野田の醤油史 市山盛雄
明治40年(1907)6月・資本金一千万円で日本醤油醸造株式会社が設立された。創業者であった社長の鈴木藤三郎は特殊な発酵槽と加温によって早期熟成させる方法を案出し、醸造機の特許をとり東京小名木川のほとりに工場を建設した。
翌明治41年(1908年)尼崎町向島(現尼崎市東向島東之町・同西之町)に敷地約2.8haの第二工場を建設しました。当時日本最大であったキッコーマンの6万石をはるかに凌ぐ、24万石の生産が可能な巨大工場でした。東京小名木川と尼崎の両工場をフル稼働すると年産30万石を生産する規模であった。
明治42年11月3日の東京・大阪の大新聞に「不正醤油摘発」の見出しで日本醤油醸造㈱の醤油にサッカリンが多量に入っていると摘発をされたと報道された。押収された醤油は船に積まれ海に捨てられ、大阪湾はこのため海上が赤くなったと伝えられている。更に明治43年5月27日に尼崎工場が出火し建物を全焼し、終に同年11月に解散するに至った。
しかし、この鈴木藤三郎によって作られた醤油は失敗したが旧来の醤油醸造業を近代化するきっかけとなった。
彗星のように急に現れて皆の話題をさらい、直ぐに消えた日本醤油醸造株式会社の事件は今では知る人も少なく醤油業界史にもほんの2~3行の記載となっているが、その影響は現在のJAS規格の『しょうゆ』と『福神漬』に残っている。
明治40年(1907)6月・資本金一千万円で日本醤油醸造株式会社が設立された。創業者であった社長の鈴木藤三郎は特殊な発酵槽と加温によって早期熟成させる方法を案出し、醸造機の特許をとり東京小名木川のほとりに工場を建設した。
翌明治41年(1908年)尼崎町向島(現尼崎市東向島東之町・同西之町)に敷地約2.8haの第二工場を建設しました。当時日本最大であったキッコーマンの6万石をはるかに凌ぐ、24万石の生産が可能な巨大工場でした。東京小名木川と尼崎の両工場をフル稼働すると年産30万石を生産する規模であった。
明治42年11月3日の東京・大阪の大新聞に「不正醤油摘発」の見出しで日本醤油醸造㈱の醤油にサッカリンが多量に入っていると摘発をされたと報道された。押収された醤油は船に積まれ海に捨てられ、大阪湾はこのため海上が赤くなったと伝えられている。更に明治43年5月27日に尼崎工場が出火し建物を全焼し、終に同年11月に解散するに至った。
しかし、この鈴木藤三郎によって作られた醤油は失敗したが旧来の醤油醸造業を近代化するきっかけとなった。
彗星のように急に現れて皆の話題をさらい、直ぐに消えた日本醤油醸造株式会社の事件は今では知る人も少なく醤油業界史にもほんの2~3行の記載となっているが、その影響は現在のJAS規格の『しょうゆ』と『福神漬』に残っている。