団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「くノ一」とはなにか?「歩き巫女」とは何かについて考える

2009-10-12 11:21:06 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

忍者とは鎌倉時代(1185-1333年頃)から江戸時代(16031867年)の日本で、大名や領主に仕え諜報活動や暗殺を仕事としていたとされる、個人ないし集団のことです。

※昨日の「忍者」について追補しておきたいことがあります。

忍者集団には、伊賀忍者、甲賀忍者、服部衆と呼ばれる三大組織があります。服部氏は関が原以降徳川家の専属となりました。甲賀は一人の主君に雇われますが、伊賀は、人材派遣のように貸し出され、敵味方に分かれて戦うこともありました。

伊賀忍者の総帥は「百地三太夫」、甲賀忍者の総帥は「藤林長門守」と言われていますが、両者は同一人物であったとする説もあります。「藤林長門守」は不詳の存在で、これは、甲賀に上忍がいなかったことからも推察される。

    以上

くのいち」は忍者の下で働きをする女性のことを指す。実際の「くのいち」は忍者とは異なる1 4  が、現在では女性の忍者と認識されていることが多い。

仕事のしかけに女性を使うことをくのいちの術と呼んだ。ちなみに男性を使うことはたじからの術と言い、これは男の田と力から由来していると推測される。

女忍は、主に力一辺倒では太刀打ちできない相手に対して下女などと偽って送り込まれ、機密情報の収集や暗殺などを請け負った。そのため、全身黒ずKunoichi21 くめの忍者装束を着て男忍と同じような任務に就くことは、実際にはほとんどなかったらしい。

しかし、籠絡(ろうらく:巧みに手なずける)する相手に真剣に惚れ込んだり、裏切ったりするなどの危険が付きまとっていたため、それを防ぐために連絡役兼監視役の忍者が常に行動を監視し、裏切りの気配を見せたときには容赦無く殺害していたとも言われる。

「くのいち」は女性のことで、正しくは「九ノ一」と書くという説2

これは、人体には肛門九つの穴があるが、女性は女性器があり、もう一つ多いことから、九ノ一と呼ばれたという説である。ただし、例えば臍ではなく尿口を数えるなど、穴の数え方が資料によってまちまちのため、信憑性は今ひとつである。とはいうものの「九」は必ずしも数字的な「9」をあらわすものではなく、数が多いことを表す場合もある。「くノ一」は文字を合体すれば「」という文字になることからという説。これは山田風太郎氏の創作であるらしい。

Photo Photo_2 「くのいち:くノ一」は、現在では女忍者のまたは女の俗称として定着してしまった観がある。

史実に登場する「くのいち」で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団であり、その頭領である望月千代女であろう。

歩き巫女とは各地を回って芸や舞を見せ、時には男性に身を任せることもあった、いわば流浪の遊女である。戦国時代には孤児や捨て子、迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた美少女のみを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのが「くのいち」である。Photo_6

信玄が「くのいち」の養成を命じたのは信州(現長野県)北佐久郡の豪族望月氏当主・望月盛時の若き未亡人・望月千代女である。実は千代は甲賀流忍術の流れを汲む名家・望月家の血族であり、豪族望月氏には信玄の甥が入り婿になっていた。信玄は彼女を「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じ、信州小県郡禰津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場をPhoto_7 開き、200300人を超える少女達に呪術祈祷から忍術護身術、更に相手が男性だった時の為に性技まで教え込んだ。歩き巫女は「ののう」と呼ばれ、禰津村には巫女の家が並んだ「ののう」小路や墓が残る。歩き巫女に国境は無く、全国何処でも自由に行けたため、関東から畿内すなわち京(きょう)に近い国々(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)を回って口寄せを披露し、時には売春もしながら情報を収集し、ツナギ(連絡役)の者を通じて信玄に逐一報告した。反面、信玄は家臣の謀反(むほん)を恐れて、彼らの自宅に僧、巫女を泊めるのを禁じた。

Photo_3 Photo_4 実在した人物かどうか不明ではあるが、安土桃山時代の武将、徳川家康が政敵の石田三成に側室として送り込まれた初芽局(はつめのつぼね)という人物がいる。

初芽局(はつめのつぼね)は、徳川家康が政敵である石田三成に送り込んだ「くのいち」と言われている。実在した人物かどうかは不明。3

三成の側近くに仕えることに成功するが、敵として憎んでいた三成の実際の人柄などに惚れこんでしまい、本当の側室(正室に対するいわば妾)のような存在になってしまったという。そのためついには家康を裏切り、徳川側に殺されたといわれている。また、関ヶ原の戦いの後も生き延び、三成の菩提を弔ったという説もある。

Photo_5 関ヶ原の戦いとは安土桃山時代の慶長5915日(グレゴリオ暦16001021日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。徳川家康の覇権を決定付けた戦いである。

したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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