以前BSで放送されていた勝海舟の母のドラマが地上波で放送される。天保の改革時代の下町深川・勝海舟の父小吉のドラマで、一応時代考証もされているようだ。最終回には蘭学者となった勝海舟のところに放火脱獄逃亡中の高野長英が来る場面がある。
多くの高野長英の評伝本や小説では嘉永3年10月末に高野は南町奉行の支配下の与力たちの捕縛行為に抵抗し、撲殺された。同じ月に高野が勝海舟のところを訪問した事実は比較的に小説では無視されていた。ところが国会図書館の鑑定では勝に贈呈した高野の自筆の複写本が本物となっている。
勝海舟の誇大主張は多く、咸臨丸の自慢話から非または反勝海舟を生んでいる。高野長英の死去間際の勝海舟との面談は多くの小説家の悩みの種だろう。今西口克己著『高野長英』の最後のところを読んでいるがなぜ阿部正弘が高野の隠れ家を知っている小説の筋には無理がある。どちらかというと勝海舟の評伝本を書いたか勝部真長氏の小説の方が後々の結果から納得できる。氷川清話の横谷(横井)宗与はどんな人物なのだろうか。
長英を逃亡を手助けし,南町奉行遠山景元によって流罪となった内田弥太郎の親族の宮野信四郎の扱いが中途半端で、彼は明治元年暮に新島から赦免され(新島村史・流人編)江戸(東京)にもどったことの整合性がとれない。当時の流人は江戸からの支援金がないと生き残ることは難しかった。誰が支援したかというと内田五観(弥太郎)しか考えられない。
同時に流罪となった3人のうち、松下寿酔は獄死の記録があるが残りの二人の流人の記録がない。東京都公文書館で調べてもらったが、記録もないし今まで調べに来た人もない様だ。流罪人の記録はバケツリレ-のようなもので通過の関所で改めがある。どこかに記録があるのに史料がない。これでは島抜けしても解からないことになる。考えられるのは獄中死去しかない。嘉永3年12月末の判決から翌年4月の江戸からの春の流人船までの期間で死去したしか考えられない。残りは南千住の獄死者を弔っている回向院しか記録がない気がする。
高野長英の逃亡先の発見は諸説あるが蘭書翻訳取締令(嘉永2年(1849年)から翌年にかけて江戸幕府が出した一連のオランダ語などのヨーロッパの文献に対して行われた翻訳及び刊行に関する一連の規制)があって、手書きの逃亡していた高野の翻訳書の出回りから、生存説が出て、市中をを探索したと思われる。今でも軍事用語は国によって用語の意味が異なり、単に翻訳しても意味不明となる。高野は当時の日本人の中で軍事用語翻訳の第一人者でそれを手書きで複写したら高野が生きていること想定することになる。なぜこのことが広く知れていないのは、嘉永2年から3年にかけて、幕閣上層部では異国船打ち払い令再発動問題、株仲間再興と重要問題が協議され、秘密保持が厳しかった。特に株仲間再興は市中の業者への情報漏れを気にしていた。
老中阿部正弘. 留守居役元南町奉行筒井政憲、南町奉行遠山景元の間で嘉永3年春にオランダの江戸参府時に幕府に献上された軍事本の翻訳で新任の蘭通詞立石得十郎には荷が重かった。そこで市中に出回っている蘭書軍事本の翻訳者を探したと思われる。
高野が生きていると仮定すると、当時の浦賀奉行で高野の仲間だった尚歯会の内田弥太郎と下曽根金三郎が砲台整備で働いていて、浦賀奉行から高野の隠れ家を聞かれたと思う。内田は高野を拘禁させ、生かして翻訳させる提案に乗ったとすると、長英捕縛時に死去しても、内田は逃亡を助けても無罪となった理由となる。このことがら嘉永3年10月中に処理しないと、管轄が北町に移ってしまうので晦日の夜に無理したと思われる。そこで高野が話が違うと思って抵抗し、話の通じていない南町奉行配下の与力たちの怒りを買い、撲殺されたという方が後々の歴史から理解が進む。
この高野の捕縛死が新たな歴史を生んだと思う。自由民権運動福島事件の唯一の東京士族花香恭次郎の誕生となる。
福神漬の逸話を語った鶯亭金升の日記には後世の人が読むことを想定していて、都合の悪いことは控えめに記述しているので解明に時間がかかった。