年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市の歴史 総まとめ

2006年10月20日 | べったら市
べったら市 総まとめ
日本橋区史第3巻508ページ
ベッタラ市の復興
1947(昭和22年)10月19日より再開
戦後初めて宝田神社の例大祭が行なわれ、恵比寿講べったら市開く。以後年中行事となる。
 日本橋二之部町会史より
この当時はまだ物資が不足していて、新聞記事には“べったら市”記事はない。砂糖の状況から当然べったら漬は“サッカリン”入りしかない。

べったら市は知れば知るほど日本の近代史に翻弄されそのしわ寄せが市の商材に現れた。明治の時代は日米和親条約が不平等条約であったため、砂糖が安く出回り、検疫権がないために、船舶の高速化により海外からコレラ等の病気が蔓延した。大伝馬町界隈は江戸の木綿問屋や薬問屋の集積地であり、さらに日本橋の魚河岸は隣の町であった。それらが恵比寿講の市を発展させ、恵比寿講の掛鯛(くされ市)から浅漬大根のベッタラ市に変えた。それらは江戸時代のことでなく、明治20年代から始まり,大正の関東大震災で終わった。もちろん今でもべったら市は続いているが形だけ続いていて,明治の歴史の証人としての役割は終わった。
 大正時代は農会(今の農業協同組合の前身・JA)の指導により大根の品種改良・第一次世界大戦による好況と反動不況と日本橋周辺の問屋街の変貌と祭りのイベント化、明治末期からの路面電車等による人形町付近の興行街化による更に人出の増加が市を大規模化し最盛期は露店の浅漬大根を商う店が600店を超え、べったら市全体でも2000軒の露店が店を開いていた。
 大伝馬町は薬種問屋の本町とは隣町で江戸時代には砂糖を商う問屋があった。平成の現在でも本町には製薬会社関連の会社が多く、大伝馬町付近には砂糖会社がある。
明治6年には暦の改変によってベッタラ市が約一ヶ月早くなり、大根の自然の甘味不足を補うため明治の中頃から安価になった砂糖を使うのは当然の結果となる。さらに、本町の薬問屋で扱っていたと思われるサッカリンは明治19年にドイツから日本に輸入され、甘味料としてサッカリンの使用に向かった。明治の終わりごろにはすでに新聞記事にサッカリン使用の記事が現れている。
 日清戦争後、台湾を領土化した明治政府は台湾糖業を振興保護した。そのためサッカリンを販売目的の食品に使用することを禁止した。しかし、当時はサッカリンの人体に対する危険性は十分に確認されておらず、サッカリンが石炭から出来たタールから抽出したトルエンで作られていて、トルエンの危険性は明治の初めでも知られていて、明治33年頃たびたび起こった食品事故のドサクサで食品衛生法規が作られ、サッカリンもその巻き添えで明治34年人工甘味質取締規則が制定された。
 戦後、砂糖の産地であった台湾と沖縄を失った日本は、昭和20年代は極端な砂糖不足となり、サッカリンが国による専売となって国民に提供した。しかし、サッカリン製造知識が普及していたので密造がさかんとなり、脱税が行なわれた。このことは違法製造のサッカリンは砂糖が徐々に輸入されると危険性報道が盛んになされ縮小に向かっていった。景気が良くなると砂糖は味の良さでサッカリンを勝り、更に砂糖消費量が増えていった。沖縄の蔗糖や北海道の甜菜の保護は今でも続いている。
 冷蔵製造でなかった時代、べったら漬にはサッカリンが必要であった。今では砂糖だけで作れるが大正時代のベッタラ漬はチョット入ったサッカリンの甘味が浅漬露店600軒の原因かもしれない。
 明治34年に制定された「人工甘味質取締規則」は不備の多い法律であったが次々と合成された甘味料を包括的に制限したのは当時としては画期的な法律で、今年から始まった農薬のポジティブリストと合い通じる先進的な法律であったとも言える。しかし、抜け道の多い法を安価な商品を求める消費者と業者によって法規が守られなかったのは残念である。このことはベッタラ漬を製造する良心的な漬物業者が長続きしない原因である。
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