都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
ハア…、ハイタッチを求められて「盛り上がる」「ちょっと恥ずかしい」?
ものの聞き方が、オカシイっちゅうんだよ。ハイタッチを求められて「盛り上がる」んじゃねえだろう。「盛り上がってる」からハイタッチを求められるんだろっ。違うんかい。
「盛り上がってもいない」のにハイタッチを求めるヤツはいないだろ。シーンとしてるときにハイタッチを求めたら、求めたほうが恥ずかしいっちゅうんだよ。
じゃあ、オレはどっちにしたらいいのか・・・。とうぜん「さらに盛り上がる」ってこった。
したっけ。
日本建築用語。古くは建物の棟(むね)を支えるため、梁(はり)上に立てられた棟束(つか)を宇太知(うだち)、宇立(うだち)の名でよんでいた。いまでも丹波(たんば)地方(京都府・兵庫県)の古民家では、棟を支える束を「おだち」というが、宇立が転訛(てんか)したものと思われる。建物の妻(側面)ではこの束が直接みえるので、妻の棟束をさすようになり、中世末からは、町屋の妻に屋根より上に突き出す壁ができて、この部分をも卯建とよぶようになった。建物の両妻で軒下につけられた袖(そで)壁をも卯建とよぶことがある。
「うだつ」は、日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は梲と書き、室町以降は卯建・宇立などの字が当てられた。
平安時代は「うだち」といったが、室町以降「うだつ」と訛った。本来は梁(うつばり)の上に立てる小さい柱のことをいった。そののち、切妻屋根の隣家との間についた小さい防火壁で1階屋根と2階屋根の間に張り出すように設けられているものも「うだつ」と呼ぶようになる。
本来、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになる。自己の財力を誇示する為の手段として、上方を中心に商家の屋根上には競って立派なうだつが上げられた。
「うだつ」を上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られていた。これが「生活や地位が向上しない」「状態が今ひとつ良くない」「見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。
「梲(うだつ)が上がらない」ということばは「いつも、いつも上から押さえつけられていて、いっこうに出世できない」「運が悪くてさっぱりよい目が出ない」などの意で用いられる。
この慣用句は、「梲(うだつ)を上げる」ということばが大工仲間で「家を建て、棟(むね)上げをする」ことをいい、転じて志を遂げることをさすようになったとか、あるいは、京阪地方で、隣家との境に卯(う)の字形の防火壁(袖壁)をつけ、これを「卯建(うだち)」といったが、この壁をつけた家は格式の高い家なので、転じて立身する意となった、などの説がある。
したっけ。
今朝は雨が降っていました・天気予報は、曇後雨。ちょっと雨が止んだ隙に、写真を撮りました。水滴がついています
今日は「トキワヒメハギ」を紹介します。
トキワヒメハギ(常盤姫萩) ヒメハギ科
学名:Polygala chamaebuxus var. grandiflora(var. purpurea)
トキワヒメハギは流通名です。
常盤姫萩(トキワヒメハギ)はヒメハギ科ヒメハギ属(ポリガラ属)の常緑小低木です。原産地はヨーロッパです。アルプス山脈などに分布し、標高900~2,500メートルの林の中などに生えます。樹高は10~30センチくらいです。地を這ってマット状に広がるので、見た目の高さは10センチ程度です。
葉は披針形で、互い違いに生える(互生)ます。葉の質は革質で艶があります。
開花時期は3~5月ですが、北海道では5月です。葉の脇に花径1センチくらいの小さな花を1~2個つける。花は蝶形で、竜骨弁が黄色く、翼弁と旗弁は紅紫色である。マゼンダと黄色の鮮やかなコントラストを深い緑が際立たせています。
基本種のポリガラ・カマエブクスス(Polygala chamaebuxus)は翼弁と旗弁が白い花です。流通名を白花常盤姫萩(シロバナトキワヒメハギ)という。
本種(トキワヒメハギ)はその変種だそうです。
したっけ。
見掛け倒し、未熟者、腰抜けという意味で使われる「へなちょこ」。語感だけで何となく意味は伝わるが、これはお酒を飲む猪口(ちょこ)のこと。
『大言海』※というものにその語源とされるものの記述があるという。
明治14~15年頃に新聞記者の野崎左文や山田風外という人たち数人が、神田明神の境内にある「開花楼」というところで宴会をした。そこで見つけたのが内側におたふく、外側に鬼の面が描かれた楽焼の猪口(鬼は外、福は内)。なかなかいいものだ、ということで、これを使って酒を飲むことにした。
ところが酒を入れると猪口が音を立てながら酒を吸ってしまった。見掛けは立派でも猪口としては全然役に立たない。
「へな(埴)」は水底の粘土を多く含んだ黒い土のことで、荒壁などを塗るのに使われます。これと「変な」をかけてか、「へなちょこ」と呼んだのである。「ちょこ」は「ちょく(猪口)」で杯のことです。「埴猪口(へなちょこ)」。
これが悪口として広まったと言われている。
※「言海(げんかい)」は明治期に大槻文彦が編纂した国語辞典。日本初の近代的国語辞典とされる。また、後に大幅に改訂がなされた『大言海』も大槻の死後発行されている。
同じ野崎左文の説では、「変な猪口」から「へなちょこ」になったとする説もある。
しかし、経緯が明らかな割りに、「へな」の語源が異なっているため信憑性は薄い。
また、弱々しい様子「へなへな」の「へな」と、動作に落ち着きのないさま「ちょこちょこ」の「ちょこ」が語源とする説もある。
曲がったり、しなったりするさまの「へなへな」という語は、「埴」とは無関係に江戸時代から使われており、小生意気を意味する「猪口才」の語もあることから、この語だけが特別に考えられたとは考え難く、当て字にあわせて考えられた説と思われる。
したっけ。
今朝は曇り空です。天気予報は、曇時々雨。すっきりと晴れた日が続きません。
今日は「ゴヨウツツジ」を紹介します。
ゴヨウツツジ(五葉躑躅) ツツジ科
学名:Rhododendron quinquefolium
別名:シロヤシオ,マツハダ(松膚)
花期:春
東北から近畿,四国にかけて,太平洋側の山地の岩場などに生える落葉低木です。葉は枝先に 5 個輪生状につき,葉と同時に枝先に 1,2 個の白い花を咲かせます。
シロヤシオというのはアカヤシオに対する命名,マツハダというのは古い樹皮が松の木に似ているからとのことです。
今年は、春先の天候が悪かったせいでしょうか、花のつきがよくありません。
したっけ。
語源は「田分(たわけ)」からきているようです。農民が自分の跡をつがせるために、子供に田畑を分け与えるが、子供が二、三人もいると、一人当たりの面積が少なくなります。
また田畑をもらった子供たちが自分の子供たちに、その子供が自分の子供に…というように、田畑をどんどん引き継いでいくと、しまいには一人当たりの面積が極めて少なくなり、全員が食べていけなくなる。
それで「田分」は、愚か者のする事だというので、阿呆、馬鹿という意味で「たわけもの」と言うようになったようです。
と、覚えていたのですが、違うようです。
「ばかげたことをする」という意味の「戯く(たわく)」からきた、「戯け者(たわけもの)」が語源らしいです。大辞泉にも【戯け者】で載っていました。
それにしても「田分(たわけ)」は説得力があって納得していたのですが・・・。
農家は長男にしか継がせない。次男、三男は長男の小作になるか、それが嫌なら家を出て、渡世人になるしかない。あの木枯し紋次郎も間引きされかけた農家の子供だったって設定なのですよね・・・。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は・・・。
「植木を三分する」という中国の故事ですが、ちょっと似ているので参考まで・・・。
三人の兄弟が、一本の植木の所有をめぐり論じ有っている場面です。
中国は古代、田真・田広・田慶という三人の兄弟の話です。この兄弟は豊かな家庭に育ちましたが、それぞれ譲り合いの心がありませんでした。親の死後、三人それぞれが遺産の取り分を主張し、全てを三等分にすることで、話をまとめました。
最後に、植木一本がのこるだけとなったところで、三人はこの植木の所有までも主張しあい、夜を徹して論じあいました。結局、この植木も三等分しようということとなり、翌朝、植木の前にでてみると、樹勢はすっかり衰えてしまっていたということです。
兄弟は顔を見合わせ、「さては、心のないはずの植木でさえも、切り裂かれることを悲しむのか」と初めて、自分たちの争いの浅ましさを恥じ、改心したということです。
たわけ‐もの【戯け者】
おろかもの。ばかもの。また、人をののしっていう語。
辞書:大辞泉
明日のお題は「へなちょこ」を予定しています。尚、お題は予告なく変更する場合があります。
したっけ。
「阿呆」は「あほう」と読みます。勿論、「愚かであるさま。ばかなこと。」の意味ですが、本来は「阿房」と書きます。
「あほう」に由緒があるというのは、「阿房」によるものです。
秦の始皇帝が国内を統一し、渭水(いすい)の南に雄大な宮殿を建てました。未完成といわれ、遺跡は西安市の西郊にあります。
この宮殿が「阿房宮(あぼうきゅう)」と呼ばれ、東西の長さ三千尺、南北五百尺、なおメートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。殿上には一万人以上の人が座れたと伝えられる、とてつもない建造物だったといわれています。
そこで、日夜、酒宴にふけり、国政をかえりみることがなかったために、国が滅ぶ元になったところといわれています。
この故事より出て、けた外れの馬鹿なことをすることを「阿房」というようになったそうです。後に「阿呆」の字が当てられるようになりました。「房」よりは「呆」のほうがもっともらしい気がします。
現在遺跡の付近には、阿房宮を再現した施設が作られ、一種のテーマパーク的な観光名所となっているそうです。
一方、「馬鹿」のほうは『広辞苑』には梵語 moha(慕何)、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。「馬鹿」は当て字と載っています。
『史記』にある、秦の2代皇帝・胡亥の時代に権力をふるった宦官・趙高が、あるとき皇帝に「これは馬でございます」と言って鹿を献じた。皇帝は驚いて「これは鹿ではないか?」と尋ねたが、群臣たちは趙高の権勢を恐れてみな皇帝に鹿を指して馬だと言った「鹿をさして馬という」故事説もありますが、有力ではないようです。
「馬鹿・莫迦・馬嫁・母嫁・破家」どれも「ばか」ですが、全て当て字と考えられます。
「たわけ」については明日の「お題」とします。
したっけ。
昨日は1日中雨でした。今朝は曇り空、午後から晴れる予報です。
今日は「梅」を紹介します。
ウメ(梅) バラ科 学名:Prunus mume
花期:初春
春の兆しを感じていち早く咲くので,好まれるのでしょうか。桜より梅の方が落ちついて上品な感じがするからでしょうか。
「夜来香」というのは,暗闇にほのかに香り来る梅の香りです。
また,「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という,菅原道真が太宰府へ流されるときに詠んだ句が思い出されます。
そう言うわけで,天神様の紋章は梅の花ですし,また境内に梅の木が多く植えられている訳です。
太宰府の天満宮,湯島天神の梅は毎年春になるとニュースで伝えられます。その他,梅林としては水戸偕楽園,埼玉県越生梅林,群馬県秋間梅林などがにぎわいます。
北海道で梅が咲くのは、桜が終わってからか、ほぼ同時期なのです。
したっけ。
今日は小満です。(2010.05.21)
小満(しょうまん)は、二十四節気の1つ。または、この日から芒種までの期間。
一般的な定気法(太陽の位置で二十四節気を決定する方式で現在はこの方法により決められている)では、太陽黄経が60度のときで5月21日ごろ。恒気法では、冬至から152日目で5月23日ごろ。
万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来るころ。四月中。暦便覧には「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されている。
陽気がよくなり、草木などの生物が次第に生長して生い茂るという意味です。
もともとは、麦の穂に実が次第に満ち始める時期ということで、小満とされたと言われています。
沖縄では、次の節気と合わせた小満芒種(すーまんぼーすー)という語が梅雨の意味で使われる。
そういわれても、北海道じゃ、ピンと来ません。小麦を刈るのは、初秋ですから。
参照: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
したっけ。
梨園(りえん)とは、歌舞伎の世界もしくは歌舞伎そのものを指すが、本来は歌舞伎を指すものではありません。近年では或る種の名門的な存在の特別な社会としてあえて歌舞伎界を梨園と呼ぶことがあります。
その由来は唐の玄宗(楊貴妃とのロマンス<wbr></wbr>で有名)が唐都長安西北郊の西内苑内で、宮廷の坐部伎(ざぶき)と云う音楽を奏する者300人を選抜、梨が植えられている梨園と称される庭園で、芸を磨いたことに始まるのです。音楽教習府が置かれたのは714年(開元2)ころのことですが、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊の妓女、宮女の一部が属したそうです。玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、この劇団は「皇帝梨園の弟子」と称されたのです。
安史の乱(「あんしのらん」:755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。)で宮廷の音楽も壊滅して衰退しましたが、その後再興され、838年には法曲を仙韶曲と改め、梨園を仙韶院と改めました。後、唐末の動乱によって、消滅しました。
明代以後の中央劇壇に対しても、梨園という名称が用いられました。後世演劇の始祖神に祀(まつ)られる玄宗にちなむこの「梨園」ということばは、やがて劇壇全体を称するものとなりました。わが国にも伝わって江戸時代には主として歌舞伎(かぶき)界をいう雅称となり、昭和の初期までよく用いられていました。現在でも関係者の間では用いられています。
■玄宗と楊貴妃については、下記を御参照下さい。
http://doraemonn.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/02/post_e057.html
したっけ。