年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

今の戦争のことは書きたくないので

2022年02月26日 | 築地市場にて
築地市場の移転騒動時に大正のコメ騒動から、政府が物価が上がり、買い占めの商人たちを社会主義者が煽っての打ちこわし等の攻撃の対象となり、死者まで出る暴動となった。このことから中央卸売市場法が出来て関西から中央卸売市場が出来てさらに公設小売市場が出来た。これは最近まで残っている公設市場の始まりだった。
 東京が遅れたのは関東大震災と利権等の思惑があって、東京市議員の不祥事もあって昭和10年2月に築地に移転した。すでに昭和の恐慌時代で、農村の苦境のため、地方自治体は東京市場に期待していたようだが中国との戦争ですぐに統制経済となり配給所となった。品物も少なく、さらに若い人は兵隊となってしまった。今と違って人力運搬のリヤカ-や大八車が残っていて徒歩圏から築地や神田の青果市場に運ばれていった。この戦争中の記録は少ないと感じる。東京市場の歴史で業者の古老の話は不祥事が消されていて、真実の歴史と異なる。うまく立ち回った人が生き残った。戦後は築地市場内の青果部が米軍に接収され、ドライクリ-ニング場となり、豊洲移転時に築地市場の地下汚染が広く知られた。
 戦後のヤミ市の時代で卸売市場は統制で繁盛していた、さらに決済の点でも安心があったようだ。商材が集まり、配給時代でも築地のごみ集積場では一部が傷んでいて商材が捨てられいたので、給与の少ない労働者たちがごみ漁りをしていたという。築地の豊洲移転の最後の時は、場外からのごみの不法投棄を監視するカメラがついている時代となった。
 平成30年10月の大安の日に豊洲へ移転したのだが、飲酒していても業務の出来る大八車がまだ残っていて、初セリのマグロの映像では電動タ-レでは運搬している映像でなく大八車に初セリマグロを乗せた映像だった気がする。演出だろう。築地.大田は世界とつながっていて今度のウクライナ戦争はどの様な具体的な不自由さを感じ始めるのだろうか。それは海運会社から始まる気がする。ロシア絡みの為替相場で変動がありすぎて、当分様子見となるだろう。

 築地市場には暖房がなく、冬場は臭いの出ない練炭が最後まで使用していたところがあったようで、市場の休み前には東京都が練炭の始末の注意をしていた。今から思うと良く火事があった。そして新聞報道では中央区築地5-2-1となっていて、慌てた地方の荷主から火事見舞いを頂いた。
コメント
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