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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

都議会の解散風

2010年12月16日 | 築地市場にて
どうやら町に議員のポスターが増えてきて、解散風が吹き始めたのだろうか。来年4月の都知事の選挙は都議会議員解散となって同日選挙となるか、3月中に選挙となって衆議員解散への呼び水となるのだろうか。いずれにしても来年2月は中国の春節物価高騰となって日本の食品の転換期となるだろう。15日の日本経済新聞には日本企業の中国における人件費高騰でも撤退は無いと書いてあったが、食品に関しては日本国内に価格転嫁は難しく、他国へ転出する動きが加速し、中国内の食品工場は生活レベルの上がった中国の人達に販売してゆくこととなる。
 都議会民主党の議員は解散風に勝てるのだろうか。結局選挙で落選するのを怖がり、付帯決議(汚染の状態を無くした工事の結果を見て、移転工事の着工をする。)で都民をごまかすしかないだろう。築地現市場再建案の最大の欠点は中で営業中の人達の工事の工程案の同意が難しい事である。簡単にいうと何回に分けて工事をすると新しく完成した店舗と古い店舗との価格が都の市場条例から平等のため、競争にならない。鑑札が多数ある仲卸が有利となり、1枚しかない仲卸は圧倒的に不利となる。この様な場合に簡単に工程案の合意はできるのだろうか。築地市場の移転先は豊洲か新木場の貯木場しかない。新木場に行けば、単なる物流センターの機能となり、交通不便な千葉市場や横浜南部市場・大田市場のように気軽に庶民が出入りする場とはならなくなる。
 10年以上前、築地市場で築地市場の建て替え工事が始まった。隅田川の桟橋に屋根がかかっているように見える構造物が見える。屋上駐車場となる予定だった。その駐車場に向う登り口となるところの建設が中断された。原因は工事で影響を受ける築地市場内関連業者の反対だった。築地市場は水産仲卸だけで仕事をしているのでない。従って全体をまとめることは多数決では進まない結果となった。1台も駐車できない施設は前回の建て替え工事400億円?の喪失のシンボルでもある。
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エロ漫画条例から

2010年12月15日 | 福神漬
どうやらエロ漫画規制条例が都議会を通過しそうである。何時の時代でも衰退期は退廃的な文化が蔓延している。幕末も末期の戯作者梅亭金駕の作品は酷いモノだった。金駕のエロ本とか「妙竹林話 七偏人」はシモの話だらけで気持ち悪くなる位の話であるが古文であるため、注釈を参考にしつつ読むため酷い内容と感じて読むが江戸市民に受けたのだろうか?この本は史料によると明治に入って、万宇堂 明治16年・ 武部滝三郎 明治19年1月・聚栄堂 明治21年10月と3回程出版されている。七偏人の初編に仲町の香煎が出てくる。江戸時代は3軒の香煎茶屋があったが明治まで残ったのは酒悦だけだった。酒悦主人に梅亭が新商品(福神漬)の命名依頼された時期と推定される明治16年から19年にかけて出版されているので梅亭金駕も本の宣伝の必要性があったのだろうか。
 福神漬の命名された時期は松方デフレと言われる時代で、農村部の不景気で日本で労働者という階級が都市に於いて発生する時期と重なる。
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耳袋 白胡瓜の事

2010年12月14日 | 趣味としての漬物
耳袋 白胡瓜の事
白胡瓜を漬物にするか或いは薄く切って塩もみにし、酢にて食べれば水病に奇妙に効くという。しかるに白胡瓜を作付けする人が少なく求める事が難しい。私が水病の時ようやく探し出して食べた時があった。然るにある人は「神奈川辺りで随分作っている人があるようである。一時もみ胡瓜や漬物にして柔らかで甘みもあった。神奈川辺りではこの白胡瓜を食していたようであるが、江戸の問屋に出荷しても,青瓜程の需要が無く、結局自家用の栽培となっているという。」と話していた。そんなこともあるだろう。

水病とは今のどんな病気だろうか?食育のページにはキュウリの利尿作用が手足のむくみを解消するとある。
江戸時代は半白(はんじろ)といって半分が緑、半分が白いキュウリが専ら生産されました。皮がやわらかくなかなか美味かったようです。
江戸野菜としての馬込半白きゅうりは、栽培もしやすい品種で皮はかためで、中身はやや水分が少ない食感で、ぬか漬けにぴったりです。総じて江戸時代の野菜の品種は過剰に生産された時、漬物にして保存できるものが多い。
 
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耳袋 柳生家の門番のこと

2010年12月13日 | タクワン
耳袋 柳生家の門番のこと
あるとき、柳生但馬守の屋敷へ沢庵が訪れたところ、門番所に一首の謁が掲げられていた。
蒼海魚竜住 山林禽獣家 六十六国 無所入小身
(海には魚が住み、山には獣がすんでいるが日本にはわが身を置くところが無い。)
「なかなか面白い歌だが、末の句には欠点がある。」
 沢庵がひとりつぶやいていると、門番がそれを聞いて言った。
「大げさなことなどという欠点はありません。私の歌です」
 沢庵は驚いた。
「どうしてか?」
 いろいろと話を聞くと、この門番は朝鮮の人であり、本国から日本に脱出してきて但馬守の門番をしているという。
 但馬守が沢庵からこの話を聞き、
「身を入るに所無きことなどない事などない」
 と、二百石を与えて侍に取り立てた。今も柳生家にはその子孫が仕えているという。

根岸の耳袋には沢庵と柳生但馬守の交友に関しての話題が数々ある。沢庵漬の命名の由来は耳袋から広まったと思われる。
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耳袋 沢庵の書

2010年12月12日 | タクワン
耳袋 沢庵の書
沢庵が書いたという書を山村信州が所持していたのを写させてもらった。
ご飯は何のために食べるのか?腹が減るからやむを得ずに食べるのか。腹が減らずば食べずにに済むものを、美味いオカズがなければご飯など食べないと人のいうのは大きな間違い。ただ腹が減ったから食べるに過ぎぬ。オカズがなければ飯が食えぬなどという人は飢えを知らぬ。飢えなければ一生食べる必要などありえない。ひとたび飢えれば、たとえ糠味噌だろうとも喜んで食べる。ご飯であればいうまでもない。なぜオカズがいるなどというのか。
 食を得ること、薬を服する如くせよと仏も言い残しておられる。衣類もまた同様。人は衣食住の三つに一生を苦しむ。だが、このことを知っているが故に我は三苦が薄い。
 こんなものは落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたまで。
 
  元和の酉の冬に
沢庵 宗 彭
糠味噌とは今とは違って味噌汁の増量剤として米糠を入れて食していたから、美味しくなかった。糠味噌漬のことを言っているのではない。糠味噌漬は江戸時代中期以後に現れた漬物である。錬金法印とは沢庵の書を売っている人のことを言うのだろうか。
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耳袋のなら漬

2010年12月11日 | 趣味としての漬物
なら漬の漬け方
根岸 鎮衛(ねぎし しずもり、やすもり)の耳袋より
漬物にいささか漬け方があること。
なら漬を漬けるに、瓜を二つに割り、種を抜き、塩を詰めた上、酒粕を暑く塗り詰めて、粕を下に置き、その上に瓜をうつむけに伏せ、また酒粕を詰めて順々に詰めることである。心得ぬ人はその酒粕・塩を詰め、瓜を仰向けに漬けているのを見て、字上手な人はこれを見て笑った。その訳を尋ねたら『酒粕の気は上へ上へと抜けるものゆえ、うつむきに漬けるものである。味噌漬はこれに反する事である』と人に語った。

江戸時代中期には奈良漬という名称が一般的になっている例である。
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暮れの足音

2010年12月10日 | 築地市場にて
12月も10日となれば暮れの風景と築地市場が変身する。昔は市場内の大渋滞が桜田門とか門前仲町まで渋滞したものだった。今はそれほど酷い渋滞は発生しないので昔話を話しても解ってくれない。バブル期には若い市場労働者は殆ど不法就労者で占められていたと言って良かった。市場内の食堂で彼らの会話は賃金の情報交換の場だった。当時の日本人は年取った人達だけであった。今では特に青果のセリ場には若い女性がセリ人として活躍している。
 貨物線からの汽笛が消え、トラック野郎の馬鹿でかいホーンの音も消え、市場でならすといたずらされ妨害される。静かさは喧騒のセリ場を引き立たせる。場内放送が英語・中国語・韓国語で放送されても別に気にならないがスペイン語や聞きなれない言語で放送されると何処の国かと思わず聞き耳を立てる。
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停電の話題

2010年12月09日 | 築地市場にて
3日の停電で色々なことがあった。毎年1月下旬に電気施設の点検で8時間くらいの停電が2回ある。ホンダのエンジン発電機はインバーター付きなのでパソコンが起動できる。ただレーザープリンター等を動かすことは出来ない。青果部仲卸の停電ではターレーのエンジンを動かしたまま前照燈で明かりをとっていたと言う。排気ガスが充満していて大変だっただろう。
 今でもエンジン付ターレーの排気ガス規制は無いといってよいくらいで築地の市場の空気は都内で一番汚れていると言っていた。今の電動ターレーの比率は水産仲卸のほうが多いが電動化率60%台と言う。バブル期にはまだ電動ターレーもない時代に水産仲卸1400店舗のエンジンターレーから出る排ガスは今よりはるかに多かった。そんな空気で汚染された築地の魚を食べて被害を受けたという話はまだ聞いていない。また当時は魚を入れるトロ箱は木箱が幅を利かしていて今のように発砲スチロールの機密性のある箱ではなかったと思う。手鍵を持って大八車でマグロを運んでいた風景があった。今は築地の水産仲卸の数も740ほどと半減し、電動ターレーの普及で問題は生じないと思われる。
 今から思うと排ガスがどうして魚に移らなかったのだろう。タバコの臭いが吸わない人の衣服に移るのに。当時のマグロの刺身を食べていた人は排ガスが移っていたことを知っていたのだろうか。
 3日の排ガスを吸った商品というクレームを出す人はいるのだろうか。
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内田弥太郎

2010年12月08日 | 福神漬
内田弥太郎(内田五観・うちだいつみ)
文明開化と数学と物理 蟹江幸博・並木雅俊著
脱獄した高野長英は(嘉永3年10月30日・1850年12月3日)、内田弥太郎の甥が世話をしていた家でつかまり死去した。内田の甥は流罪となったが、内田は咎めを受けなかった。この理由として幕府開明派の大久保一翁・川路 聖謨・江川英龍の弁護があったといわれる。事件ののち幕府の職を辞し麻布で弟子に詳証学(数学)を教えていたという。
維新史料綱要1巻 210頁 嘉永2年6月5日(1849年)
幕府、小姓組下曽根信敦「後信之・金三郎・後甲斐守」を浦賀に遣し、砲術教授及警備勤務を命ず。尋で、門人内田弥太郎「浦賀奉行手付」を信敦に付属せしむ。

手付とは江戸時代、郡代・代官・寺社奉行などに属して事務を執った下級役人。

維新史料綱要のデータベースでは内田弥太郎(五観)の史料はこの一行のみである。高野長英が撲殺された嘉永3年10月にはまだ下曾根のもとにいたと思われる。彼は以前浦賀周辺の測量を行っていた。小姓組下曽根信敦は元南町奉行だった筒井伊賀守政憲の次男でペリーの来航時、久里浜で国書受領の席に戸田伊豆守の背後で戦闘の準備をし、控えていた。
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干城録と朝野旧聞

2010年12月07日 | 福神漬
干城録・朝野旧聞◆[ホウ]藁
『干城録』は徳川氏の創業から3代将軍徳川家光が亡くなった慶安4年(1651)までの幕臣2,700余人の列伝である。『干城録』は林大学頭述斎(1768-1841)の指揮の下に昌平坂学問所で編纂を継続。天保6年(1835)に全235巻が完成しました。

『朝野旧聞【ホウ】藁』は文政2年(1819年)に林大学頭述斎林 述斎の指導監修のもとに戸田氏栄以下のべ20名以上の幕臣により編纂が始まり、天保13年(1842)に完成したもので、中世末期の遠祖から近世初頭の家康死去に至るまでの、徳川氏の創業・発展の歴史をまとめている。
この2冊の本が都立中央図書館に所蔵されていて、借り出して読むと著者の一人の中に戸田寛十郎氏栄となっている。氏栄は駿府町奉行に天保十四年より弘化四年まで五ヵ年在任していて、駿府町奉行・日光奉行・浦賀奉行に就任する以前は湯島の昌平坂学問所で幕府の歴史編纂者として活躍していたようです。
この事は高野長英が死去した時どの様な影響があったのだろうか。戸田の配下となっていた下曾根金三郎は南町奉行筒井政憲の次男であり、蕃社の獄の件で詳しい説明を受けていたということは容易に想像できる。嘉永2年には浦賀の下曾根の下に内田弥太郎が参加している。(高野長英が万歳の花香恭法宅に隠れた後、死去したのが嘉永3年10月末)
 戸田氏栄の5男鉄丸が氏栄死去後、千葉香取郡万歳の(内田弥太郎の学問上の弟子)花香恭法の養子となった事にどの様な影響があったのだろうか。
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村田水産翁伝 大日本水産会

2010年12月06日 | 福神漬
日暮里諏訪台の浄光寺にある福神漬顕彰碑に揮毫をした村田保は水産翁といわれていた。大日本水産会が著した『村田水産翁伝』では彼は幕臣の子として、大阪唐津藩邸で生まれた。明治になってドイツに法律調査に向かった時、かの地の法学者に日本の水産のことを尋ねられ答えに窮した。帰国後刑法の整備とかに活躍したが次第に水産業に関心を持っていった。明治期の水産関係の基本法律は彼の手になるものが多い。水産業振興の功績を認められ、小松川親王より『水産翁』という名称をいただいた。(小松川親王は上野寛永寺管主だった北白川親王の兄である。)
 大日本水産会を組織し、水産加工を振興するため缶詰業界を指導し、日露戦争後は輸出できる程の品質にし、外貨の節約をもたらした。福神漬は日露戦争時には兵食の中で重要な地位を占めていて、日露戦争後陸軍より安く払い下げられた福神漬の缶詰は一般国民へ普及していった。
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雨漏りの後日談

2010年12月05日 | 築地市場にて
3日の大雨で築地市場青果部の配電盤に大量の雨漏りが流れ込み停電となった。復旧したのは昼過ぎで4時間以上の停電は電話・FAX・パソコンが使用できず仕事にならなかったという。幸か不幸か平等に停電となり、憤懣は東京都に向かった。ただ日頃設備係りの人に雨漏りの修理を頼んでいるので人間関係で強く言えない。色々な情報を総合すると日頃から雨漏りがしていて、修理した所でないところから大量の雨水が入って大変だった様である。とにかく原因は雨であるので雨がやんでから修理となったので時間がかかったようである。屋上駐車場の排水管が目詰まりした所に大量の雨が降ったので、あふれた雨水が屋上の割れ目から1階の青果部仲卸店舗に雨漏りしたようである。この理由ならば次回の雨でもまた停電があるということである。夏季に水産部が停電すれば高価な魚類が毀損し東京都は損害賠償を受け、都民の税金で補てんすることとなる。地震で広がった割れ目はどこにあるか解らず、被害を受けてから対策するしかない。
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原始力

2010年12月04日 | 築地市場にて
災害時に何時も思うのだが築地市場の原始力には驚く。何年か前に、土曜日の夕方から夜にかけての時間に火事があった。日曜日に現場を見たらとても酷く後片付け等を考慮しても月曜日には営業できないと思っていた。日曜日午前中に現場検証があって、出火元以外は次の日つまり月曜日に営業していた。もちろん冷蔵庫等は燃えてしまっていたが周囲の協力で営業していた。3日の停電も何とかこなしたように見える。
 アフリカ等の発展途上国が固定電話さえ普及しないうちに携帯電話が普及した様に築地市場の水産部のITはいきなり無線で始まるのだろうか。光もADSLも普及しないうちに。
 江戸時代の大八車が今でも現役で活躍している、寒い冬は体の内から温める酒入りで事故を起こしても多分大丈夫だろう。いや海老蔵酔いなら築地市場内は入場禁止となるかもしれない。最近コンプライアンスが重要視され、だんだん世間と同じモラルを要求され、サラリーマン化して面白みが減った気がする。築地に少しづつパソコンが普及してきた。
 報道によると築地市場の雨漏りが十数か所と書いてあったが会社の雨漏りは届け出しなかった。実際はもっと多かっただろう。都の設備課の忙しさは想像できるので報告しなかった。今回の雨漏りから予想されるのは来年の雨季にはもっと頻繁に起こるだろう。青果部の天井は比較的築地では新しい部類に入る。

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築地市場の停電

2010年12月03日 | 築地市場にて
本日の大雨でどこかで漏電があって、7時過ぎから停電。荷物用エレベータ―に閉じ込められた人はレスキーで救出。市場内の信用金庫の電動シャッターが開かない。もちろんその付近は停電。午前中の青果部仲卸業務をどの様にするのだろうか。何しろ配線が複雑でどこが漏電しているのかわからないらしく昼の今でも停電している。
 水産仲卸だって何時漏電で停電するか解らない。とにかく電気系統の配線は複雑で故障の所が解りにくく修理に時間がかかる。どうやら配電盤に水が入ったという。次回の雨はどうなるやら。市場の電気係りはの人はシバシバ漏電があるという。
午後にやっと電気が来た。今日の残業代はやるせない。
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どちらが正しいか

2010年12月02日 | 福神漬
西日暮里の浄光寺にある福神漬顕彰碑に揮毫した村田保のこと。
水産翁として名を残した「村田保」の経歴がWEBでふたつ出てきた。一つは幕臣徒目付浅原耕司(長男)とあり、もう一つは唐津藩士浅原耕司の長男として大坂藩邸で生まれる。10歳のときに村田家を継ぐ。1868(明治元)年より政府に出仕し、主に法律関連の要職を歴任した。
 明治の文献だからしっかりしていると思うとかなり誤植が多く、村田保の経歴は唐津出身のほうが経歴的に整合する。どちらの経歴でも水産翁と書いてあった。同一人物の出身地が違うとはどの様なことなのだろうか。まだ明治は江戸時代より近過ぎて研究者が少ないのだろうか。史料が震災、戦災にあっても文献の量が多く難儀しているのだろうか。
 
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