都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
友達にメールを送ったのに、その後何の音沙汰もない。
「あいつは、うんともすんとも言ってこない。」
などと言ってボヤクことになります。
この「うんともすんとも」という言葉は、単に「はい。」という意味の「うん。」に語呂合わせしたようにもみえますが、実はそうではありません。この言葉には、もっと、歴史的な背景があるのです。
「うんともすんとも」のルーツを探ると、江戸時代に流行した「うんすんカルタ」というものに行き着きます。
「うんすんカルタ (un-sumo carta)」は、室町時代に、ポルトガルの船員たちから伝わったトランプを日本でつくりかえたカルタのことです。このポルトガルより伝えられたカルタは「南蛮かるた」、その国産品は天正カルタとよばれ48枚(12ランク、4スート)であったが、「うんすんかるた」はゲームをより複雑にするために「天正かるた」を元にして元禄の終わりから宝永の初め頃(十八世紀初頭)新たに考案されたものです。
当時のポルトガルのカードは、剣・コイン・カップ・棍棒の4スート、絵札は、王・騎士・従者だったが、それぞれのスートの1にはドラゴンを描き、従者は女性という独特の特徴を持っていた。天正カルタはこの特徴を忠実に受け継いでいたが、「うんすんカルタ」は、グル(巴紋)というスートにウン(福の神)スン(唐人)ロバイ(1から独立させたドラゴン)の絵札を加えた5スート75枚からなる。王や騎士も鎧兜の武士の姿と日本風に変化しているが従者は女性というポルトガルのカードの特徴をなお受け継いでいます。
カルタ遊びは、日本中で流行しましたが、寛政の改革(1787 ~93)※のとき、一切の遊興が禁止されました。唯一熊本県人吉市に伝統的な遊戯としてその遊び方が伝わり、遊戯法が県の重要無形民俗文化財に指定されています。
人吉市では、「備前かるた」ともいい、これは備前藩の姫がこの地に嫁いだとき持参したためだといわれています。
※寛政の改革:老中(ろうじゅう)であった松平定信(まつだいらさだのぶ)が行った江戸幕府の政治の立て直しである。質素倹約(しっそけんやく)等を行った。
平成15年には人吉町鍛冶屋通りの住人たちによる「鍛冶屋通りの町並み保存と活性化を計る会」が「うんすんカルタ」の復興に向けた活動を開始。翌年にはポルトガル大使を招き、友好親善を掲げた大会が開催されて、現在も大会は続いている。
戦前までは、「うんすうんかるた」から天正カルタがつくられたと思われていた。今なおそう書いてある書物があるが、事実は逆である。
この「うんすんカルタ」に、さらに弓矢または矢印のスートと新たな絵札(クン)を加え、更に棍棒の1(アザまたはアサ)を加えた「すんくんカルタ」97枚(16ランク × 6スート + 1枚)も(遅くとも宝永五年までには)つくられたが、これも遊ばれた形跡は無い。
因みに、「うんすんカルタ」花札のような方法で遊ばれたようです。ポルトガル語で「うん(UM)」は1、「すん(SUMO)」は、最高を表します。
この「うんすんカルタ」はほんの一時流行しただけですぐに禁止され廃れてしまい、誰も遊ばなくなってしまったところから、「うんともすんとも言わない」や「うんとかすんとか言ってみろ」の語源になったとされる。
また、「ウンスンかるた」で遊んでいて行き詰った様子に由来するという説があります。
したっけ。