年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

やむ得ず欠席通知

2022年02月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
鹿児島県南鹿児島市知覧特攻慰霊顕彰会から5月3日の慰霊祭の出欠返事で悩んでいたが、コロナもあって今年は不参加決断をした。それでもコロナが収束し旅費等が安い時期にゆっくりと南鹿児島の慰霊旅をしてみたい。
 高校生等の修学旅行時期で人気が一位の観光地となったのは、1036名の壮絶な死が魂を覚醒させるのだろう。18歳から23歳くらいの優秀な学生が敗戦間際と知りつつ、死を予定していた飛行機搭乗の直前に笑顔で別れの挨拶をしている写真は涙を誘う。
 昭和20年5月15日に台湾花蓮港の料亭新川で叔父たちの特攻メンバ-が宴会をひらいた。その記念写真の前列には隊長の回りに、叔父ら6名が座っていて、後列には後に特攻することになった人たちがニコニコし、ふざけている記念写真があった。真面目な叔父は特攻隊の心の乱れを懸念したか重苦しい姿で写っていた。台湾の5月中旬は日本の梅雨の始まり頃で、蒸し暑いという。隊長以外は楽な服のようだった。後列の人たちは無礼講らしくYシャツ姿で汗拭きのタオルではしゃいでいる姿も見える。とても特攻直前の写真とは思えない。
 知覧の1036名という数字はどうも定義があって、陸軍で特攻命令が出て出撃して、散華した人たちのようだ。空中戦で損傷し、米軍等の艦船に特攻した飛行兵は含まれない様だ。これは後の軍人恩給にも影響する。叔父たちの特攻攻撃で戦果確認機が1機出撃しているが、米軍と戦闘になり、台湾に戻ることはなかった。彼は特攻隊員でないので知覧の1036名に入っていない。しかし同期の仲間の記憶では同じ死の扱いとなっている。

 中田芳子著 14歳の夏 特攻隊員の最後の日々を見つめた私

この本で台湾の叔父たちの行動とその後が書かれている。
この少女は今は90歳となっている。あの記念写真がなければ叔父の最後の日々が不明になるところだった。生き残った同期の特攻隊員の戦後の心に大きな傷があったようだ。偶然知り合ったのは叔父の魂がまださまよっていると感じる。
 そして間もなく、下北沢の町おこしをしている作家がこの第八航空師団の204隊の歴史を書籍とする。主な内容は7月19日の特攻作戦で、沖縄が米軍に制圧されている状況で飛びたった。隊の名誉のためで最初から戦果は期待していないと感じる。コロナの下で台湾の現地調査が出来ず、リモ-ト取材で苦労した様だ。この本が出れば叔父の魂が安らぐと信じたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする