年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬の缶詰

2007年04月08日 | 福神漬
福神漬の缶詰

大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。以来時節に合いたちまち都下に宣伝されて、その製造俄かに増大し27年から28年(日清戦争)及び37年~38年(日露戦争)の戦役には軍用として多大の需要があって、この後日本中に普及し旅行に欠くべかざる食品となった。これをおいて置かなければ食料品店とならず蔬菜産地としてこれを製造していないものは無い。最近に於いてますます増大していて、これと同工異種の製品は種々の名前で出ていてその数は十数種を超えている。

多くの資料で福神漬の命名の由来が梅亭金鵞であるというが、この資料には出てこない。
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