年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

干城録と朝野旧聞

2010年12月07日 | 福神漬
干城録・朝野旧聞◆[ホウ]藁
『干城録』は徳川氏の創業から3代将軍徳川家光が亡くなった慶安4年(1651)までの幕臣2,700余人の列伝である。『干城録』は林大学頭述斎(1768-1841)の指揮の下に昌平坂学問所で編纂を継続。天保6年(1835)に全235巻が完成しました。

『朝野旧聞【ホウ】藁』は文政2年(1819年)に林大学頭述斎林 述斎の指導監修のもとに戸田氏栄以下のべ20名以上の幕臣により編纂が始まり、天保13年(1842)に完成したもので、中世末期の遠祖から近世初頭の家康死去に至るまでの、徳川氏の創業・発展の歴史をまとめている。
この2冊の本が都立中央図書館に所蔵されていて、借り出して読むと著者の一人の中に戸田寛十郎氏栄となっている。氏栄は駿府町奉行に天保十四年より弘化四年まで五ヵ年在任していて、駿府町奉行・日光奉行・浦賀奉行に就任する以前は湯島の昌平坂学問所で幕府の歴史編纂者として活躍していたようです。
この事は高野長英が死去した時どの様な影響があったのだろうか。戸田の配下となっていた下曾根金三郎は南町奉行筒井政憲の次男であり、蕃社の獄の件で詳しい説明を受けていたということは容易に想像できる。嘉永2年には浦賀の下曾根の下に内田弥太郎が参加している。(高野長英が万歳の花香恭法宅に隠れた後、死去したのが嘉永3年10月末)
 戸田氏栄の5男鉄丸が氏栄死去後、千葉香取郡万歳の(内田弥太郎の学問上の弟子)花香恭法の養子となった事にどの様な影響があったのだろうか。
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