年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 昭和3年①

2006年10月08日 | べったら市
昭和3年10月19日朝日新聞
行事予定
19日べったら市・・・とあるのみ

関東大震災の少し前から新聞の漢字制限の議論が深まり、大正14年頃から具体的になり、昭和に入ると急に“べったら市”の記事が少なくなり、昭和に入ると“漬”の字が消えた。
 この頃の記事“浅づけ・浅ヅケ”という表記に変わりCDロムの記事検索に浅漬では出てこなくなり、もちろん“くされ市”では何も出て来ない。
 戦前の漢字の字数は5万字以上もあり、欧米に学問で追いつくために学校で教える教育漢字を減らそうという動きは明治時代からありました。漢字を教える時間を減らし、他の教科の時間を増やしました。それでも明治時代の小学校で教える漢字の数は非常に多かった。当然、新聞記事の漢字は多く熟練した組版工が多数必要となりました。明治の新聞のページ数は少なくかったが昭和の頃はページ数も多く時間に追われて大変だったでしょう。
 戦後当用漢字表に“漬”の字がなかったため、法律や新聞記事には“つけ物”と書かれた。今(漬物・つけ物・漬け物)と書かれるのはこの混乱の影響である。なお、今は常用漢字表に”漬“が入り(不動産の塩漬)などにも利用されている。
コメント
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