年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日本缶詰史 第1巻より

2007年04月10日 | 福神漬
日本缶詰史 第1巻 146頁
東京毎日新聞鶯亭金升(長井総太郎)によれば福神漬の名付け親は金升の師匠の梅亭金鵞(ばいていきんが)であるという。梅亭は江戸作者松亭金水の門下で七偏人という滑稽本を著し、人情本も多く書いたが明治10年団団珍聞(世間では○珍と称し明治40年廃刊)というポンチ雑誌に主筆として招かれた。団団珍聞もだんだんと発行が盛んになった明治18年酒悦主人がなた豆、しそ、大根、などを程よく醤油で味付けた缶詰を梅亭宅に持参し、その引札と名付けを頼んできた。酒悦は江戸時代から香せんと屠蘇(とそ)、その他祝儀の熨斗(のし)や酒の肴のウニ、カラスミなど諸国の名産を売っていた関係で酒悦というめでたい屋号を持っていた。梅亭先生は酒悦の依頼に気をよくして、試食一番「この漬物で毎日茶漬を食べれば、自然金が溜まるし,身体も丈夫になる。故にこの漬物を賞味する家は福の神に好かれるから、福神漬と名付けた。お家繁盛万々歳」という訳で、梅亭は福神漬と命名した。
 酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版のきれいな引札を印刷し戸毎に配って広告した。金升は小石川指ヶ谷町の梅亭の自宅で引札の印刷を手伝ったという。これは大正12年7月に開かれた第9回缶詰研究会に出席した鶯亭金升の直話である。
 (缶詰時報第2巻7号・8号)
この福神漬は時流に投じてたちまち各方面へ喧伝されその生産も増大し、特に日清・日露の戦役には軍用品として戦地の人気を独占した感があった。その製法も比較的単純であったため、蔬菜生産地では至るところこれを製造し同工異曲の製品は名称を変えて店頭を賑わした。

鶯亭金升の話が世間に伝わっている「福神漬」の命名話の出所だろう。
引札とは今の新聞等に入っているチラシのようなもので商品の宣伝や開店の披露などを書いて配る広告の札です。
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