蕨の図書館で研究誌『暁斎』を拾い読みしていて、暁斎の絵日記に三河屋幸三郎から絵の催促人が来ている日記があった。どのような関係があったのだろうかと頭の隅に残っていた。今コピ-した資料の断捨離をしていて、上野の彰義隊の遺体を放置されていたので幸三郎の義侠心で上野の地に埋めた。これでコピ-したのだろう。
旧幕府・史料 同方会報告第五号 沢太郎左衛門氏演説述
北方領土エトロフ島に日本の領土を示す柱を建てたのが近藤重蔵でその子の流人近藤富蔵が殺人を犯し、八丈島に流され、明治になって赦免されたが、手続きの漏れによって東京に戻ることは出来なかった。この時に支援したのがIHIの創業者平野冨二で彼は遭難し、八丈島で近藤富蔵の世話になった。富蔵の書いた『八丈実記』は今は東京都の文化財となって、当時の民俗資料となっている。この八丈実記に平野冨二のところに『大恩人』と書いてあった。近藤富蔵が東京に戻った時、多くの人が新聞記事を見て、富蔵に寄付をした。その中に三河屋幸三郎の名前があり多大な金を寄付した記録があった『八丈実記』。
何か違和感があって旧幕府の史料を読んだら、幸三郎は八丈島へ流された流人と現地妻の子で、親が赦免された時、例外的に江戸に帰ることが出来た。島への恩義を幸三郎は考えていたと思われる。
幸三郎は明治22年に死去したのだが晩年の仕事は根付等の美術品を輸出する仕事をしていた。高村光雲とも交流があったが幸三郎が早く死去したため、光雲の息子(高村 光太郎) の生活が厳しかったという記録がある。また根岸に住んでいた河鍋暁斎と交流があって、三河屋の手代が幸三郎の代わりに暁斎の家に出向き、注文してあった暁斎の絵の催促をしている暁斎絵日記がある。
高村幸太郎の妻は女流画家で『智恵子抄』で知られている人物で福島県二本松市出身である。
福神漬の史料を読むと、二本松・上野・根岸・横浜という地名のほかに美術と輸出関係が良く出てくる。