都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
服部半蔵の本名は石見守正成であり、服部半蔵と名乗る忍者も一人ではありません。世間一般に知られている服部半蔵は、家康の家臣で「徳川十六将」の一人である、この服部半蔵正成のことなのです。
初代目 服部半蔵保長(やすなが)
正成の父保長(やすなが)は、初代服部半蔵(服部半蔵保長)は伊賀国(三重県)阿拝(あへ)郡服部郷(はっとりごう)の出身であり、将軍足利義輝 (あしかがよしてる)に仕え、石見守(いわみのかみ)を称しました。義晴(よしはる)を経て、松平氏のいる三河の国に渡ります。この時、正成も伊賀から三河へと移る事になりました。家康の祖父・清康、父・広忠に仕えた保長 は、幼い正成に忍術ではなく槍術を教えます。
これは、当時忍者の身分は非常に低いもので、正成を武士として育てたのだと思います。
2代目 服部半蔵正成(まさしげ)
正成のイメージは忍術使いという印象が拭い切れないのですが、実際は槍術使いとして活躍した諜報活動の戦闘指揮官でした。
保長は、天文11年(1542年)、服部保長の四男として三河国に生まれた、17歳の嫡子・正成(まさしげ)に家督を託し他界します。忍術使いではなく槍術使いであり忍術があまり使えないうえに配下の忍者をまとめる自信がない事から、正成は思い悩むのですが、親友である平岩親吉((ひらいわ ちかよし)(戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の重臣。上野厩橋藩(前橋藩)主。のちに尾張犬山藩主。)の助言により、三河服部党(伊賀忍者軍団)を率いる決意を固めます。2代服部半蔵正成の誕生です。
映画・ドラマ等では伊賀忍者軍団(影の軍団)の頭領として、自身も忍者として活躍しますが事実とは異なります。
しかし、半蔵正成は家康の家来であり伊賀同心の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは彼の事である。だがあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を率いた武士である。槍の名手として知られた。
正成の主君元康(後の家康)を人質同様に扱う今川氏に怒り、いつの日か元
康を三河の国に帰参させる事を夢見ます。そして、正成の願いは思わぬ形で叶うこととなりました。京への上洛を目指していた今川義元
は、尾張の織田信長の奇襲(桶狭間の合戦)により、あっけなくその生涯をとじることになります。これを機に元康は三河に帰参します。名も徳川家康と改め、正成を呼び出し情報の重要性を語り、服部党への期待を示します。
*伊賀越え
正成は、1582年(天正10)本能寺の変の際、上洛中の家康を一族挙げて護衛しました。これが「伊賀越え」であり、この時指揮官として、的確に働き家康の命を守ったとことにより、その後も家康から重用されることになります。
これらの功によって「鬼半蔵」・「大半蔵」と称された正成は物頭(ものがしら)に進み、遠州(静岡県)に八千石を領し、秀吉が小田原城没後、家康が関東入国すると、与力三十騎・伊賀同心200名を支配しました。
家康の関東入国後は、江戸城麹町口(こうじまちぐち)門(俗に半蔵門とよぶ)外に組屋敷(くみやしき)を拝領した。
配下の忍者や家族たちに見守られ慶長元年11月4日(1596年12月23日)に没し55年の生涯に幕を下ろしました。
江戸麹町清水谷の西念寺(東京都新宿区)に葬られた。西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗寺院・安養院の後身である。
3代目 服部半蔵正就(まさなり)
父である正成の死後、伊賀同心200人の支配を引継ぐ。しかし徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない伊賀同心を家来扱いしたために配下の同心たちの反発を招き、ついに伊賀同心が寺に篭って正就の解任を要求する騒ぎに至った。このため正就は伊賀同心の支配の役目は解かれた。後、大坂の役で行方不明になる。
4代目 服部半蔵正重(まさしげ)
兄の後を継いで服部半蔵を襲名する。舅である大久保長安に巻き込まれて大久保長安事件で失脚。その後各地を転々とした後、松平定綱に召し抱えられて二千石を得る。これにより桑名藩の家老として服部半蔵家は存続する(大服部家)。
したっけ。