都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「おんようじ」ともいう。大宝令(たいほうりょう)の制で陰陽寮(おんようりょう)や大宰府(だ ざいふ)に置かれた方術専門の官人。占筮(せんぜい)や地相をして、吉凶を知ることをつかさどったが、平安時代、陰陽寮のつかさどった天文、暦数、風雲の気色をうかがう方術を陰陽五行の思想に基づいた陰陽道とよぶようになると、陰陽師もそれらの方術を使う者すべての名称となった。
平安中期に賀茂忠行(かものただゆき)が出てこれを世業化して賀茂家というが、子の保憲(やすのり)系統は暦道(陰陽寮の学科の一。暦法と漏刻の学を教授した。)を中心とし室町中期から勘解由小路(かげゆこうじ)家、ついで幸徳井(こうとくい)家とも称した。
賀茂 保憲(かものやすのり)は、延喜17年(917年)-貞元2年2月22日(977年3月14日)、平安時代中期の陰陽師、陰陽家。賀茂忠行の長男。
忠行・保憲の高弟の安倍晴明(あべのせいめい)の流れは天文道(天文・気象を観察し 、その変異により吉凶を察知する術。律令制では、陰陽は当時の寮に天文博士が置かれ、天文の観察や異変の際の密奏を司った)を主とし、室町中期以後は土御門(つちみかど)家という。
安倍晴明は廟堂や武士の間で絶大な信頼があり、ある意味政治を動かしていたともいえる存在である。しかし、その正体は多数の式神(しきがみ)を使い、情報を集めていたに過ぎない。式神とは、陰陽道(おんようどう)で、陰陽師が使役するという鬼神。都のいたるところにばら撒かれ、変幻自在な姿で、人の善悪を監視するという。式神の正体とは、実際は扱いされた、世人が相手にしない川の民や山の民そして奇形、異形のものたちであったと考えられる。
式神の諜報活動により多量の情報を手に入れ、原因・事前に分析・対策を考えていたのである。依頼者は総てを知っている陰陽師を恐れ信頼したのである。この情報網を多く持っていた安倍晴明が第一人者であったことは、式神によるところである。
これを求めたものは古代の貴族層のみならず、中世以後は武家、近世になると庶民にまで広がった。
*平安時代:8世紀末784年(延暦3)の長岡京遷都から、12世紀末の鎌倉幕府創始、1185年の平氏滅亡、源頼朝(よりとも)の守護・地頭(じとう)設置とするまでの約400年間のあいだ
*陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう、おんみょうごぎょうしそう):、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のこと。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。
*安倍晴明:[921~1005年]平安中期の陰陽家(おんようけ)。土御門(つちみかど)家の祖。彼の占いや予言をたたえた説話は今昔物語・宇治拾遺物語などにみられる。
したっけ。