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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

戯作者と福神漬 ①

2007年04月15日 | 福神漬
福運を授けてくれる、七福神にちなむ「福神漬」は戯作者梅亭金鵞の命名と言われるが福神漬創製者と野田清右衛門とどのような関係があったのだろうか。
団団珍聞で梅亭金鵞と共に活躍していた鶯亭金升(おうていきんしょう)の「明治のおもかげ」によると、金升や金鵞は不忍の池の弁天島の後ろに住んでいた松亭金水の弟子であった。松亭金水(しょうていきんすい)は幕末に人情本を書いていた。井上ひさし著「戯作者銘々伝」によるとかなりいい加減な作家で結末を読者に任せたり、登場人物をくるしくなると死なせたり、また生き返らせたりしていた。また情事の最中屁を出させていたりしていた。
梅亭金鵞は金水の家に集まっていた人々の茶番の趣向にうつつをぬかしていた生活を「七偏人」に書いていたという。
今では面影もないが不忍の池の周辺は今で言う歓楽街でいかがわしい人たちが集まっていた。上野仲町通りは昔のままの歓楽街である。
鶯亭金升の略歴
1868年生まれ慶応4年 秋には明治元年
1954年死す
明治から昭和にかけて新聞記者として活躍する。

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夏目漱石の三四郎と福神漬

2007年04月14日 | 福神漬
夏目漱石著「三四郎」より福神漬の缶詰
「三尺くらいの御影石の台の上に、福神漬の缶ほどな複雑な機械が乗せてある」
此の缶の大きさは今の流通している福神漬の缶の大きさと異なるように思える。業務用の大きな缶のようだったのか。
明治41年に東京と大阪の朝日新聞に連載された新聞小説「三四郎」には福神漬とあるだけで何も説明が無い。すでにこの当時普通名詞化されていて知れ渡っていたのだろうか。三四郎が徘徊していた大学付近は福神漬の発明地に近くかなり知れていたのだろう。三四郎という小説は田舎の高等学校を卒業して東京の大学生活に入って新しい都会の空気に触れて色々な出来事が起こる小説で、その中に何の説明も無く福神漬の缶が出てくる。明治41年の小説である。 
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明治時代の兵食としての漬物

2007年04月13日 | 福神漬
日清戦争時の漬物
日本缶詰史によると日清戦争時には緊急に海外から輸入した缶詰を兵食として用いたが味に馴染まず下痢したため不評であった。特に缶詰の肉類は味が馴染めず嫌われていた。
森鴎外全集第33巻305ページ 
日清戦争時の兵士の食料は一人一日精米6合に対して漬物類は56.25グラム或いは梅干45グラム或いは食塩11.25グラムとなっていて,福神漬はまだ出てこない。缶詰は獣肉・魚介だけであった。
 福神漬の缶詰は日露戦争から兵食として書類にある。その前はどんな容器で兵士に供されていたのだろうか。
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福神漬の碑 西日暮里

2007年04月12日 | 福神漬
福神漬表彰碑
明治44年建立
表書き
福神漬発明者 野田清右衛門
裏には和洋缶詰新聞社社長風戸弥太郎他16名の名前がある。その中には京橋大根河岸の河村屋村田輿兵衛の名前もある。
荒川区西日暮里3-4 地下鉄千代田線及びJR西日暮里駅より5分 線路沿いに道灌山へ向かい上野方面に行き、諏訪神社のとなり。
 浄光寺 (雪見寺)山門を入り直ぐ右手に碑がある。境内に「吉宗将軍腰かけの石」があります。眺望がすばらしく、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれました。
浄光寺に福神漬表彰碑がある理由は野田家の墓があったそうですが今は無縁となり、墓はなくなりました。 
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梅亭金鵞 福神漬を命名したと言われる

2007年04月11日 | 福神漬
梅亭金鵞 福神漬を命名したと言われる
ばいてい きんが
1821(文政 4年)生まれ1893年(明治26年)72歳で死す。
◇江戸後期~明治の滑稽本・人情本作者。本名は瓜生政和(ウリウ・
マサヤス)、江戸両国生れ。父は柳剛流の剣客吉田勝之丞。
 少年時代、父から修業を受け江戸若手剣客の雄とうたわれるが幕末のため役に立たず、松亭金水や戯作者と交わるうちに、自らも染まって戯作に手を出し戯作者となる。しかし明治維新とともに支援者と読者を失った。明治初めは極端な実学偏重の時代となり文学で生計を立てるには困難な時代となっていた。明治5年教部省発令の「三条の教憲」により文明開化を宣伝するため、教科書、新聞界に進出して行った。
福神漬を命名した明治18年から19年ころは団団珍聞主筆として活躍していた。
1877年(明治10年)創刊した明治40年廃刊。諷刺週刊誌。幕臣の子であったので次第に明治政府を批判していった。
「三条の教憲」とは、
一、敬神愛国ノ上旨ヲ体スベキコト
一、天理人道ヲ明ラカニスベキコト
一、皇上ヲ奉戴シ、朝旨ヲ遵守セシムベキコト
の三条。「教導職」として神官・僧侶の他、講談師、俳優、戯作者などを動員し、啓蒙活動に当たらせた。あらゆる方法をとって江戸幕府を否定し明治文明開化を宣伝した。
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日本缶詰史 第1巻より

2007年04月10日 | 福神漬
日本缶詰史 第1巻 146頁
東京毎日新聞鶯亭金升(長井総太郎)によれば福神漬の名付け親は金升の師匠の梅亭金鵞(ばいていきんが)であるという。梅亭は江戸作者松亭金水の門下で七偏人という滑稽本を著し、人情本も多く書いたが明治10年団団珍聞(世間では○珍と称し明治40年廃刊)というポンチ雑誌に主筆として招かれた。団団珍聞もだんだんと発行が盛んになった明治18年酒悦主人がなた豆、しそ、大根、などを程よく醤油で味付けた缶詰を梅亭宅に持参し、その引札と名付けを頼んできた。酒悦は江戸時代から香せんと屠蘇(とそ)、その他祝儀の熨斗(のし)や酒の肴のウニ、カラスミなど諸国の名産を売っていた関係で酒悦というめでたい屋号を持っていた。梅亭先生は酒悦の依頼に気をよくして、試食一番「この漬物で毎日茶漬を食べれば、自然金が溜まるし,身体も丈夫になる。故にこの漬物を賞味する家は福の神に好かれるから、福神漬と名付けた。お家繁盛万々歳」という訳で、梅亭は福神漬と命名した。
 酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版のきれいな引札を印刷し戸毎に配って広告した。金升は小石川指ヶ谷町の梅亭の自宅で引札の印刷を手伝ったという。これは大正12年7月に開かれた第9回缶詰研究会に出席した鶯亭金升の直話である。
 (缶詰時報第2巻7号・8号)
この福神漬は時流に投じてたちまち各方面へ喧伝されその生産も増大し、特に日清・日露の戦役には軍用品として戦地の人気を独占した感があった。その製法も比較的単純であったため、蔬菜生産地では至るところこれを製造し同工異曲の製品は名称を変えて店頭を賑わした。

鶯亭金升の話が世間に伝わっている「福神漬」の命名話の出所だろう。
引札とは今の新聞等に入っているチラシのようなもので商品の宣伝や開店の披露などを書いて配る広告の札です。
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日本醤油事件 余談 ②

2007年04月09日 | 福神漬
荏原製作所創業者畠山一清はサッカリン入り不正醤油事件当時日本醤油醸造の機械の管理責任者であった。

熱と誠 畠山一清著 (荏原製作所創業者)より
日本醤油醸造の製品にサッカリンを添加したのは輸出した醤油が洋上で樽が発酵によって爆発したためサッカリンを入れることによって発酵を抑えようとした。当時ではサッカリンは保存料として使用していた。
 しかし、今の見方としてはサッカリンの防腐効果は少ないと思われる。

鈴木藤三郎が畠山一清に教えた報徳精神とは人間は朝から晩まで働き、生まれてから死ぬまで働き尽くすものである。社会は年々発展していくものである。
今の荏原製作所にはこの精神が伝わっているのでしょうか。
先日白金台にある畠山記念館を訪れて琳派の美術品を見てきました。秋になったら千宗旦の関連の展示があるのでもう一度訪れてみようと思います。
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福神漬の缶詰

2007年04月08日 | 福神漬
福神漬の缶詰

大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。以来時節に合いたちまち都下に宣伝されて、その製造俄かに増大し27年から28年(日清戦争)及び37年~38年(日露戦争)の戦役には軍用として多大の需要があって、この後日本中に普及し旅行に欠くべかざる食品となった。これをおいて置かなければ食料品店とならず蔬菜産地としてこれを製造していないものは無い。最近に於いてますます増大していて、これと同工異種の製品は種々の名前で出ていてその数は十数種を超えている。

多くの資料で福神漬の命名の由来が梅亭金鵞であるというが、この資料には出てこない。
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築地市場 移転問題の記憶 5

2007年04月07日 | 築地市場にて
選挙がどんな結果に終わろうが徳川家康とともに関西・伊勢・三河から来た人たちの子孫が明治維新・関東大震災・先の大戦を潜り抜けて築地にいたので豊洲へ移転時までに廃業する人もあるだろう。どんな形でも老朽した築地市場は現状のままではのたれ死になって、過去の存在となってしまうだろう。
 市場のことを考え発言することはぞれぞれの人の人生観が出てくるので世間を騒がす話題となるのは止むを得ない気がする。矛盾の塊といってよい。食の安心安全と低価格物流をどう両立するか。食料自給率は現状でよいのだろうか。過疎地の農山魚村の維持と環境保護。水資源とその受益者の都市市民等々の問題がありすぎる。
 日本橋の魚河岸と京橋にあった大根河岸は明治政府の欧化政策で明治20年代から移転を迫られていたが、結局関東大震災によって、朝鮮人虐殺騒動があり、そのドサクサで戒厳令が発動され、日本橋魚河岸に立ち入りが阻止された。市場の移転は災害と強権力でなくては出来なかったのである。日本橋魚河岸が約50年かかって昭和10年に築地市場へ移転した。パリの市場でも同様に移転計画から実施されるまで年数がかかり政治問題となっていた。
 移転することは築地の人は止むを得ないと思っているが具体的な問題では反対だろう。特に水産部は東京都におされているのでこのままでは使いにくい市場になってしまう気がする。
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築地市場 移転問題の記憶 4

2007年04月06日 | 築地市場にて
温度差
築地市場内を巡回している銀行の人(築地では銀行員にスーツに長靴の人も)や生命保険のおばちゃんの話では青果部の状況と水産部の状況は異なり、青果部は殆ど終わってしまっていて、水産部は何にも決まっていなくて都に押しきられているように思われる。その差は青果部には荷受が一社しかなく、ライバルの大田市場に食の安全・安心で負けているので揉めている状況ではなく、またまとめ役がいるので結論の出方が早く都も交渉が簡単だっただろう。しかし水産は荷受が7社もあるしライバルの市場もなく、まとめ役も無く一任ということにはならないだろう。そんな時にダイオキシン問題が出てきた。外部から見れば面白いだろうがどうも本質の議論が消えそうである。
 本質の議論とは設備と使用料のことである。まだ幾らになるか都の人も概算でも出せないといっている。卸売市場が出来たのは大正時代の米騒動で物価騰貴を抑制するためであって、新市場の使用料が高騰して魚の値段が高くなっては中央卸売市場の役割が果たせなく、民間に任せたほうが良くなってしまうのではないだろうか。
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築地市場 移転問題の記憶 3

2007年04月05日 | 築地市場にて
築地市場 移転問題の記憶 3
第3回目の移転問題、厳密に言うとこの間に汐留の貨物駅(現シオサイト)に仮移転し、築地市場を再開発するという案があったが、国鉄清算事業団と賃料等が合わなく、立ち消えとなった。築地市場再開発工事は一部着工したが遅遅と進まず都の財政危機で中断となってしまった。
 第3回目の移転案は豊洲市場への案であった。この案の良い所は築地市場と2キロほどしか離れていなく、中央区に住んでいる人にも許せる範囲の距離であった。主な所有者は東京ガスで敷地全体の買収は簡単だと思われた。その当時はまだ有害物が地下あることが知られていない状態だったか隠されてのかもしれない。
とにかく新市場の移転検討会は理念から始まり何回も開いていた。発言に対し国会のように速記者が付き議事録も作成していた。何れ時期が来れば情報公開で三菱総研・都庁の関係者・水産部・青果部・関連事業部・買参人(買いに来る人=小売業者)の発言が公開されるだろう。
 青果部に於いて、検討会の最大の争点は「食の安全・安心」を新市場でどう確保するかだった。
 都は高床にして市場荷置き場と駐車場の高さをかえセリ場へトラック等の侵入で有害物の持込を阻止しようとしていた。それは現築地市場でターレー(小型運搬車)の排気ガスで市場内の空気が汚れているためである。新市場は青果部ではセリ場、荷置き場は夏期28度になるように設計していた。したがって排気ガスのでない電気による動力の車しか入れないことになる。電気で動くトラックは無いので当然場内には入れないのである。
 高床の論争と場内物流の件で殆ど会議は終始していた。都は立派のもの、場内の人はPFIになるのでなるべく安く、効率よくしたいと思っていて討議していた気がする。過剰設備は市場の使用料に反映するので無駄な設備、維持管理費がかかりそうな設備は避けたいと話していた。他の市場と競争があるので新しい設備と高い使用料は両立しない。

PFI(Private Finance Initiative:プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)」とは、公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して行う方法で近日中に入札がある予定だったが全体の計画のまとまりが出来ず少し遅れる。
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築地市場 移転問題の記憶 2

2007年04月04日 | 築地市場にて
第2回目の築地市場移転問題は現築地市場再開発案だった。この案の紆余曲折事情は北田水産のホームページ(トピックス 平成12年1月28日)に詳しく載ってます。結論から言いますとバブル崩壊で都の税収が不足となり、移転が無いので跡地の売却益はむり。つまり計画が行き詰まったのである。
 この第2回移転問題の象徴は銀座ヨットハーバー撤去騒動と築地川の埋め立て騒動です。今から思うとこっけいですがバブル当時浜離宮と築地市場の間の築地川にはヨットの停泊所が在って、どんないきさつかわかりませんが銀座ヨットクラブの会員権なるもあったような記憶があります。公有水面不法占拠で行政執行され撤去されました。その後に再開発のための工事用通路を築地川につくることになり埋め立てか桟橋かでもめ。現在あるように桟橋になりました。しかし工事用として出来た桟橋通路は中央区が年末年始の一時期しか使用を認めていませんでした。場内の混雑緩和のための桟橋通路が解放されたのはごく最近のことです。この間築地市場に買いに来る客は混雑のため他の市場か場外業者に流れました。
 今でもヨットは桟橋の向こうに見えます。ヨットクラブ撤去騒動の時は築地川も濁っていて最近ボラがたくさん泳いでいるのが見えた時ここまで綺麗な水になったと思いました。撤去騒動の時はメタンガスらしきものがプクプク浮かんでいました。とにかく築地市場再開発案は工事期間中の営業の不安でまとまりません。なにせ何年間か不遇の位置にいたら客足が無く従業員に逃げられ繁盛しているライバル店に移ってしまいます。
参考 今の築地川のヨットの状況 TBC(Tsukiji Boat Club)のホームページを見てください。

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築地市場 移転問題の記憶 1

2007年04月03日 | 築地市場にて
何時にまにか築地市場の移転問題が都知事選挙の争点になってしまったのは移転問題の築地市場検討会に2年以上前からオブザーバーとして参加していた自分から見れば、ダイオキシン問題はまだなく、築地市場の移転は日本の農水の政策をどの様に変えてゆくかの方向を討議していました。三菱総研の人たちと都庁の若手と市場関係者で食の安全・安心とともに低価格で物流することの討議をしていた。意外だったのは市場関係者が過剰設備に反対していたこと。都庁の人たちは世界一の最新の市場にしようとしていた。しかし、市場関係者は年寄りに扱えない機械設備・故障に対応できない設備は嫌っていた。市場は早朝から開いていて、修理は9時からなどでは間に合わない。いずれ市場の使用料に過剰設備分の費用は料金に転嫁されることを恐れていた。大阪の中央卸売市場の使用料は高騰し、市場内から移転出来る人は安く借りられる市場外に移転している。市場の費用は市場外より安くなければ何の魅力も無い。自由に拡大も縮小も出来ないし、些細な事でも書類がいるのである。
 築地市場の移転問題は今回が初めてでなく、すでに30年以上前からあった。最初の案は今の大田市場のとなりで野鳥公園の位置だった。中央区の反対ともたもたしている間に埋立地に野鳥が住み着き貴重な繁殖地として公園となってしまった。中央区の反対理由は築地市場が移転すると中央区のかなりの住民が築地市場に関係していて、区から転居してしまい区が過疎地に成り下がる恐れがあったためと思われる。(個人的意見・30年前は都心に住んでいる人がどんどん郊外に転居していて区民が減ることは行政需要の低下をもたらし。区職員を減らすことになる。今中央区は高層住宅が増え人口は増大していて築地市場が移転しても困らない)
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缶詰

2007年04月02日 | 福神漬
福神漬の缶詰
東京缶詰同業組合十年史 1934年(昭和9年)刊より
組合員として福神漬の缶詰を製造していたと思われる業者名
酒悦商店 下谷区池之端仲通り
大木寅吉 日本橋室町1丁目
川村与兵衛 京橋区港町2―17―1

今では福神漬の缶詰はあまり見かけなく、酒悦と国分のしか市販では見かけなくなりました。しかし、明治時代には福神漬は缶詰入り販売されたようです。
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不正醤油事件資料②

2007年04月01日 | 福神漬
昭和初期における自家用醤油
 ヤマサ醤油の推定 ヤマサ醤油社史より
約150万人が自家醸造していると思われ、西日本が多い。長崎県などは50%の人が自家醸造の醤油を使用していたという資料もある。
全国476万石中106万石が自家用醤油と推定される。大正14年の醤油税の時には自家用醤油は153万石で営業用は350万石となっていた。昭和に入って醤油税が廃止になるとますます混乱した。
1 醤油税廃止後、昭和初期の不景気時に農村救済策として自家用醤油醸造が奨励していた。
2 産業組合が醤油醸造を行なうようになっていった。=組合存続の目的もあった。
3 農家の副業として奨励した。

昭和初期の世界恐慌時に農村経済を振興するため、醤油を初め漬物も振興していて、東京市場には各地から沢庵が列車によって入荷してきた。東京市場は安価な漬物によって市場は混乱し、不正な取引がはびこった。目方不足・生漬かり・代金の不払い等のによって乱れていた。昭和10年に築地市場が開場し、混乱を抑えようとした。しかし、間もなく戦時経済に突入しその当初の目的は果たせなかった。


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