年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

内田弥太郎

2010年12月08日 | 福神漬
内田弥太郎(内田五観・うちだいつみ)
文明開化と数学と物理 蟹江幸博・並木雅俊著
脱獄した高野長英は(嘉永3年10月30日・1850年12月3日)、内田弥太郎の甥が世話をしていた家でつかまり死去した。内田の甥は流罪となったが、内田は咎めを受けなかった。この理由として幕府開明派の大久保一翁・川路 聖謨・江川英龍の弁護があったといわれる。事件ののち幕府の職を辞し麻布で弟子に詳証学(数学)を教えていたという。
維新史料綱要1巻 210頁 嘉永2年6月5日(1849年)
幕府、小姓組下曽根信敦「後信之・金三郎・後甲斐守」を浦賀に遣し、砲術教授及警備勤務を命ず。尋で、門人内田弥太郎「浦賀奉行手付」を信敦に付属せしむ。

手付とは江戸時代、郡代・代官・寺社奉行などに属して事務を執った下級役人。

維新史料綱要のデータベースでは内田弥太郎(五観)の史料はこの一行のみである。高野長英が撲殺された嘉永3年10月にはまだ下曾根のもとにいたと思われる。彼は以前浦賀周辺の測量を行っていた。小姓組下曽根信敦は元南町奉行だった筒井伊賀守政憲の次男でペリーの来航時、久里浜で国書受領の席に戸田伊豆守の背後で戦闘の準備をし、控えていた。
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