幕末遠国奉行の日記 -御庭番川村修就の生涯-小松重男著
嘉永5年に引退した南町奉行だった遠山景元の本を読んでいて、さらに明治の歌舞伎・遠山桜天保日記から終幕の舞台がなぜ新潟か気になってこの本を読みだした。
天保年間に始まった新潟奉行は初代の町奉行川村修就で維新後の明治11年まで生きていた。子孫はその多くの資料で江戸時代の分は新潟県に寄贈し、明治以降の分は江戸東京博物館へ寄贈したようだ。
日本海側の小さな湊町であった新潟町が北前船による密貿易で栄えていた土地を1843(天保14)年 に、幕府が長岡藩領から新潟町を取り上げたのが新潟上知です。この密貿易を探知したのが幕府隠密でした。天保の頃は度重なる天災とロシアを筆頭として異国船が日本の沿海を航行し、時には海上で漁民と物資のやり取りしたり、無断で上陸し、農民と交流を持った事例がありました。特に水戸藩の大津浜に一時上陸した異国人がいました。異国人と農民が言葉が通わなくても交流があったことが水戸藩の危機意識を高め、幕末の攘夷思想の根本となりました。
築地市場で長年働いていて、まだ外国人観光客が少ない、バブル時期は築地市場もまだ活況があって、平成の初めに大田市場が開場し、築地の青果部の大口の顧客が大田市場に移動するまで、不法残留や蜜入国の人たちが築地市場で働いていました。彼らは日本語が出来なくても何とか数字と体力で仕事をしていました。彼らは金を稼ぐために日本に来ていたので、市場の人たちに告発されることを恐れていました。築地の人たちは不法と知りつつ、代わりの日本人が年寄りしかいないので食堂では若い異国人(イラン・バングラ・ミャンマ-・パキスタン・中国人等々)が働いていました。言葉が通わなくても築地では体力があればなんとかなるのです。水戸藩農民も異国語を話さなくても通じるということが水戸藩上層部の脅威となったと思われます。
19世紀半ば、江戸幕府の支配は大きくゆらぎ始めます。1841年、幕府老中水野忠邦は、 幕府政治の改革に乗り出します。新潟は、日本海沿岸の海上交通の重要地点であり、幕府の流通統制からはずれた 抜け荷の舞台となっていました。異国船に備えた海岸防衛を強化し、商品の流れを把握し、幕府権威の再確認を するために、幕府は新潟を長岡藩から密貿易の監督不行き届きを理由とし、上知して取り上げたのです。
初代新潟奉行として赴任した川村修就(かわむらながたか)は,政治・社会の動揺に危機意識を持つ官僚であり、お庭番から勘定吟味役 に登用されていました。町奉行の初代は前例となるものが無く、江戸町奉行の良し悪しを調べ、町の運営を行いました。修就は新潟を皮切りに堺・大坂・長崎の奉行を歴任し、明治の10年代に死去しました。
新潟奉行川村修就
天保14年閏9月(1843)より嘉永5年7月(1852)
新潟奉行の退任時は江戸南町奉行遠山景元(金さん)だった
弘化2年3月(1845)より嘉永5年3月まで、南町奉行で遠山景元で天保の改革時は遠山は北町奉行で南町奉行鳥居耀蔵 (とりい-ようぞう とと対立した。
歌舞伎の遠山桜天保日記を知って、その筋書きの最後に新潟の繁栄している場面が出る。これは作者の竹柴其水の何か思惑があって、天保の改革で打撃を受けた歌舞伎と寂れた江戸の町を比較し、繁栄していた新潟を持ち出したのだろう。新潟は川村が初代新潟町奉行に就任する前は密貿易の盛んな町で、幕府の直轄の町となり、新潟町奉行が川村修就で遠山を町奉行の手本としたようで、多くの行政の基本を創った。江戸より繁盛していたようだ。