年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 大正時代のまとめ

2006年10月07日 | べったら市
大正時代のべったら市 まとめ
大正時代は第一次世界大戦後の本格的不況・恐慌が日本に来た(大正9年3月)まではべったら市は雨さえなければそこそこの売れ行きだったが時折サッカリンの等を添加したり、甘酒をまぶしただけの大根を売ったり、不正販売の記事が出ていたが総じて交通網の整備と景気の良さで売れていた。べったら市の風習といえるコウジをなすりつける風習は取締りによって消えていったと思われる。
 大正9年の恐慌は日本橋一帯の経済を不振とし、大正12年の関東大震災によって,日本橋区(今の東京都中央区日本橋)は火災で殆どの家屋が焼失し、震災後地震の被害のない関西の商人によって東京進出が始まり江戸以来の恵比寿講のための市であるべったら市は本来の意味を失い一時代が終わった。大正の末頃よりべったら市の記事が減り、昭和に入るとべったら市の記事がマレとなった。あってもべったら市の予告のような記事が増える。
 大正期は
1. 米の需要が都市部で増えた
2. 所得の増加によって麦食から米食を求めるようになった。
3. 大正期の食文化と言われる洋食の普及は象徴であって、庶民までは普及していない。
 米食の拡大と都市部の軍隊・工場・寮等での漬物需要の拡大が大根の需要の拡大を招き、各地の農会は大根栽培を奨励したと思われる。ただ、都市部に於いては蔬菜の価格の低落時には各家庭で漬け込んでいて、漬物業者を泣かせていた。べったら市の大根の価格は大根栽培者にとってかなり刺激的な値段と思われ、この時代に日本各地において大根の品種改良が行われたり栽培指導が農会によって行われた。
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