都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
源頼光(みなもとのよりみつ)(948年―1021年)
平安中期の武将,貴族。清和源氏満仲の長子としてうまれた。摂津源氏の祖である。摂津,伊予,美濃等の諸国の受領を歴任し、内蔵頭,左馬権頭,東宮権亮等をつとめた。
藤原摂関家に接近し,その家司(けいし)的存在となって勢力を伸長した。摂関家とは摂政・関白に任ぜられる家柄のことである。
例えば988年(永延2)摂政兼家の二条京極第新築に際し馬30頭を献じた。また1016年(長和5)の大火で焼亡した道長の土御門第(つちみかどてい)の再建に際して、1018年(寛仁2)道長の土御門第新造のときにその調度品のいっさいを負担したこと,道長の異母兄道綱を娘婿に迎え彼を自邸に同居させたことなどはその現れである。
こうした摂関家との関係は,969年(安和2)藤原氏が起こした他氏排斥の疑獄事件。右大臣藤原師尹(もろただ)が、左大臣源高明(たかあきら)(醍醐(だいご)天皇の皇子。賜姓源氏)を左遷し、その結果、自ら左大臣となる安和の変以降の父祖の伝統を受け継ぎ清和源氏発展の基礎を築くものであった。
また頼光は早くからその武勇で知られており,彼や彼の郎党と伝えられる渡辺綱、坂田金時、碓井(うすい)貞光、卜部季武(うらべすえたけ)のいわゆる頼光四天王の名は「今昔物語集」をはじめ多くの説話集や軍記の中に見いだすことができる。
一条戻橋をはさんで、安倍清明と向かい合う場所に邸を構えていたのが、源頼光である。清明が怨霊退散の知能派ならば、頼光は魔物退治の武闘派ということになる。
彼らが同時期に同じ区域に住んでいたことは、このあたりが御所(今の御所ではない)の鬼門の方角に当たり、魔界・異界との接点であったからかもしれない。
ある時期の都の平安は、この知能派・武闘派二人によって、辛うじて保たれていたのである。
頼光自身も強者であったが、彼の手勢にはすぐれた武将が多かった。特に四天王といわれたのが、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武、坂田公時(金時とも)いずれも腕自慢・力自慢の面々で、数々の鬼、土蜘蛛、魔物を退治している。
特に有名なのが、大江山の鬼・酒呑童子の話である。丹後の国大江山の奥に、朝廷から見れば非合法軍事政権を作り、都に出没しては人をさらい財宝を略奪していた酒呑童子軍との戦いは、頼光たちにとっても一世一代の激戦であったらしく、長く世に語り継がれるところとなった。
ちなみに、「唐津くんち」の曳山(ひきやま)では「酒呑童子と頼光の兜」が、ひとつの出し物として今も伝えられている。これは酒呑童子が戦いの最中に頼光の兜に噛み付いたことに由来するとも、斬り落された酒呑童子の首が頼光の兜に飛びついたからともいう。
「鬼」とともに、頼光の武勇伝を彩るもうひとつの存在が「土蜘蛛」である。
土蜘蛛というのは、大和朝廷側から見た、先住未開民族の蔑称であったという見方もあり、そうすると、蝦夷(えぞ)なのか熊襲(くまそ)なのかが、平安京周辺にもまだ住んでいたことになる。また、背丈が低く背中が曲がっていた先住未開穴居民という説もあるが、真偽のほどは分からない。
そんな土蜘蛛伝説を伝える代表的な場所が2つある。いずれも頼光によって退治された土蜘蛛の伝説を伝えるものであるが、冷遇されたままに置かれていたせいか、はっきりした伝承が残っていない。
ひとつは、上品蓮台寺に残るもので、「頼光塚」とされている。そのままなら、彼の墓所を示すものであるが、これが頼光の退治した土蜘蛛が潜伏していた塚であるともいい、今となってはいずれかはっきりしない。
椋の巨木の根元に、極めて小さな石碑を立てただけのものであり、これとても後世のものであろうから、名のある人と言えでさえ、立派な墓所を構えることのなかった当時の風習や、実は随所で寸断された平安京の歴史が、偲ばれるのである。
いまひとつは、北野天満宮のすぐ西隣の、東向観音寺に残されているものである。
これは元々畑の中にあった蜘蛛塚と伝えられるものを、この地に移設し弔ったものであるが、いわば石灯籠の頭の部分だけが伝わっている。以前は露にさらされていたが、損傷が激しいせいであろう、いまは祠に囲い込まれた状態になっている。
蜘蛛塚などという存在も、徐々に忘れ去られて行くのにちがいない。
このように見てくると、外敵である「鬼」従わぬ京都盆地先住民「土蜘蛛」そして朝廷内に渦巻く人間たちの欲望の結果生じる怨霊と、都は自然のもたらす災害以外の、様々な災厄の種を抱えながら、辛うじて歴史を保ってきた跡がうかがえる。
「鬼」「土蜘蛛」や妖怪たちは、いわば「服(まつろ)わぬ民」として、朝廷から迫害され、陰陽師によって、物の怪の類として葬られていった。
当時の人々は、雲の上の存在である朝廷内のいざこざなど知るはずもなく、飢饉と飢えに因って生じた盗賊や人殺しの集団を鬼とよび、魑魅魍魎を恐れ、空腹の中で細々と暮らしていたに違いない。
今も「伏魔殿」といわれる省庁の官僚という名の鬼たちが蔓延る中、今の政治に従わぬ、いわば、「服(まつろ)わぬ民」は政権交代という妖術で政治を変えようとした。
新しく政権を担う人たちは「鬼」を退治するのか、味方にするのか、屈服して元の木阿弥となるのか、国民は固唾を呑んで見守っている。
したっけ。