年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

17歳はいつか

2012年12月17日 | 福神漬

鶯亭金升日記より 再確認

祖父は徳川の旗下八万旗中騎射(キシャ)の名人長井竜太郎昌広という。竜太郎没後9歳の娘が一人残り、家が絶えようとしたとき、時の町奉行が心配して戸田伊豆守氏栄の三男桂三郎を養子に迎え、17歳になった娘と結婚させ、桂三郎は長井筑前守昌言となった。
 17歳となった娘は明治27年6月19日に53歳で死去した。ということは結婚したのは安政5年(1858)から安政6年の頃となる。時の町奉行とは名奉行と知られている筒井政憲で安政6年(81歳)に死去している。筒井の最晩年の縁組だった。
 今は汐留に移転した日本テレビは元は千代田区二番町にあった。ここは筒井肥前守政憲の住んで居たところで、安政5年の頃は隣地に若林家があった。偶然同時期にこの若林家に養子となっていた松林伯円がいて、隣家の筒井邸をしばしば訪問していた。後に講談師と名声を得た伯円は筒井から南町奉行の時代に見聞きした題材を講談に仕立てたという。
出典 明治文芸と薔薇 中込重明著
 新婚の長井夫妻は筒井邸で松林伯円の講演を聴いていたかもしれない。鶯亭金升(長井総太郎)の母は四谷栄林寺に葬られたが、東京市の都市計画によって郊外の寺に改葬させられ、今は都営浅草線高輪台駅付近にある本立寺に長井家の墓がある。この本立寺の住職は新選組隊士中島登の子孫で函館五稜郭では土方歳三や浦賀与力であった中島三郎助をスケッチしている。ペリーが浦賀に来たとき一番乗りしたのが中島三郎助で、アメリカ国書を受け取ったのが戸田伊豆守氏栄で鶯亭は戸田の孫である。中島登は五稜郭で行徳の漬物商人の喜兵衛と遭ったかもしれない。このような奇縁があるとは誰が想像できるのだろうか。恐るべき福神の縁。
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井上安治の明治浮世絵から

2012年12月16日 | 宅老のグチ

暮れの忙しさも間もなく始まるのだが中旬では落ち着いていて、何もトラブルがないように見える。中央道の崩落事故も年末物資の輸送の対応に間に合うようだ。ただこんな事故も徐々に輸送網が変化していて関東の物流が変化している。埼玉の三郷インターあたりは巨大な物流倉庫が稼動しつつある。火事の少ない今では江戸明治の頻繁な大規模火災がないので風景が変化しないように思えるが実際は変化が始まると実に早く記憶から消える。
 明治10年代の東京を写真のように描いた井上安治が探景と作者名を変えたとき、江戸の景色に鉄橋、鉄道、ガス灯等の西洋文明が入り込み増えてきた時代だった。明治20年台になると東京の都市化が電車の発達と共に広がってゆく。東京の市街の再開発が企画された時期は明治18年頃で丁度福神漬が命名された時期である。

明治東京名所絵井上安治画 木下竜也編から上野山の両側に流れている小川に明治10年代にはホタルが生息していたようだ。
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赤穂浪士の行進

2012年12月15日 | 築地市場にて

12月14日午前11時半頃、三菱東京UFJ銀行築地支店前を赤穂浪士の姿をした人達が行進していました。思わずここの通りを通行することは史実に反していると思いました。今の聖ロカ病院のところにあった浅野邸に寄り、築地本願寺に『やり』を投げ入れ、今の築地場外市場の方向に向かい、新喜楽という料亭のところを右折し采女橋を渡ったはずです。銀行のところ通りには通行できる橋がなかったはずである。采女橋を渡った先に幕末佐久間象山の塾があった。
 赤穂浪士といえば討ち入り前に『なた豆』の漬物を食べたと健康食品の宣伝に書いてありましたがこの話は漬物業界では聞いたことはありません。
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14日は年内最後の年金支給日

2012年12月14日 | 築地市場にて

13日の新聞に入っていたチラシ広告で60歳以上の人達に15日をはさんだ前後の日に買い物ポイントを上乗せするという広告があった。偶数月の15日は年金の支給日で多額の金銭が動く。ようやく世間で知れ渡ったと思われるが『オレオレ詐欺』の連中はとっくに知っていた。物販のバイヤーは若く年金の仕組みがわからず、今でもサラリーマンの給与支給の多い25日に特売をしている。教育費、住宅ローン、老後のための貯蓄等があって若い人達は収入が多くても自由になる金は少なく、食品販売では安くて量の多いものを求めている。しかし高齢者は所帯人数も少なく、いいものをちょっとだけ食べることで好みがバラバラで販売促進は難しい。高齢者の好む漬物も増量セールを行っているが実際本当にこれだけの量が必要なのだろうか。
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豊洲市場はIHヒーター

2012年12月13日 | 築地市場にて
豊洲市場に
ようやく具体的な姿が公表されて書くことも出来るようになった。年末は忙しいので業界の情報交換の場が11月に設定される。そんな折会合があり『ふぐ』となった。テーブルの上にはIHヒーターがあった。豊洲の新市場は温度管理のためせり場等の施設が閉鎖型になるのでトバッチリで給湯設備等が電気でしか使えないようになる。当然暖房も電気となる。今でも暖房の効かない築地市場は休市前の場内放送で案内されているように『レンタン』で暖房等を賄っているところもあると思われる。こんな築地の古さをどこまで知っているのだろうか。先ほどミャンマーに行ってきたが今の築地市場と同じ運搬手段が活躍していた。なんと築地は途上国並みの施設である。古き日本『フジヤマ-ゲイシャ』のイメージを壊さないところが残っている。築地市場の隣の新橋料亭街には観光用でない人力車もある。
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置き荷いり

2012年12月12日 | 築地市場にて

年末になると、その日にせり売り等の販売された青果物が運び切れず、翌日まで滞貨することが増えます。これを密かに『おきにいり-置き荷入り』と思っています。今年も10日から始まりました。今は歳暮用か贈答用のミカンが大量に残っています。各店舗に配送できないものが残っているようです。荷物のところには仲卸の番号が書いてあるので引取りのトラック待ちということが解ります。これから大根が増えると年末らしくなってきます。
 青果門の隣で環状2号線の工事がドンドン始まって、昔なら市場の混雑をさらに増すことになったのに、そんな気配がないのは築地の販売力が落ちたということかもしれません。
どうやら間もなく築地市場青果門付近の市場内もトンネル工事の現場になりそうです。12日は年内最後の平日休市日です。
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明治5年に横浜でガス事業が始まる

2012年12月11日 | 築地市場にて

旧暦だった明治5年の12月は2日しかなく、12月3日は新暦明治6年1月1日となってしまった。この明治5年という年は色々あったようで、横浜で高島 嘉右衛門のガス事業が開始されたのが新暦に換算されて10月31日だったという。東京では明治7年にガスが供給され銀座にガス灯の光がついた。文明開化の象徴である鉄道開業が10月14日(新暦)となっている。この明治5年に花香恭次郎、原胤昭が横浜に居た。
 日本におけるガス事業の発達は事業の負北の歴史であるという。ガス灯から始まったのに電気によってその地位を奪われ、今は熱源として生き残ったという。豊洲の市場の予定地は東京ガスの工場跡地でガス製造に伴い土壌が汚染されてしまった。
 都下のガスミュージアムに行っただけでこれだけの知識が増えた。明治のガスの光は浮世絵師小林清親の画家としての光となっている。
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小林清親の浮世絵を見に行く

2012年12月10日 | 築地市場にて

年末にもかかわらず気分転換で都下の花小金井のガスミュージアムへ行ってきました。12月24日まで小林清親の錦絵が展示してあります。今回の『小林清親』展は光の浮世絵師と副題がついています。明治9年から14年にかけて作品で絵師として新時代を切り開いた作品でした。しかし14年を過ぎると團團珍聞との付き合いから風刺画へ向かったようです。
 浮世絵の解説文からジャーナリズム性が明治の浮世絵に内在しているというのがありました。江戸の風俗を伝える報道としての役目が浮世絵にあったとは知りませんでした。明治初期の庶民の読み物として絵入り新聞が発達したのは浮世絵というものに親しんでいたかもしれない。
 小林清親、原胤昭、梅亭金鵞、鶯亭金升等が複雑に絡んだ人間関係で福神漬の命名に出てきます。
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YASUJI東京から

2012年12月09日 | 宅老のグチ

井上安治という絵師を最近知った。小林清親を調べていたのに記憶にない人だった。彼は明治22年に26歳という若さで死去したので残された絵は少ない。明治の初めの東京となった都市を井上は清親を師としつつ、町人の子孫という感性で描いていたように見える。
 さて福神漬との関係は今のところなさそう。しかし鶯亭金升が小林清親の仲人で結婚したのが明治22年頃である。鶯亭金升の著書『明治のおもかげ』にも出てくる知り合いだった。井上探景(安治)について六本指という随筆を書いている。風景画は良かったが人物画が雑で指が6本ある絵があったという。何か気になる人になったのはETVで録画した番組からで杉浦日向子さんの江戸知識の入門絵だったというのも気になる。YASUJI東京で焼け跡という言葉があった。戦後を少し知っている身としては気になる。
井上安治が探景と名乗ったのは明治17年頃からで鶯亭金升と知り合った頃はすでに探景として絵を描いていたと思われる。出展(幕末明治の浮世絵集成 樋口弘編)
 
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新築歌舞伎座の明かり

2012年12月08日 | 宅老のグチ

京橋図書館で図書を借りたあと、築地警察署のところで信号待ちとなった。西方の夜空に少し前にはなかった新築中の歌舞伎座の一部に明かりが点いていた。オフィスの部分となるのだろう。来年4月に完成する。ここで演技をすることを生きがいとしていた人が亡くなった。私が何十年ぶりで見た役者だった。コクーン歌舞伎『佐倉義民伝』だった。自由民権と佐倉義民伝の関係を知るため立ち見で見た芝居だった。椅子席の一部に座布団を敷いてみる席があった。演出だろう。芝居と時代の感性を持った人を亡くした。
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暴風 全般気象情報 第3号から

2012年12月07日 | 築地市場にて
この時期の暴風は江戸時代には漂流民を発生させる天気だった。東京海洋大学図書館電子化資料の中に石井研堂のコレクションがある。江戸時代の日本人が漂流した記録である。この記録を見ると旧暦10月から12月にかけて漂流した記録が多い気がする。一年で一番物流が増えるのが今でも年末である。この時期の暴風雨によって遭難する。今日の暴風は昔なら遭難船が多数出ただろう。荒れた海で物流が少なくなり、高騰した商品相場へひと稼ぎしようとした冒険船主が荒れた海でも出航することとなる。
 福神漬の元祖、源流を探ると伊勢出身の河村瑞賢を挙げる人がある。江戸時代初期に日本近海海運網を作った人である。
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三菱一号館美術館の本

2012年12月06日 | 福神漬
三菱一号館美術館-丸の内に生まれた美術館
三菱地所株式会社編集
2012年7月発行の本がもう図書館で借りることが出来る。三菱の東京に於ける不動産取得時期と明治9年頃までの南茅場町の沽券(江戸市中の町人地の土地に関する売買契約書)の食い違いが気になっていた。三菱一号館は明治の面影が残る建物である。
 荘田平五郎、ジョサイアコンドル、曽根達蔵の名前が三菱一号館美術館の建設に関係者として出てくる。曽根達蔵は唐津藩主と共に上野戦争後仙台まで行っている。曽禰中條建築事務所つくり、多くの三菱関係の建築をしている。曽根と共同事務所をつくった中條精一郎はまた福島県郡山に関係していた。建築家中條精一郎の子宮本百合子は郡山安積開拓地の悲惨さを描いて小説家として世に出た。
 福島県郡山市の発展の基礎を築いた開成館には石井研堂を指導した教師が勤めていた。
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昨年の記録がない

2012年12月05日 | 築地市場にて

昨年の整理をしていて、平成23年2月に3月の会合の案内を出していた書類があるのに経費の記録がない。記録するのを忘れるほどボケが始まったか思った。その頃の忙しさで忘れたのだろうかと考えたら、震災騒動で会合がドタキャンとなったことを思い出した。年度末でありながら前例のない事態ですべてが瞬間に判断して対応していた気がする。今から思うと全ての状況を知らないで行動していたから動けていたかもしれない。
 今でも震災の揺れで築地市場の広場で避難しているとき余震で壁が崩落してゆくのを眺めていたことを思い出す。建物のカケラは今でも机の中にある。忘年会の時期であるが忘れてはいけないことをもう忘れている。
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尾張糠

2012年12月04日 | タクワン

日本で米ぬかの流通を調べている研究者は殆どないように思える。精米したあと出る糠は殆ど肥料として利用されたと思われるが沢庵漬には必要な糠である。
 江戸と川越を結ぶ新河岸川の物流を調べた著書に尾張糠と言うものがあった。今の愛知県の糠がどうして江戸を経て川越まで輸送されたか中々理解が出来なかった。ある時江戸川区の中川船番所資料館の図書室でミツカンさんの本を読んだ時、尾張糠の出所が理解できた。尾張の酢は酒かすから造られたもので当然酒造業も発達していた。関西での酒造のために精米時に発生した糠は関東に行かなかったようで記録がない。
 中川船番所資料館の常設展示室に『酒はどこから』と言う解説シートがある。茨城県石岡では酒造りが盛んだったと言う。意外と関東は水運が発達していて、千葉行徳も物資輸送ルートの中心であったという。沢庵漬の普及には樽と塩と干し大根、米ぬかが必要となる。干し大根以外は酒造業の発達が必要となり、米が余る位生産されなければならない。
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新しい浅漬製造新基準で

2012年12月03日 | 築地市場にて

10月1日に漬物の浅漬けに関しての製造基準が改定されると言う報道があった。日本全国では4万社を超す野菜を加工する製造所があるという。日本の全国で漬物加工業者の団体は約1500社しかないので殆どが知らない業者である。カット野菜等の加熱しないところも今回の野菜の汚染問題は同様の問題を引き起こす可能性がある。
 今漬物の業界新聞には残留塩素臭の少ない殺菌水製造装置の広告が多く出ている。聞いたところでは350万円ほどであると言う。さらに大量の水が必要なので大幅なコストアップとなる。価格転嫁の出来ない浅漬け業者はどれだけ消滅するのだろうか。大坂の浅漬け業者が倒産した。
 報道によるとカット野菜やカットしたフルーツ等もどうやらこの基準の該当商品となりそうである。栄養や味覚を減らさないで細菌を減らすことが可能なのだろうか。

 最近の漬物業者の殺菌工程を聞くと塩素処理と併用する技術で残留塩素臭を除去していると言う。
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