(かんにん)2(1016)に道長が53歳で太政大臣となって、三人の娘を次々と天皇の妃とし得意の絶頂の折に詠んだものである。

大納言藤原実資(さねすけ)を招いて宴を催した際に、 実資に返歌を求めて詠んだ歌であった。こんな歌を詠まれては実資には返歌をしようもなくなって皆を誘って、 この『望月の歌』を何回も口ずさんだという。

天下はまさにこうやって道長の手中に入っていった。

大江山討伐の頃の天皇は一条天皇である。

この一条天皇は円融天皇と道長の姉の詮子(せんし)との間の子。言わば道長の甥である。さらに、長保元年(999)、道長は一条天皇に娘の彰子(しょうし)を中宮とするなど権力固めに余念がなかった。

さて、鞍馬参詣を聞き及んだ鬼同丸は、奇襲をすべく先回りをしていた。

鞍馬寺へ行く街道の途中に市原野(いちはらの)がある。そこで鬼同丸は放し飼いにされている牛のうちで一番大きな牛を殺し、内蔵をえぐり出した。鬼同丸は、牛の腹の中に身を隠し、まるで牛が日なたでのんびりと寝ているかのように横たわった。

まもなく、頼光と四天王が馬に乗ってやってきた。その勇ましい武者姿に、道を行く人たちも足を止めて、思わず拍手喝采を送るほどであった。

牛の放牧された市原野まで来た時、頼光は戯れのように四天王に言った。

「良い景色じゃ。どうだ、ひとつ牛追物(うしおうもの)でもやってみぬか」

牛追物とは牛を馬上から矢で射って競い合うものである。

冬にしては珍しい陽気と野原のすがすがしい景色で、 心も弾んでいた四天王は喜々として、馬を駆って牛を追い始めた。

しかし渡辺綱一人だけが皆とは方向違いに馬を走らせて、突然、逆頬箙(さかつらえびら)から矢を抜き弓に番(つが)え、路頭の木陰で寝ている大きな一頭の牛にねらいを定めた。

綱以外の四天王は、綱の行為の意味がわからず、唖然として見ていた。頼光だけが、どういうわけか冷静に渡辺綱の行為を見守っていた。

綱は充分に引き絞った弓から尖(とが)り矢を解き放った。矢は、『どん』という鈍い音とともに寝ている牛の腹に突き刺さった。

「それごとき、まやかしがこの綱に見破れぬと思うたか」

 すると、牛の中から股に矢が刺さったままで鬼同丸が躍り出て来た。牛の皮を貫いて鬼同丸に矢が刺さったので、鬼同丸は重い牛の皮と肉を一緒に引きずっていた。

 渡辺綱はすでに弓を投げ捨て、馬上にあるまま『髭切』を抜いていた。

 頼光のみならず他の四天王も抜刀していた。鬼同丸は相手が五人でも、めざす相手は頼光一人である。頼光めがけて鬼同丸は、わき目もふらず躍りかかった。 すでに頼光は、充分に気合を込めて戦う用意ができていた。

 一方、鬼同丸は牛の皮を引きずっているので動作は機敏さを欠いている。勝負は見えていた。

『えいっ』という掛け声とともに一太刀(ひとたち)のもとに鬼同丸の首は打ち落とされてしまった。 しかし、鬼同丸の恨みは骨髄に徹していたのか、切り落とされた首が頼光の馬の鞅(むながい)に食らいついた。

頼光は穢れたものでも払うように柄先(つかさき)で叩き落とした。大きな毬のように首は転がっていく。沿道で一部始終を見ていた村人たちは自分たちの方へ首が転がってくると、恐怖の声をあげながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。

しばらくして、一段落つくと血刀を振り切って血をとばしている頼光に向かって綱が話しかけた。

「やはり、昨夜の鬼同丸でした。出立(しゅったつ)するときに、門番が鬼同丸を逃がしたと騒いでいたので、ずっと注意をしていました。頼光様が牛追物を急に始めようとおっしゃったので、おそらく鬼同丸が潜んでいることに気づかれたのだと思いました。それからは動いていない牛が怪しいとにらんで無我夢中で矢を番(つが)えました」

「しかし、盗賊とはいえ、気概のある奴よ。首を切られてもなお、馬の鞅に食らいつくとはのう。昨夜はこしゃくな奴と思うて、ぞんざいに扱ったが、ある意味で、まことに骨のある者であった。心を入れ替えれば、わしの家礼(けらい)にでも用いたものを・・・・。惜しいのう」

 綱と頼光は馬の轡(くつわ)を並べて進んで行く。いつになく頼光が感慨深げになっていた。また、四天王も、頼光の言葉を聞いて、しんみりしていた。

 今でこそ、四天王と呼ばれているが、一歩間違えれば鬼同丸のように転落した人生になっていたかもしれないのである。鬼同丸の勇猛果敢さは、本当に味方なら戦力として使えたはずである。主客転倒は十分考えることができる。

 ところで、実は鬼同丸は、茨木童子や酒呑童子と仲間である。

 もちろん、そんな事を頼光や綱が知る由(よし)もなかった。

 鬼同丸と茨木童子は、かつて共に八瀬村の鬼ヶ洞という洞窟に住んでいた。酒呑童子も大江山に住みつく前に、比叡山より降りて来たとき一時(いっとき)、八瀬村に身を寄せていたことがある。八瀬の鬼ヶ洞には、茨木童子の他にも何人かの童子がいた。

 童子とは子供のことではなく、頭をおかっぱのような禿(かむろ)にし、もっぱら雑役に従事した者たちのことを言う。衣類はもっぱら木綿を主としていた。酒呑童子は他の童子に仲間入りさせてもらい働いているうちに、めきめきと首領格となり、他の童子を従えるようになった。

 ところが、比叡山に最澄(さいちょう)が根本中堂を建立するにあたり、比叡山ふもとの八瀬にもその勢力が酒呑童子たちを圧迫してきた。

 童子たちの首領が、比叡山を追われるようにして、出て行った酒呑童子だと分かると、ますます嫌がらせをしてきた。残念ながら、酒呑童子たちに、比叡山と一戦交えるほどの力量は、まだなかった。

 以前から大江山へ行く計画のあった酒呑童子は、これを機会に童子たちを八瀬から大江山へ大挙して連れていくことにした。

 残った童子たちもいるにはいた。その子孫はのちの、延元元年(1336年)正月、北条の軍勢に追われた後醍醐天皇が、八瀬から比叡山へ逃れる時に、護衛についた。その功績で、後醍醐天皇から年貢を免除されたという謂れ(いわれ)を持っている。

 酒呑童子が引き連れた郎党は、茨木童子を筆頭に、大江山の鬼の四天王として知られる童子たち、星熊(ほしくま)童子・熊童子・虎熊(とらくま)童子・金熊(かねくま)童子がいた。

 八瀬残留組の方には、鬼同丸がいた。年老いた母親が住まいを移すのを頑として拒んだためである。主だった仲間が離れては、八瀬では仕事が捗(はかどら)ない。困窮した鬼同丸はとうとう、貴族の中でも特に私腹を肥やすものを襲うようになった。戦利品は、母親だけでなく、八瀬の貧しい村人たちにも配った。

 そして今回、頼信の屋敷で思わぬ不覚をとって捕えられてしまったが、鬼同丸は捕縛からまんまと抜け出すことに成功した。そこでやめとけばよかったものを、頼光に罵倒されたので、持ち前の短気から、つい意地になってしまった。そしてそれが命取りになってしまったのである。

 いつまでも帰らない老母の嘆きは計り知れなかったことは言うまでもない。老母はやがて餓死していった。頼光に鬼同丸が討たれたことを聞いた茨木童子は、この上もなく憤慨した。

 八瀬村では、鬼同丸とは兄弟のように育った茨木童子である。

《おのれ、源頼光、渡辺綱め。必ず鬼同丸の仇を晴らしてくれようぞぉ・・・・・》

 ところが、綱を尾行していた茨木童子は、一条大宮の藤原行成の屋敷の天井から綱と行成の会話を聞いて、復讐以上の一大事を知ったのである。

 ねらいは、綱の懐中の書状に変わった。そして、茨木童子の一条戻橋の綱襲撃事件となったわけである。

(つづく)

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「酒呑童子の物語-第3章-」

2009-10-18 10:21:52 | 神話・御伽噺・民話・伝説

茨木童子再訪と土蜘蛛

 安倍晴明(あべのせいめい)の屋敷の庭は整然としている。他の邸宅のように苔むした岩や草が覆い茂った様子がない。まるで人工的につくられた感じなのだ。

 晴明は無駄が嫌いであった。星の運行を見て吉凶を占うことは、一種の科学である。陰陽師と科学とは一見そぐわないようであるが、星辰(せいしん:星座)は秩序と法則のもとに運行するものである。

 勘や霊感だけではもともと成り立たつものではない。その精神が庭にも現れていた。  石庭に当時としては珍しく北斗七星をかたどった石が置かれていた。

 頼光は初めて訪問するのではないが、殺風景な屋敷のたたずまいは、どことなく居心地の悪い感じがした。

 それにしても、腕の処理方法を相談しにきたはずの頼光と綱であったが、あまりにも晴明が秘密を知悉(ちしつ:細かい点まで知りつくすこと)していたので驚き、あきれて、しばらく腕のことをすっかり忘れてしまっていた。

 秘密裏に進められた花山院の退位を陰陽道で知っていたぐらいの晴明である。大江山討伐などわかっても当たり前なのかもしれない。当面の問題は目の前の奇怪な腕である。腕が悪霊となって綱や頼光に禍をもたらさないよう呪術で封じ込めなくてはならない。

「どうすればよい、晴明!」

 源頼光は晴明に対して、ほとんど叫び口のようになっていた。

「はい、七日間謹慎し、鬼の手には封印をして祈祷には仁王経(にんのうぎょう:仏教経典。仁王般若経)を読むことです」

「よし、わかった。そうすることにする。しかし晴明、おぬしは恐ろしい男よ。極秘なことを何でも知っておる。おぬしを敵に回したら枕を高くして寝ることができぬのぅ」

「お褒めに預かり恐縮でございます」

「しかし、このことは内密じゃ、よいのぅ」

「もとより承知」

 大江山討伐・・・・・。表向きは攫(さら)われた貴族の娘たちを救出するためとされているが、大江山討伐の背景には、権力へのとてつもない野望が隠されていたのであった。

つまり、藤原道長と当時の清和源氏の棟梁の源頼光とが手を結んで大江山を攻略することが計画されていたのであった。では、はたして大江山の何が、権力者にとって垂涎(すいぜん:ある物を手に入れたいと熱望することの的(まと)となっているのだろうか。

まずは、藤原氏と清和源氏との連携の歴史を繙(ひもと)かなければならない。

源頼光の父は源満仲(みなもとのみつなか)という。満仲は清和天皇から数えて五代目にあたり、鎮守府将軍まで昇りつめた。

源満仲を有名にしているのは何と言っても、安和の変(安和二年・969年)であろう。安和(あんな)の変・・・・・。

事の起こりは、源満仲の告発であった。その告発は、冷泉天皇のときに、源高明が皇弟を奉じて謀反を企てているというものである。

右大臣藤原師尹(もろただ)は、満仲のこの告発を取り上げて、源高明太宰権帥(だざいのごんのそち)に貶(おと)されることとなる。

9世紀中頃から、朝廷内の政権争いで他氏を排斥していった藤原氏は、承和の変で橘氏を応天門の変で伴氏を、藤原時平によって菅原道真は太宰権帥に左遷した。そして安和の変で源高明が配流させられていく。

つまり、安和の変とは藤原氏による他氏排斥運動の締めくくりだった。

これを機に藤原氏独裁体制は確立し、摂関政治を展開する。

安和の変における密告者の源満仲は着実に藤原氏、とくに北家との結びつきを深めて、清和源氏の地歩を確固たるものにしていった。

満仲は摂津多田の庄に居住し、多田源氏と呼ばれた。摂津多田(せっつただ)の地金・銀・銅・鉄などの豊富な資源を産出したので、満仲は、その財力をもとに原初的武士団を形成し一族郎等を従えることができた。

満仲は武士であるとともに中級貴族としての顔があった。したがって自然と時の権力者、摂関家に寄り添って、もちつもたれつの関係ができあがった。花山天皇が寵愛した女御が妊娠八カ月で死んで失意に落ちていたのにつけこんで、兼家は謀略をもって花山天皇を出家退位させた。

兼家の娘詮子が先帝円融天皇との間にもうけた懐仁親王が皇太子であったので、早く花山天皇を退位させ天皇の母方の祖父として摂関の地位を確立したかったのである。花山天皇を山科の元慶寺まで人目を隠しながら護送したのは他でもないこの満仲であった。

多田の産する鉱石のなかでも、この時代の実質的に最も重要な金属は鉄である。『多田』の名は鉄をつくりだす設備『:足で踏んで空気を送る大形のふいご)』から来ているともいわれている。

言うならば、満仲は摂津の産鉄王である。頼光はその二代目。鉄は武器・農具・建築材料とその用途は広い。多田で生産された鉄製の農機具は多田の南に広がる平野の潅漑・耕作に使われて、米を初めとした多大な農産物をもたらした。

また、『踏鞴(たたら)』は新たに作るより、弱小の踏鞴(たたら)を吸収し支配する方が簡単である。つまり、建設費用の節約と同時に、そこで働く者たちの技術と労働力を手に入れることができるからである。

大江山討伐も結局そのために計画されたのであった。

タラなど問題ならないくらいの巨大なものであったので、接収(せっしゅう:国などの権力機関が、個人の所有物を強制的に取り上げること)は、廟堂(びょうどう:朝廷)を巻き込んでの国家的計画事業となった。

もっと言えば、大江山には古代にまでさかのぼる歴史的意味がある。

酒呑童子は、越後から近江を経て、比叡山に移りすんだわけであるが、祖先をたどれば越後の海人族である。

越後の海人族と丹後の海人族とは同族で、漁業・農耕・鉱業を営む文化の進んだ古代種族であった。とくに産鉄について高度な技術をもっていて、花崗岩から掘り崩される良質の砂鉄で精錬した鉄は、中国や朝鮮よりも優れていた。

海人族のうち、最大で最古のものが古代において丹後に住み着いていた。

丹後王国と言っていいほどの勢力の海人族の文化があったのである。その支配は広く今の亀岡から紀伊半島まで及んでいたという。あの出雲王国ですら、丹後王国の一部が残ったものだという話もある。もちろん、のちの倭国を形成した大和王権は次々と丹後王国を侵食し、出雲王国さえも国譲りという形で支配下に入れてしまうのである。

大江山の酒呑童子の集団はそんな日本の歴史のなかで、王権に反逆し、丹後王国の命脈を保つ『服(まつろ)わぬ民(服従しない人々)』たちの最後の砦であった。

朝廷は一日でも早くその勢力を取り除き、その鉄資源ならびに陸海交通の至便という利権を奪い取ることに血道(ちみち)を上げていた。いわば頼光たちはその目的を遂げるための特殊部隊であったのだ。

茨木童子が綱から奪おうとしたのは、ずばり廟堂の大江山討伐の計画書であった。この作戦が酒呑童子に分かると、討伐の作戦は実行不可能になり、次の手を打つまでには時間がかかる。

そんな歴史的なうねりの中に頼光たちはいた。

鬼の腕に話をもどそう。

頼光は晴明が言うとおりに、鬼の腕を朱櫃(しゅひつ:ふたが上に開く朱の箱)に入れて、綱の屋敷で七日間仁王経(仏教経典。仁王般若経)を僧侶たちに読経させることにした。

読経し始めて六日目に、養母であった叔母が摂津渡辺から訪れた。

もちろん物忌みをしている綱は七日間、面会謝絶である。誰であろうと会うわけにはいかない。

「七日が明けないことには、人に会うことができないので、もう一日待って欲しいとお伝えしなさい」

 綱は従者(ずさ)にそう言った。

 老女は、面会を断られると、

「せっかく私がこうして会いに来たのに許されぬとは・・・・。恩を忘れるとはこういうことを言うのですよ」

と、言って泣き始めた。

その涙に従者が油断している隙に、綱の叔母は従者の横をするりと身軽に抜けて読経をしている部屋まで飛ぶようにして侵入していった。とても、老女の動きには思えないほどの機敏さだ。

「お養母上(ははうえ)!」

 綱が老女を見てそう言った途端、形相が鬼に一変した。

「ふふふ、愚か者が。我が恨み晴らしてくれようぞ!」

 そう言うやいなや、着物を脱ぎおとして片腕の鬼女が踊り出た。

 綱の眼前の朱櫃(しゅひつ)を奪い、蓋を荒々しく投げ捨てて中から腕を取り出した。

 綱はすぐさま鬼女に斬りつけた。

 老女は、見覚えのある鬼女、いや茨木童子であった。

「茨木童子だな!」

「邪魔だてするな」

と鬼女が言うが、すでに顔も言い方も本来の男のものとなっている。綱の剣は、ひらりひらりと体をかわす茨木童子を必死に捉えようとしている。

「性懲(しょうこ)りもなく、また現れおって」

 やっとのことで綱の剣が茨木童子の体の上部に触れた。ちょうど首のあたりだ。

「えい!」という気合のもとに渾身の力を振り絞ると、刀は横一文字の軌跡を描いた。ついに茨木童子の首と胴が離れた。

《茨木童子、仕留めたり・・・・・》

ところが、茨木童子が腕を持って屋根の破風(はふ)を突き破り逃げ去って行く。その後ろ姿には首が、ちゃんと付いているではないか。仕留めたと思った首は何とよくみると大きな瓜であった。

「うぬ!謀(たばかり)よって!」

 一部始終を見ていた僧侶たちは、恐怖のあまり腰を抜かしてしまっていた。

 綱の屋敷から茨木童子が腕を取り返して間もなく、今度は頼光が襲われた。

 茨木童子事件のあと、頼光は「瘧病(ぎゃくびょう)」という一種のマラリアのような病気にかかった。平安時代とは、瘧病のような疫病が、よく猖獗(しょうけつ:猛威をふるうこと)を極めた時代であった。四天王が必死で付きっきりの看病をした結果、やっと高熱も下がり落ち着いてきた。

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「酒呑童子の物語-第4章-」

2009-10-18 10:19:25 | 神話・御伽噺・民話・伝説

池田中納言の姫失踪事件

源頼光は、内裏に足繁く参内(さんだい)したり、蔵人頭と連絡をとりあったりして精力的に行動し始めた。 司令塔は一条帝というよりも、藤原道長と蔵人頭、藤原行成であった。

折しも、京では貴族の姫君が誘拐される事件や放火が相次いでいた。廟堂の会議において喧々囂々(けんけんごうごう)たる意見がたたかわされた。

「京に不穏の動きあり、大元(おおもと)の酒呑童子を討つべし!」

「いや時期尚早!」

「茨木童子の所業(しょぎょう)、まさに挑発である。これを機に大江山攻略をいたさねば・・・・」

池田中納言国賢(くにたか)様の姫も酒呑童子に拐(かどわか)かされていると聞いておる。その救出のためにも酒呑童子を討つべきであろう!」

 そう言われて、池田中納言は哀願するような目で皆を見回している。自分の娘のことだから、自分から朝議の議題にのぼらせることは憚(はばか)られた。

 池田中納言は、国司時代に蓄えた金銀財宝で富貴の聞こえが高かった。その中納言に美貌の一人娘がいた。当然思いを寄せる貴族の子弟は数多く、婿選びが中納言とその奥方の嬉しい仕事であった。

 その姫がある日の夕暮れ時に、突然失踪してしまい、池田中納言の屋敷は大騒ぎとなった。中納言の奥方は心配のあまり病床に伏してしまう有り様であった。

「京の隅から隅まで探すのじゃ。見つけたものには恩賞は思うがままぞぉ」

必死の捜索も空しかった。

 結局、人探しが最後に頼みとするところは陰陽師のところである。

この時、第一人者の陰陽師安倍晴明はあいにく播磨(はりま)の国守として赴任してしまっていた。贅沢を言ってはおれず、池田中納言は神隠しにあった者を見つけ出すことでは評判の村岡正時(まさとき)と言う名の陰陽師に娘の捜索依頼をした。池田中納言の奥方は、床から跳ね起きて中納言とともに正時のところを訪れた。

正時の前では、池田中納言国賢は、中納言という肩書をかなぐり捨てた、ただの人の子の親になっていた。

「正時よ、私の一人娘を捜し出しておくれ。齢(よわい)は今年十三歳になる。乳母(めのと)や守役(もりやく)、女房たちにも言いきかせて壊れ物にさわるように大切に扱ってきた姫なのだ。縁(ふち)の昇降にも付き添いがつき、強い風には人が屏風がわりになったくらいじゃ。そんな娘を拐かす不届き者がどこにいるのか教えておくれ。いま姫は無事なのか、そうじゃないのか、どうなのだ、正時!」

 中納言の目は血走っている。銭の袋をうずたかく積み上げて、正時の前へ差し出した。正時はこれを一瞥して、

「おまかせあれ。お占いします」

と、言って、筮竹(ぜいちく)を扇のように開いては、数本ずつ繰(く)って、またばらすということを、くり返した。傍らにいる中納言と奥方には正時が何をやっているのか、さっぱりわからない。だが、こればかりは正時を信頼して任せるほかなかった。

『えい!』という気合のもとに正時は確信したように言った。

「姫君の行方がわかりました。丹波国大江山の鬼酒呑童子のところでございます」

「生きているのかそれとも・・・・・」

 池田中納言は『それとも』のあとに『死んでいるのか』と続けたかったが、そんな不吉なことは言えず、口ごもった。

「ご安心ください。お命に別状ありません。私の祈祷によってお命の安全は保証いたしましょうに」

 少々うさん臭く思いながらも、それを聞いて池田中納言は娘の命を助けたい一心で、銭の袋をさらに積み上げた。

 正時は言い出しにくい様子で言った。

「命には別状ないのですが、操の方が・・・・」

「ええい、それ以上申すではない。命さえあれば縁談には不自由せん」

 確かにその通りかも知れない。池田中納言ほどの富貴と姫の美貌さえあれば、拐かされたことなど何でもないことかもしれないのだ。正時は、池田中納言が訪問する前に、すでに使役する式神に調べ上げさせて、娘の居場所はつきとめていた。筮竹など本当は必要としなかったが、銭の上乗せのために占うふりをしたのであった。

 正時の言うとおり、池田中納言の姫を拐かしたのは酒呑童子であり、実行犯は茨木童子であった。綱に片腕を斬り落とされても娘ひとり拐かすのは他愛もなかった。

 朝議が重ねられた。

 左大臣道長が、意見が出尽くしたところで皆の意見をまとめるにして言う。

「帝の御威光を損なうような振る舞いは決して許されるものではありません。京から子女(しじょ)をさらっては、そばに侍らせる酒呑童子の所業はまことに言語道断。保昌、頼光、四天王を大江山に討伐に遣わすならば、平定も可能でしょう。ぜひ、この評定でこの議、決裁を仰ぎ、ご宣旨を賜りますよう」

帝は頷いて、

「左府(さふ)の言うとおりである。 頼光は朕も頼りに思う武士(もののふ)じゃ。頼光を呼びなさい。 朕からも話をしようぞぉ」

 評定は、この帝の一言で決定した。

「おそれながら、すでに呼び寄せております」

 道長は厳かに言った。

頼光が呼ばれた。頼光は御簾(みす)越しに帝に対面した。

「頼光、すでにわかっておろうが丹波国大江山の酒呑童子を討伐して欲しい。朕が治める国には津々浦々まで鬼がおってはならぬ。国の治安を守るためにはお前の力が必要じゃ。退治してはくれまいか」

 頼光は畏まって勅命を受けた。

「有り難い仰せでございます。この頼光、身命を賭(と)して大江山討伐に向かわせていただきます」

 一条の自分の屋敷に戻った頼光は、自分の屋敷にさっそく藤原保昌や四天王を呼んで、宣旨を伝え第一回目の策略会合をもつことにした。

 一同を前にして、頼光は厳粛な面持ちで言う。

「帝から御下命があった。大江山の酒呑童子を討伐せよとのことじゃ。もちろん囚われの池田中納言の姫君ほか多数の子女の救出に向かう。相手は鬼であるというが、人間じゃ。ただ、山に住んでいる者は、妙な武術を心得ておる。必勝を期して神仏の御加護にすがらなければなるまい。私と保昌は岩清水八幡、貞光と季武は熊野権現、綱と公時は住吉明神へ必勝祈願に行く。よいな」

「ははっ」

 祈願に行くため、二回目の策略会合は三日後とされた。

(つづく)

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「酒呑童子の物語-第5章-」

2009-10-18 10:16:45 | 神話・御伽噺・民話・伝説

大江山討伐

 再び頼光邸に集まった五人に向かって頼光は三日間のあいだに練った策略案を披露した。

「この討伐は人数が多過ぎてはならない。大江山に入る道には至るところに酒呑童子の配下のものが見張っておる。むしろ我々は、小人数の修行中の山伏姿で行く。表敬訪問ということで酒呑童子の屋敷に入り、酒好きの酒呑童子に酒をふるまって酔い潰れたところで首級(しゅきゅう:討ち取った首)を取る。どうじゃ」

 茨木童子にすでに蔵人頭行成の屋敷で、大江山討伐の話を聞かれているだけに、その報告を受けた酒呑童子は警備を固めているにちがいない。正攻法では討伐はまず無理である。小人数で騙(だま)し討ちにするしかない。

「どうやって武器を運びまするか」

「山伏姿であるから、(おい)のなかにでも鎧甲(よろいかぶと)を隠しておけばよいであろう。刀も細工をして持って行くがよい」

「ははっ」

五人は口を揃えて返事をした。

頼光は緋縅(ひおど)しの鎧と、同じ毛の『獅子王』という甲、そして剣を笈の中に入れた。保昌も笈の中に腹巻、甲、短めにした薙刀(なぎなた)を入れ、は萌黄(もえぎ)の腹巻に甲、茨木童子を斬った『鬼切』を入れた。貞光季武公時も考案して腹巻、甲、剣を笈の中に入れ、他に火打ち石も用意した。雨具としての油紙は笈の上に取り付けた。

山伏姿に変装するのであるから、頭巾(ときん)をつけ、鈴掛(すずかけ)を着て、法螺貝(ほらがい)、金剛杖といったものを準備した。また、丸腰ではいざというときに困るので山伏として不自然でない程度の打刀(うちがたな)を帯びた。

準備万端、丹波国の大江山へと六人は旅立った。一応、外見は修験道を行う一団に見えた。大江山が近くに見えた辺りで、頼光らは柴刈りの男に遭った。

「そこの山人よ。ちょっと尋ねるが、千丈嶽(せんじょうだけ)の鬼の岩屋はどこにあるのか教えてもらいたい」

 山人は恐れた表情を顔に浮かばせた。

「あなた方は見たところ山伏のようじゃが、あんな恐ろしいところへ行かない方がよいぞ。向こうへ行って帰ってきたものは村でもおらんからの」

「鬼が住むというその岩屋に届け物があるのじゃ。道筋を教えてほしい」

「そうまでいうのなら道を教えるが、おぬしたち、わしはどうなっても知らんぞ」

 心配そうな面持ちで、その山人は地面に小枝で大江山の稜線を描き、鬼の岩屋まで行く道を頼光たちに教えた。

「かたじけない」

 千丈嶽に近づくにつれ誰かに見張られているように感じた。薮の中、樹木の背後に見え隠れする人影・・・・・。

 頼光は、大江山周辺には廟堂から討伐を助けるための間者(しのび)が、すでに放たれていると聞かされていた。しかし、道を教えてくれた芝刈りの男はどうも間者とは違う。もちろん、こちらの様子を窺っている人影も向こうから姿を現さない以上、それとは違うはずである。 岩屋へ行く道がだんだん険しさをました。峰伝いにしばらく進んでいると、岩穴があった。突然、中から声がした。

「もうし!」

 急な声に驚いて、保昌は後ずさりをして、もう少しで崖から落ちそうになった。岩穴の奥に柴葺(ぶ)きの小屋があって、その中から三人の老人が出て来た。その一人が話かける。

「頼光様でございますか」

「いかにも」

「お待ちしておりました」

「間者か」

「いかにも。酒呑童子の見張りがたくさんいたので、姿を現して名乗り出ることができませんでした」

「やはり、あの人影は見張りであったか・・・・」

 老人にしては声に張りがある。よく見てみると、若い間者が老人に変装しているのが分かった。他の二人もそのようだ。

六人とも暫時休憩することにして笈を降ろした。

竹筒に入っている水でそれぞれの者は喉を潤(うるお)した。

「鬼の岩屋はもうすぐでございます。酒呑童子は無類の酒好きですので、ここに用意しました丹後の酒を飲ませくださいまし。中には痺(しび)れ薬が含まれておりますゆえ、あなたさま方は解毒の丸薬をあらかじめ飲んでおいてください。痺れ薬が効いたあと、退治するがよろしかろうと思います」

 後の世に、この酒は鬼には毒となり人間には薬となる『神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)』と伝承された。頼光は『神便鬼毒酒』と丸薬を受け取った。さらに、間者は不思議な感じのする鋲のついた星甲(ほしかぶと)を取り出して、説明し始めた。

「酒呑童子は不思議な霊剣をもっております。この星甲は『ひひいろかね』(特殊な鉄)で出来ており、酒呑童子のもつ霊剣と同じ鍛練がなされております。身を護るのであればこの星甲を身につけてくださりませ」

 頼光は笈の中の持って来た甲『獅子王』の上に星甲を重ねてしまい込んだ。

 頼光たちは間者の一人に案内されながら、千丈嶽(せんじょうだけ)を登った。谷川に出たところで、間者と別れることになった。

 間者は別れる際に、

「この川上をお上りください。十七歳くらいの娘が川で着物を洗っているでしょう。その娘はこちらが放った間者(かんじゃ)の『傀儡女(くぐつめ)』でございます。名前は『百舌鳥(もず)』と申します」

と、言って、風のように去った。

傀儡(くぐつ)』とは、操(あやつ)り人形を歌などに合わせて舞わせることを生業(なりわい)とし、各地を漂白する芸人であるが、もともとは王権に『服(まつろ)わぬ民』であり、時には間者になることもあった。傀儡の女、すなわち『傀儡女(くぐつめ)』たちの中には遊女となったり、女忍者『くのいち』になったりする者もいた。

『服(まつろ)わぬ民』であるのなら、『百舌鳥』は、むしろ酒呑童子側についているはずだが、間者として権力側についたのには理由があった。百舌鳥の父は公家であったのだ。

 ある時、薬狩(くすりがり)に来た貴族の子弟の一人が、隠れ里の娘に手をつけた。これが、百舌鳥の父と母である。

隠れ里でそのまま父(てて)なし子として育てられ、百舌鳥は父を知らずに成長した。百舌鳥の母は、病弱であった。事情を知っている廟堂関係者が、酒呑童子攻略のために、百舌鳥を利用することを思いついた。密かに手を回して、その母に有能な薬師(くすし)をつけるという条件で、百舌鳥に間者の任務につくことを承諾させた。隠れ里の『傀儡』集団に属していた傀儡女の百舌鳥が、酒呑童を頼って、身を寄せてきても、大江山では別段、疑う者はいなかった。

頼光にとっても、警戒が厳重な潜入しにくい酒呑童子の本拠を突くのに、百舌鳥という味方は願ってもないものだった。

頼光たちが、川を石や岩を手掛かりに登って行くと、石や岩が赤くなっていた。おそらく、鉄穴流(かんななが)しのせいであろう。

古代の製鉄では砂鉄を埋蔵する山の一角を掘り崩しては川に流し、樋のなかに導いて砂鉄をより分けるという方法が取られていた。その鉄が岩石に付着して酸化し、赤くなっているのであった。

里の者は大江山の鬼を恐れるあまり、岩が赤いのは、大江山の鬼が、さらってきた人間を食べるために切り刻む。そのときに出た血で汚れた着物を川で洗うからだと噂した。

そのまま川を登っていくと、鍬や笊(ざる)で砂鉄を掬(すく)っている何人かの娘たちに出会った。

娘たちは一斉に頼光たちを見て驚いた。他者(よそもの)を見るのがよほど珍しかったようだ。頼光は途中で出会った柴刈りの言った言葉を思い出した。

「村人の中でも、鬼の岩屋へ行った者で帰って来た者はいねえ」

 実は、帰る者がいないのは至極当然であった。鬼の岩屋に行ってみようなどというのは仕事にあぶれた者たちだ。そういう者たちが、この鬼の岩屋へ来て見ると皆が忙しそうに、また生き生きと働いているのを見た。人を食う鬼などおらず、何も恐ろしいことはなかった。

 働こうと思えばいくらでも仕事はある。身分の上下などもない。一生懸命そこで働きさえすれば、それまでよりもずっとよい暮らしが保障された。だから、帰る者はいるはずがなかった

 娘たちの一人が頼光たちの出現を知らせに走った。他者を見たら、そうするよう言い渡されているのであろう。

《この娘たちはさらわれて、このように働かされているのだな。さて、どの娘が『傀儡女』百舌鳥なのか、どれも皆十七歳ほどの年頃のようであるが・・・・》

 すると一人だけ顔つきに驚きの様子を示していない娘がいた。頼光がじっと見つめると目が《お待ちしておりました》と答えているようだ。

《あの娘が百舌鳥だな》

と、頼光は思った。

間もなく十人ほど男たちがやってきた。熱い炉にかかりっきりになっているためか、上半身は裸である。また、強い火にあてられた体は汗と油と煤で赤く腫れあがったようになっていた。下半身には獣皮の猿股(さるまた)をはいている。顔も体と同じように赤く、髪などは伸ばし放題で、やはり火であぶられているせいか一様に縮れている。なるほど人々の思い描く鬼の姿そのものだと頼光は思った。

男たちは頼光一行をぐるりと囲み、咎める(とがめる)ように、口々に言う。

「お前たち、何をしに来た。ここはよそ者が来るところじゃねえ」

「早く帰ったほうが、身のためだ」

 頼光は落ち着いた物腰で言う。

「いえ、別に怪しいものではありませぬ。酒呑童子様に挨拶に参っただけのこと。我ら、修験道を修行する者で役行者(えんのぎょうじゃ)様の流れをくむものにございます」

役小角の名前を聞いて男たちは、はっとしたような顔になった。

役行者は、またの名を役小角(えんのおづぬ)という。葛城山の一言主(ひとことぬし)の予言や神託を担(にな)う神官の家系に生まれ、雑密の修法『孔雀明王経法』をおさめて神通力で鬼神を使役したという。役小角はたしかに修験道の祖であるが、一方、やはり葛城山、吉野、熊野の山系に居住していた産鉄族の首領でもあった。そして、全国の『服(まつろ)わぬ山人たち』の神格的存在として崇められていた。役小角は、ときの廟堂の首班、藤原不比等(ふひと)の策略にかかって自分の弟子の韓国連広足(からむこうのむらじひろたり)の讒言(ざんげん)によって捕らえられ、伊豆に流された。

『役小角捕らわる』の報は矢のような早さで全国の山人たちに伝わっていった。そして、小角の救出をせんがため、国内の山人が一斉蜂起する動きがあるとの情報が、廟堂に飛び込んだ。

朝廷は震えあがった。当然のように即刻、役小角は釈放された。そうでなければ未曾有の内乱がこの日本で起こっていたかもしれない。

頼光はそんな役小角の名を口にしたのである。

「そうであったか、役行者様にかかわる者たちか。して、どこから来た者か」

役小角の名前を咄嗟(とっさ)の機転で出したのであるが、思わぬ手応えがあって、頼光は、むしろ内心驚いていた。そして、どこから来たのかを聞かれて、もう一つの嘘を思いついた。

「高野山から参った」

「すると弘法大師様の・・・・・」

 高野山といえば金剛峰寺、金剛峰寺といえば弘法大師空海である。

「そのとおりでござる。積もる話もございますゆえ、是非とも酒呑童子、いやお館様にお会いしとうございます。ほれこのように酒を持参いたし、心ばかりの土産も持参いたしました」

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「酒呑童子の物語-第6章-」

2009-10-18 10:13:31 | 神話・御伽噺・民話・伝説

酒呑童子無残

 頼光たちは唖然とした。

 というのは四つに区分けされた庭のそれぞれが、春夏秋冬を表して、春の桜、夏の蛍、秋の紅葉、冬の雪景色が一望のもとに見ることができたのである。

《今は晩秋なのに、あの春の桜や夏の蛍は本物なのだろうか・・・・》

 頼光は不思議な気持ちでいっぱいになった。《どんな富裕な貴族でさえ、今を時めく道長でもこうはいくまい。やはり鉄(くろがね)や水銀(みずがね)は大きな財をもたらすものじゃわい》

 頼光の隣に座っていた渡辺綱は、素直にそう思った。

それぞれの四季の庭に、やはりそれぞれの季節に合わせた衣装を着た娘たちが、現れ出てきた。楽曲に合わせて、娘たちの踊りが始まった。その艶やかさ、美しさはたとえようもない。

すっかり豪奢(ごうしゃ:非常に贅沢で派手なこと)な雰囲気にのまれた頼光たちは、うっかり討伐のことなど忘れそうになった。すると、百舌鳥の強いまなざしに気づき、頼光は夢心地から目を覚ました。頼光は、喝を入れるために自分の頬を挟むようにしてぴしゃりと叩いた。

《酒呑童子、この宴も今宵限りと知れ!》

頼光は闘志をふつふつと沸き立たせた。しかし、その闘志の多くはむしろ嫉妬からくることに頼光自身、気づいていなかった。何への嫉妬か・・・・・・。

それは富にたいする嫉妬である。富貴な者は、自分以上に富貴な者に対して猛烈な嫉妬を抱く。

宮廷と見まがうほどの、いやそれ以上の栄華をほこる酒呑童子。

ところが、頼光以上に酒呑童子の富を狂うように嫉妬したのは、大江山討伐が行われた長徳元年(995年)に左大臣になりたての道長であった。討伐の日は同じ年の111日であった。頼光48歳、道長30歳であった。

この時、廟堂の頂点に立っているのはもちろん一条帝であるが、政治の首班は藤原氏の筆頭、藤原道長である。代々鉄資源を押さえてきた藤原氏は当然、大江山の価値を十分知っていた。権力が酒呑童子の存在を許しておくはずはないのだ。今度の大江山討伐の絵図を描いたのは富と権力を追求する道長と頼光、そして蔵人頭行成であった。

「それにしても茨木童子は帰りが遅いのう。都へまた女子(おなご)でも誘拐(さらい)に行ったのであろうが、先頃は、鬼同丸の仇をとるとかなんとか言って渡辺綱という武者を襲ったのはよいが、不覚をとって腕を斬り取られた。そうしたら、茨木童子は意地になって、腕を取り返してきよった。取れた腕などひっつきようもないのにのう。まあ、勇ましいのもわしの若いころにそっくりじゃわい。はっはっはっ」

酔った酒呑童子が、茨木童子の名を口にした。その名を聞くと、頼光と綱は、かっと頭に血をのぼらせた。討伐決行の心が逸(はや)る。百舌鳥が言うように茨木童子が戻ってくる前に決着をつけねばならない。

するとその時、かなり酔いがまわった飲み癖のわるい『金熊童子』が箸を使って戯れに、

「この刃(やいば)を受けてみよ」

と、言いながら綱を斬るしぐさをした。

綱は金熊童子の悪ふざけに決まっているので、箸など体に触れさせれば良かったのだ。それが、襲撃の機会をねらって心が臨戦態勢になっていた上に、虚を突かれたので作為も思いのままにならず、反射的にひらりと体を一回転してかわしてしまった。

酒呑童子は、『おや?』という顔をした。

「おぬし、身のかわしようが、ただの僧ではないな。何者だ」

綱は、少しも慌(あわ)てず、

「これは不思議な仰せられようでございますなぁ。仏道ばかりでなく私共、修験道を心得てもおりまする。役小角の流れをくみ、高野山での修行を経て、このように獣道を歩き、山野を宿にする者が自然に身を軽くする術を会得するのも道理でございましょう」

「うむ・・・・・」

まだ半信半疑の酒呑童子に、坂田公時が口を開いた。

「わたしは異形(いぎょう)で生まれたゆえ、山に捨てられ老婆に拾われて獣とともに育ちました。自然に猿の身のこなし、鹿の跳躍などは身につき、ほれこのように」

猿の真似をし、ぴょんぴょん跳ねる様は一同を笑いに誘った。

坂田の機転でいっぺんに座が和(なご)んだ。

「お許しくだされ。これが山に住む者の性(さが)でござる。まして、茨木童子の話では源頼光が攻めてくるというので警戒していたのだ。酔うてても頭の片隅では油断できなかった。皆様方の興をそぐようなことを言ってすまなかった。ご持参くださった酒のうまさに度を越した所業(しょぎょう)と思ってご勘弁を。さあ、盃を干されよ」

そう言って酒を酌んだ。

神便鬼毒酒』を五臓六腑にしこたま染み込ませた『石熊童子』は『虎熊童子』同様、酔いながら田楽踊りを舞い始めた。

渡辺綱もこれを見てすっくと立ち上がって、

「我も、一差し」

と言って、石熊童子の舞に呼応するかのように、

『年を経て鬼に岩屋に春の来て、風や誘いて花を散らさん』

と、謡(うた)ながら舞うのであった。

素面(しらふ)であれば、歌の意味はたちどころにわかりそうなものだが、酔いつぶれんばかりの童子たちにはわからない。

歌の意味は、「ここにいる鬼たちを春の嵐のように花を散らすように斬り散らそう」というものであった。

しばらくして、酒呑童子は覚束無い(おぼつかない)足取りで立ち上がって言う。

「客僧たちよ、そこでしばらくお休みくだされ。今宵はまことに気持ちよう酔うことができた。これも弘法大師さまのお導きであろう。有り難いお話しを承った。ではわしはこれで失礼つかまつる。三人の姫にあなたがたの世話をするように申し付けておいた。ごゆるりと。また明日会うとしましょう」

そう言って酒呑童子は奥の部屋に引っ込んでしまった。

残った童子たちは、酒呑童子が話しているときまでは、さすがにしゃんとしていたが、部屋に引っ込むと同時に、その場に寝てしまった。たぶん『神便鬼毒酒』が効いているのだろう。口までがだらしなく開(あ)いている。

頼光は残された三人の娘に話しかけた。三人は池田中納言国賢の娘花園の姫、そしてもう一人は吉田中将の娘であった。

頼光は気ぜわしく話した。

「私は頼光と申すものです。拙者どもは姫君たちを救出するため酒呑童子を退治に参りました。酒呑童子のとりことなってさぞかし心細い思いをしたでしょう。もう大丈夫です」

と、言うと、何とも意外な返事が返ってきた。

「お館(やかた)様にはとてもお世話になっております。最初連れて来られたときには、どうなることやらと胸がつぶれる思いをいたしましたが、しだいにそうではないことがわかりました。

今はお館様の側女(そばめ)となって、大江山での暮らしに満足しています。とてもお館様には親切にしていただいております。洗濯や食事の支度も私たち自身でするようになって、自分で何かをするという喜びも知りました。私たちをここから救いだすというお考えでしたら、用なきこと。このままお帰りください」

と、池田中納言の娘が答えた。酒呑童子のことをお館様とさえ呼んでいるではないか。《そう言えば、酒呑童子は自分の生い立ちを話す中で、美貌のゆえに他の僧たちに疎(うと)まれたことを言っていた。多分、大江山での華美な暮らしだけが大江山に引き留めているのでなく、酒呑童子の男性的な魅力も一役かっているのであろう》

正直な話、頼光たちにとっても、大江山討伐の、姫たちの救出はたてまえである。本来の目的は水銀鉱脈出雲・越後・朝鮮半島への交通至便という大江山の利権を酒呑童子から収奪することであった。

しかし、救出の表向きの大義名分が当事者から真っ向から、このように否定されては行動が鈍る。次に、吉田中将の姫に違う意見を期待して頼光は尋ねた。

「貴女(あなた)は助け出されたいとお思いでしょう」

「私も池田の姫様と同じです。京の父上、母上もいとしいのですが、私たちはこの地へ輿(こし)入れしたのも同然でございます。生きていることの手応えが感じられる日々をおくっているのです」

吉田中将の姫が、きっぱりとそう言った。

《この娘も同じか・・・・・》

頼光は辟易(へきえき)した。これ以上この姫たちにかかずらわっていても無駄である。頼光たちは、笈から鎧や甲を装着して槍や剣を取り出した。各人がそれぞれの具足をつけている間に、百舌鳥はどこかに行っていた。すると、百舌鳥は大江山の鬼たちの武器庫から刀や甲を持ち出して戻ってきた。百舌鳥が持ってきた刀はどれも、さすが、酒呑童子のところで鍛練した刀であった。頼光は柄を握った瞬間心に張り詰めたものが腕に伝わるのを覚えた。頼光らは持参した刀と取り替えることにした。笈の中に入れるように加工したので刀が短めになってしまっていた。鬼たちの刀の方が役に立つ。渡辺綱だけは、やはり使いなれた『鬼切』を使うことにした。頼光は刀を取り替えたが、大江山へくる途中で渡された「ひひいろかね」の星甲だけは使うことにした。この星甲の上に、さらに『獅子王』の甲をかぶって、二重の防御とした。装備が済むと頼光は大きく武者ぶるいをし、一同を見わたし、『よし』と小声で合図した。頼光は百舌鳥に、

「酒呑童子の寝所に案内(あない)せよ」

と、告げた。

百舌鳥を先頭に、石畳の廊下を抜けて行った。屋内に小川が流れている。架け渡した丸い石橋を、百舌鳥は歩いて渡らず、ひとっ飛びで、飛び越した。百舌鳥が『傀儡女』であったことを頼光たちは再認識した。

さらに、石垣の壁で囲まれた通路をしばらく行くと、直角の曲がりかどに行き着いた。皆は、そこで百舌鳥に足止めをされた。

「お待ちください。しっ、お静かに。この先が酒呑童子の寝所(しんじょ)となっています。門番がいるので姿をまだ現さないでください」

覗くと、窓もなく鉄牢のような建物が見えた。好都合なことに寝所まで続く門扉は開いていた。普段は、これも閉まっているのだろう。

ただ困難なのは、門扉までの間に尖った先が天を向いている鉄柵があり、向こうから太い鉄の閂(かんぬき)がしてある。おまけに、鬼の姿をした門番が槍を持って二人立っていた。

頼光たちが、考えあぐねていると。百舌鳥は束ねていた髪をほぐして、着物の胸のあたりを乳房が見えんばかりに、大きくはだけた。そして、酔ったふりをしながら、門番の方へよたよたと歩いていった。

「お館様、お館様。いつものお館様らしくもない。まだ宵のうちですよ。お休みになるのは、早ようございます」

甘えた声を出しながら、百舌鳥は酔っ払ったふりをして、『ふうっ』と大きく息をついて門扉の前で横たわった。

着物が割れて、太ももが露(あらわ)になった。

二人の門番は生唾を飲んだ。門番はお互いに顔を見合わせて淫靡(いんび)な笑いを浮かべた。そして、目配せをして次の行動を無言で確認し合った。

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「酒呑童子の物語-第7章-」

2009-10-18 10:11:27 | 神話・御伽噺・民話・伝説

帰還

 帰る道すがら、頼光は姫たちを諭(さと)した。

「京へ帰ったら、酒呑童子のことは話してはなりませぬ。まして酒呑童子を賛美することなどはもっての他ですぞ。酒呑童子はやはり鬼だったのです。酒呑童子を褒めることは貴女たちの父母を悲しませることにしかなりませぬ。あなたたちはこれから花も実もある人生なのですから。およろしいかな」

姫たちが敬愛する酒呑童子は、もうこの世にいない。帰るところは父母のところしかない。しかし姫たちは、酒呑童子のことは一生忘れないで心に秘めていくであろう。ふと、頼光は、池田中納言の娘を見やった。

 姫は、酒呑童子のことを想(おも)って泣きはらし、目が腫れぼったくなっていた。それにしても、堀河中納言の姫のことはどう説明しようか頼光は窮した。酒呑童子の子まで身ごもって自刃したわけだが、本当のことを言っても、堀川中納言の姫は生き返ってこない。両親に話しても嘆くばかりであろう。頼光はそう考えて、公時の方を見た。公時が、堀川中納言の姫の髪を、懐紙におさめているのを見ていたからだった。

《公時がうまく説明してくれよう》

 公時も、頼光に頼まれるまでもなく、そのつもりであった。それくらいのことは、むしろ自分からやりたいと思っていた。何かわからないが、一種の罪滅ぼしになるような気がしたのである。

 大江山の麓の下村(しもむら)までくると、丹波の国司、大宮の大臣(おとど)という者が出迎えた。

 大宮の大臣は、頼光たちが京へ帰って廟堂に、今の丹波の国司が酒呑童子のなすがままにさせていたと報告されると困ると思った。国司としての責任を問われないように、点数かせぎに、できるだけの接待を頼光たちにしようとした。

 頼光たちは、飲食物を充分補給し、再び出発した。

 京に近い『老い坂』まできたところで、廟堂からの使者が来た。

「どうかお待ちください。酒呑童子の首実検 をしたら、首をこの老い坂で葬れとの道長様の仰せでございます」

 頼光はいささか憤慨した面持ちで、

「いかなる故(ゆえ)じゃ」

「はい、京に穢れを持ち込むことはならぬとかで・・・・・」

「これは酒呑童子の首なるぞ。敵方とはいえ、首領であった。丁重に葬らなければならないのではないか」

 これは嘘である。頼光は酒呑童子の首を丁重に葬る気などさらさらない。

 酒呑童子の首を持って行くことで手柄を印象づけたかっただけの話である。

「もう朝議で決定しましたので・・・・・」

「もうよい、わかった」

 道長だけの一存ではなく、正式に朝議で決定したのであれば、これ以上、抗(あらが)うことは却って頼光に不利になる。命令に従って埋葬することにした。

 酒呑童子の首を埋葬したところは、現在では『老いの坂の首塚』と呼ばれている。

 池田中納言の娘は父母に会うとさすがに、泣きながら「母上様」と叫んで母親の胸の中に飛び込んでいった。池田中納言は頼光の手をとって、これ以上ないと思われるほど有り難がった。

京へ戻った翌日、頼光と保昌は、帝に報告をするために謁見することとなった。四天王は身分上、別の部屋に控えた。

一条帝は御簾(みす)越しに頼光に言った。

「ご苦労であった。池田中納言も喜んでおる。よく六人ばかりの者で酒呑童子を退治した。今後、頼光と保昌は昇殿を許す。他にも褒美をとらせよう。何なりと申せ」

 頼光が口を開く。

「おそれながら、丹波国をご下賜(かし:高貴な方から物を貰うこと)されんことを」

 頼光は抜け目がなかった。酒呑童子を自らが斬って大江山を陥落させたのだから、遠慮をしてみすみす他の者に渡すことはない。

 鉄や交通の利権ばかりでなく、酒呑童子の財宝もそっくりそのまま残っている。すでに、部下の何人かは現地に残してきた。まして産鉄のうまみは父、源満仲から教えられて骨の髄まで知りつくしている。

 もちろん、ある程度の利益は国庫に入るが、国司となって正直に収益全部を国庫に収める者などまずいない。利益は左大臣道長と頼光に充分流れ込むのであった。

 帝は、頼光の望みを受け入れた。

「保昌はどうじゃ」

 保昌は、畏(かしこ)まって押しだまっている。実際に酒呑童子退治にもそう目立つ働きはしなかったが、頼光と同格の身分であったので一緒について行っただけでも、四天王より褒美(ほうび)は大きい。

 保昌がはっきりしないので、帝の御手ずから賜りの言葉があった。

「では、頼光が丹波なら、お前には丹後の大庄三ヶ所をとらそう」

「ははっ」

 頼光は、これを聞いて内心、

《駆け引きの下手な奴だな。そんなことだから南家は北家に勝てないのだ。こんな時だ、もう少し欲を出せばよいのに・・・・》

 藤原保昌は藤原南家の系統であった。保昌の祖父の代に、北家との権力闘争に敗れてから日の目をみない一門になってしまった。保昌は北家の道長に近づいて何とか勢力を保持していた。あまり目立つと排斥されるので持ち前の鷹揚(おうよう)さを隠れ蓑にして、世渡りをしていた。

 頼光がそんな一種の優越感にひたっていた時、保昌が口ごもりながら帝に奏上(そうじょう:天子に申し上げる子と)した。

「恐れながら、もう一つだけ望みがございます」

 保昌がそう言った時、冷水を浴びせられたように、頼光の顔色が変わった。

「何じゃ、何なりと申せ」

と、帝が少し驚いて言うと、

和泉式部を賜りたく・・・・・」

文才歌才に恵まれ、書や管弦にも秀でた和泉式部・・・・。道長が娘の中宮彰子に箔をつけるために集めた女官の一人であり、すでに三十三歳になってはいたものの、いまだ美貌の才媛である。

その和泉式部を保昌が見初めた。

「左府がとりはからうであろう」

 道長は笏(しゃく)を胸にあてて、腰を折って『承知』の礼をした。

頼光は胸をなでおろした。保昌が口を開いた時ひやりとしたが、何のことはない。所望したのは女一人だった。

《武人ともあろうものが、望みがたった一人の女とはあきれた・・・・》

 だが、この保昌の無欲が実のところ、頼光との親交を長続きさせているのであった。

 もし、保昌が頼光と同じような野心めいたものが、(ごう)程でもあったならば、頼光は保昌を遠ざけていたに違いないし、また道長との相談の中で、大江山討伐の人選にも加えていなかっただろう。

こうして、頼光は丹波守に、藤原保昌は丹後守に任じられた。保昌はさっそく和泉式部を娶(めと)り、翌年には丹後に赴任していった。

和泉式部は、最初の夫、橘道貞が和泉守だったところから離婚後でさえ、ずっと、「和泉」式部と名乗っていたが、道貞が死に藤原保昌に嫁いでからはさすがに和泉式部とは言えず、「大江家」の江の字をとって「江式部(ごうのしきぶ)」と名乗るようになった。

式部と最初の夫、橘道貞との間に生まれた子に小式部内侍(こしきぶのないし)がいる。歌詠みの才の誉れ高い和泉式部に劣らず、やはり蛙の子は蛙か、和歌を詠む才能に富んでいた。

和泉式部が丹後にいるころ、この小式部にちょっとした出来事があった。

藤原公任(ふじわらのきんとう)の嫡男、定頼(さだより)が小式部の局を通りすぎる時に、「丹後につかわしける人はまいりたるにや」と、言ってひやかした。丹後にいる和泉式部に代筆を頼んでいるのではないかとからかったのである。

それに対し、

   大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

と、応酬したことは有名である。

そんな、小式部内侍も早逝する。和泉式部は世の無常観を、ひしひしと感じた。おのずと和泉式部は丹後の海を思い出すのであった。

《いったい何本の松があるのでしょう》

 天の橋立の松並木の生えた砂嘴と背後に広がる大海原を思い出してはその無常観を癒すのであった。

「もう一度、丹後の海を見たい」

 それが、晩年の和泉式部の口癖になった。

 頼光は丹波守を経て、長保三年(1004)に五十七歳で美濃守に転じた。同じ年に、頼光は娘を道長の異母弟の道綱大納言に嫁がせ、摂関家とますます密接な関係となり、勢力を確固たるものにしていった。

 一世一代の運命の賭として酒呑童子退治をした頼光も治安元年(1021年)719日、摂津守を最後に七十四歳で生涯を閉じる。

 頼光は、人には明かしてはいないが、酒呑童子の命日には、必ず『老い坂』の首塚まで行って手を合わせていた。道長は頼光が死去した6年後に落命した。それ以後、栄華をきわめた藤原氏は衰退へ向かっていった。

 頼光なきあとは、源氏の主導権は弟の頼信に移った。頼信は平忠常の乱を平定することにより、その系統を栄えさせる。その系統から出た頼義・義家が前九年後三年で活躍し、さらに、義朝・頼朝を輩出して源氏が貴族社会に変わって本格的な武家社会を築いていったのである。

 時移り事(こと)去って、酒呑童子退治の話は、時の権勢を恐れて、酒呑童子は世にも恐ろしい鬼として語り継がれていくのであった

(完)

エピローグ

 「酒呑童子」と言えば、恐ろしい鬼で人をさらっては、食べている鬼神として「昔話」として伝えられていました。しかし、考えてみれば、この世に「鬼」などいるはずもなく、天下国家に従わぬ、反逆児であったことが分かります。

「鬼」即ち「悪」として語り継がれてきたものが、実は「正義」だったのではないのか?強いものが「正義」で弱いものが「悪」とされることは、決して許されては成りません。「酒呑童子」の「正義」が「頼光たち」の嘘で固めた謀略の前に敗れていったことは、闇に葬られ、「鬼退治」の物語として後世に伝えられたのです。

用語解説へ(つづく)

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「酒呑童子」用語及び人名解説

2009-10-18 10:07:56 | 神話・御伽噺・民話・伝説

第1章

砂嘴(さし)海中に細長く突き出た地形。

与謝(よさ)の海

京都府北部の宮津湾奥、天橋立から西の潟湖(せきこ)。阿蘇海(あそかい)とも。

和泉式部(いずみしきぶ)

平安中期の女流歌人。大江雅致(おおえのまさむね)の娘。和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍を産んだ。為尊(ためたか)親王、次いでその弟の敦道(あつみち)親王と恋をし、上東門院彰子に仕えてのち藤原保昌に嫁するなどした経歴から、恋の歌が多い。生没年未詳。「和泉式部日記」「和泉式部集」がある

藤原保昌(ふじわらのやすまさ)

(958-1036) 平安中期の廷臣。左馬頭。南家藤原氏。武芸にすぐれ、盗賊袴垂保輔を畏伏させたという。歌人としても著名。和泉式部は妻。平井保昌(ほうしよう)とも。

和泉式部日記

日記。1巻。和泉式部の自作とされるが、他作説もある。寛弘4年(1007年)成立とする説が有力。長保5年(1003年)4月から翌年正月までの、敦道親王との恋愛の経過を、歌を交えて物語ふうに記す。和泉式部物語。

紫式部(むらさきしきぶ)

973年ころ~1014年ころ]平安中期の女流作家。越前守藤原為時の娘。藤原宣孝と結婚し、夫の没後、「源氏物語」を書き始める。一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕え、藤原道長らに厚遇された。初めの女房名は藤式部。他に「紫式部日記」、家集「紫式部集」など。

赤染衛門(あかぞめえもん)

960年ころ~1040年ころ]平安中期の女流歌人。道長の妻倫子(りんし)と上東門院彰子に仕え、のち大江匡衡(おおえのまさひら)と結婚。家集に「赤染衛門集」。

源頼光(みなもとのらいこう)

948年~1021年]平安中期の武将。満仲の長男。摂関家藤原氏と結び、左馬権頭となった。弓術にすぐれ、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治の伝説で知られる。

頼光の四天王*

*渡辺綱(わたなべのつな)

9531025年]平安中期の武士。源頼光の四天王の一人。京の鬼同丸や大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)、羅生門の鬼を退治した伝説がある。

*坂田公時(さかたのきんとき)

平安後期の武士。相模足柄山に生まれたと伝えられる。幼名、金太郎。源頼光の四天王の一人。後世の御伽草子などで伝説化され、五月人形となって残る。浄瑠璃・歌舞伎では快(怪)童丸の名で登場する。生没年未詳。

*碓井貞光(うすいのさだみつ)

955年~1021年]平安中期の武将。源頼光の四天王の一人。

*卜部季武(うらべのすえたけ)

950年~1022年]平安中期の武士。通称、六郎。源頼光の四天王の一人。大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)征伐で有名。

藤原行成(ふじわらのゆきなり)

972年~1027年]平安中期の公卿・書家。名は「こうぜい」とも。伊尹(これただ)の孫。小野道風(みちかぜ)藤原佐理(すけまさ)と三蹟の一人で、その筆跡を歴任した権中納言・権大納言から権跡(ごんせき)という。和様書道の完成者で、世尊寺流の祖。日記に「権記」がある。遺墨「白氏詩巻」「本能寺切(ほんのうじぎれ)」など。

浄蔵(じょうぞう)

891年~964年]平安中期の天台宗の僧。三善清行(みよしきよゆき)の子。宇多法皇の弟子。諸高山を遊歴修行し、平将門(たいらのまさかど)の乱にあたっては大威徳法を修した。

さんばら

 ざんばらとも。乱れ髪

被衣(かつぎ)

 平安時代ごろから、上流の婦人が外出するとき、顔を隠すために衣をかぶったこと。またその衣や、それをかぶった女性。中世以降は単衣(ひとえ)の小袖(こそで)を頭からかぶり、両手で支えて持った。かずき。

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)

929年~990年]平安中期の公卿。師輔(もろすけ)の三男。兄の兼通(かねみち)と関白職を争い、一条天皇の外祖父として摂政、次いで関白となった。法興院。東三条殿。

安倍晴明(あべのせいめい)

921年~1005年]平安中期の陰陽家(おんようけ)。土御門(つちみかど)家の祖。彼の占いや予言をたたえた説話は今昔物語・宇治拾遺物語などにみられる。著「占事略決」。陰陽師(おんみょうじ)とも。

式神(しきがみ)

陰陽師の命令のままに動く鬼神(きじん)のことを言う。式神の正体は、実際は扱いされた、世人が相手にしない川の民や山の民であったと考えられる。

茨木童子(いばらぎどうじ)

京都の羅生門で渡辺綱(わたなべのつな)に片腕を切り取られ、のちに綱の伯母に化けてその片腕を奪い返したという、伝説上の鬼。

酒呑童子(しゅてんどうじ)

丹波の大江山に住んでいたという伝説上の鬼の頭目。都に出ては婦女・財宝を奪ったので、勅命により、源頼光が四天王を率いて退治したという。御伽草子・絵巻・謡曲・古浄瑠璃・歌舞伎などの題材となっている。

廟堂(びょうどう)

 天下の政治をつかさどるところ。朝廷。

2

源頼信(みなもとのよりのぶ)

 [968年~1048年]平安中期の武将。満仲の三男。鎮守府将軍。藤原道長に仕え、平忠常の乱を戦わずして鎮めて武名をあげた。

「雨夜(あまよ)の品定め(しなさだめ)」

源氏物語の帚木(ははきぎ)の巻で、五月雨の一夜、光源氏や頭中将(とうのちゅうじょう)たちが女性の品評をする場面。雨夜の物語。

産女(うぶめ)

難産のために死んだ女性の幽霊

袴垂(はかまだれ)

平安時代の伝説上の盗賊。今昔物語・宇治拾遺物語にみえ、和泉式部の夫藤原保昌の弟保輔(やすすけ)ともいわれるが未詳。

検非違使(けびいし)

平安初期に設置された令外(りょうげ)の官の一。初め京都の犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務を担当。のち訴訟・裁判をも扱い、強大な権力を持った。平安後期には諸国にも置かれたが、武士が勢力を持つようになって衰退した。

破風(はふ)

切妻(きりづま)造りや入母屋(いりもや)造りの妻側(端:つま)にある三角形の部分。

一条天皇(いちじょうてんのう)

980年~1011年]第66代天皇。在位9861011年。円融天皇の第1皇子。名は懐仁(やすひと)

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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