透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

路上観察 鄙里の道祖神

2009-08-14 | B 石神・石仏

 路上観察はこのところ蔵ばっかりでした。今回は久しぶりに道祖神です。

長野県の朝日村と隣りの山形村は松本平の西南に連なる里山の麓に位置する農村です。共にかつて高遠藩の飛び地であったことから、高遠の石工が何体もの道祖神を残したといわれています。手元の資料によると朝日村には31体、山形村には40体もの道祖神があるとのことです。


① 朝日村大石原の祝言跪座像 

まずは①、石の形がいいですね。自然石でこのように整った形のものを探すのはなかなか大変だったのではないかと思います。朝日村には抱肩握手像が最も多いそうですが、近年の作には祝言像も多いと手元の資料(「信州朝日村の道祖神」朝日村教育委員会 平成12年再発行)にあります。像が少し磨耗していて顔の表情など細かなところまで確認できないのが残念です。石の裏に明治二十六年十月日 大石 耕地中と刻字されています。


② 朝日村針尾中村の抱肩握手像



② お互い相手の肩に手をかけて別の手で握手をしています。で、抱肩握手像と呼ばれるんですね。下の写真で確認できるように、この像の横に天保四巳三月針尾中村、その下は中でしょうか、と刻字されています。天保四年は西暦1833年ですから、今から176年前ということになります。硬い石質なのでしょう、像は磨耗が無くて鮮明ですし、デザインは形も細部の表現を省略しているところもモダンな印象ですから、とてもそんなに古い像だとは思えません。数年前に彫ったものだと説明されても信じてしまいそうです。おだやかな顔の表情がいいですね。


③ 朝日村御馬越の抱肩握手像



③ この道祖神の裏側に天保十四癸卯年 十月吉日と刻字されています。西暦1843年ですから、②の道祖神の10年後に出来たものだということが分かります。素朴な形の石で像が磨耗していて、古いものという印象を受けます。二体を比較してみると②がやはり相当モダンに見えます。

同時代の建築のデザインが多様なように、道祖神のデザインも石工のセンス、感性の違いによるのでしょうか、やはり多様です。

鄙里の道祖神 過去ログ


 


「旅人」湯川秀樹

2009-08-14 | A 読書日記


『旅人 ある物理学者の回想』湯川秀樹/角川文庫

先日書店でこの文庫本が平積みされているのを見た。帯の**その寂しさに吸い寄せられてしまう。**という森見登美彦の感想に惹かれた。寂しいということばには弱い。

この文庫の奥付を見ると平成二十年に七十九版、初版発行は昭和三十五年だ。随分長い間読まれていることが分かる。この本が今、何故平積みされているのかは、分からないが、購入。

村上春樹の『1Q84』や高村薫の『太陽を曳く馬』にも惹かれるが、このところなぜか小説を読もうという気にならない。短い夏休みでは読了できないだろうと、購入を見送った。いつか読もう(いつになることやら・・・)。

さて『旅人』、湯川秀樹は京都の街の様子についてこんなふうに書いている。

**私は昔も今も、親しい友だちが少ない。性格的なものもあるだろうが、私が幼年期、少年期を過ごした、京都という町の環境にもよるのかもしれない。**

**京都の人家は、大抵、外部からひどく隔絶されるように出来ている。(中略)住宅街ともなれば、白壁の土塀がつづく。屋根の重い門がある。植込みがある。すまいは更に深いところにある。中庭があり、裏庭があり、たとえ、そこにさんさんと陽が射していても、外からは少しもうかがい知ることは出来ない。これは、京都人の性格を形成するには格好の構えである。いや、とかく心の門を閉ざし易い京都人が、自然に生み出した住居の設計であろうか。**

建築が人の性格に影響を与えるのか、性格が建築を規定するのか。両面あるとは思うが、よく議論されるテーマだ。それを湯川秀樹も考えていたことをこの一節で知った。

**明治――。
その名は私に、アルコール・ランプの上に置かれたフラスコの水が、次第に熱せられて、沸騰してゆく過程を思わせる。
私はその時代の終りに、幼年期を送ったわけだ。(後略)**

あとわずかで読了。