昭和4年・5年・6年満州事変が起こるまでの漬物の景況
昭和4年の漬物の景況は世間の不況が追従し、夏期の天候不順でも成績は良くなかった。秋のベッタラ用大根の不作は高値であったが世間の不況に押され大損害をこうむった。つまり高い大根でベッタラを作っても高くて買う人がおらず投売りしたと言うこと。さらにタクワン用大根を干す時に暖冬で不良干し大根が大量に出、大損害をこうむった年であった。
年が変わって昭和5年になっても不況は続き、漬物業界は常に販売不振となり困難を極めた。その理由として日本各地の行政当局は農家を保護するため蔬菜の栽培を促進した。従来、東京市場には関東近郷の蔬菜しか入荷がなかったが鉄道・自動車の発達によってより遠距離から東京に入荷するようになって来ていった。特に保存食である漬物(タクワン)は遠距離輸送がきき、関東で大根が不作で高値であっても、日本各地から高値で取引している東京市場に向けて,出荷してきて東京の産地である練馬の沢庵業者・沢庵農家を悩ました。平均価格が6割くらいの値段になってしまった。野菜の価格の低迷は一方では原料漬物の原価が安くなったということになるので翌昭和6年を期待して漬け込みを増加した。
昭和4年の漬物の景況は世間の不況が追従し、夏期の天候不順でも成績は良くなかった。秋のベッタラ用大根の不作は高値であったが世間の不況に押され大損害をこうむった。つまり高い大根でベッタラを作っても高くて買う人がおらず投売りしたと言うこと。さらにタクワン用大根を干す時に暖冬で不良干し大根が大量に出、大損害をこうむった年であった。
年が変わって昭和5年になっても不況は続き、漬物業界は常に販売不振となり困難を極めた。その理由として日本各地の行政当局は農家を保護するため蔬菜の栽培を促進した。従来、東京市場には関東近郷の蔬菜しか入荷がなかったが鉄道・自動車の発達によってより遠距離から東京に入荷するようになって来ていった。特に保存食である漬物(タクワン)は遠距離輸送がきき、関東で大根が不作で高値であっても、日本各地から高値で取引している東京市場に向けて,出荷してきて東京の産地である練馬の沢庵業者・沢庵農家を悩ました。平均価格が6割くらいの値段になってしまった。野菜の価格の低迷は一方では原料漬物の原価が安くなったということになるので翌昭和6年を期待して漬け込みを増加した。