透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

Aas Ani テキスタイル作品展『ここに在る』

2024-06-14 | C 名刺 今日の1枚

245枚目の名刺は鶴田希望(Aas Ani )さん 

鶴田さんとは2013年の11月に初めて会って、その時に名刺交換している(過去ログ)。
Aas Ani テキスタイル作品展『ここに在る』を観た。在廊していた鶴田希望さんとあれこれ話をすることができた。今日(14日)改めて名刺交換した。鶴田さんの作品は朝日美術館でも観る機会があった(過去ログ)。


屋根に設置されている窓からギャラリーに入り込む外光と作品とのコラボ。時のうつろいとともに表情が変わる。


柔らかな布に版画の技法によって制作された作品。淡い色彩がなんとも魅力的。服装の色も作品に合わせたとのことだった。見えるものでも風のように見えないものでも、同じように感じる・・・という感性。



見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
「星とたんぽぽ」より

鶴田さんは金子みすゞと同じようにこまやかな感性の持ち主なのかもしれないな、話をしていてそう思った。


作品を観ていて西條八十が訳した「風」という詩が浮かんだ。作者は覚えていなかったが、調べてクリスティーナ・ロセッティだと分かった。

誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく


Aas Ani テキスタイル作品展『ここに在る』
会場: BLUE HOUSE STUDIO (長野県東筑摩郡朝日村針尾1037-6)
会期: 2024年6月13(木)〜17(月) 10:00-17:00


 


新聞各紙の表記は? 代表作は?

2024-06-14 | D 新聞を読んで

  
 12日付信濃毎日新聞に掲載された槇文彦さんの訃報の見出しを見て「あれ?」と思った。という漢字が使われていたので。槙文彦 この漢字表記を目にしたのは初めてではないかと思う。例えば槇さんの著書では。やはり見慣れた槇文彦 この表記でないと違和感を感じる。

全国紙はどうなっているのだろう。槙か槇か。それから見出しに挙げる代表作は? 気になって確認した。結果は以下の通りで( )内は小見出し。


読売新聞 槇(「ヒルサイドテラス」設計)
朝日新聞 槇(モダニズム建築  洗練)
産経新聞 槇(世界文化賞  幕張メッセ設計)13日に掲載された(他紙は12日)

毎日新聞 槙(建築家、幕張メッセ設計)
日経新聞 槙(建築家 幕張メッセなど設計)

結果は以上の通り。なるほど・・・。小見出しに建築家と入れている毎日、日経は共に槙。

読売、朝日、日経の3紙は評伝も載せている。3紙とも槇さんが国立競技場の当初案に異議を唱えたことにも触れていて、代表作としてヒルサイドテラスを挙げている。

読売新聞 
**設計した建築そのままの洗練された都会人だった。**
**いつも理知的、紳士的な話しぶりも、国立競技場の建て替えで当初示された設計案に異議を唱えた時は険しかった。**
「群造形」という考え方にも触れている。

朝日新聞 
**槇文彦さんは知的でダンディーな雰囲気を漂わせ、洗練された作品と鋭い論考で戦後建築の良識といえる存在だった。**
**印象的な建築を多数手掛けたが、一つ挙げるとすれば何期にもわたり造られたヒルサイドテラスだろう。**
**どこでも一人で現れ、聞く側の背筋が伸びるように語った。その姿は、スタイリッシュな槇建築と重なっていた。** 読売同様、「群造形」という考え方にも触れている。

日経新聞 **華麗な経歴にクールなたたずまいを兼ね備えた、日本のモダニズムを代表する建築家だった。** 

各紙の記事を読み比べると、違いがよく分かって興味深い。


2006.12.14 次のようなことを書いた(過去ログ)。

このブログを始めてまもなく、「顔文一致」というタイトルで書いた(2006.04.23)。その中で、「建築作品はその設計者の体型に似る」という自説を披露しておいた。ドイツの精神病理学者、クレッチマーは体型と気質との間には相関性が見られる、と唱えたがそれに倣って私はそのように考えていたのだが、どうやら「建築作品はその設計者の風貌に似る」と修正した方がよさそうだ。

12日の読売新聞と朝日新聞の槇さんの訃報の記事にこれと同じようなことが書かれていた。上掲記事中、太文字化した箇所。私と同じように考えている記者もいるんだなあ、と記事を読んで思った。他の建築家のことはともかく、槇さんには当てはまると思う。


 


追悼 槇文彦さん

2024-06-14 | A あれこれ

 建築家・槇 文彦さんの訃報が12日の新聞に掲載された。私は槇さんの知的で端正な建築デザインに惹かれていて、拙ブログでも槇さんの作品などについて機会ある度に書いてきた。今回はそれらの中から主な記事をピックアップし、各記事の一部を抜粋、加筆するなどして改めて掲載する。記事のタイトルと掲載日も載せる(太字表示)。


東京余録 2023.04.18


テレビ朝日本社( 2003年竣工)の屋上を本木ヒルズ森タワー52階 東京シティビューから俯瞰する。撮影:2023.04.13

さんは屋上も美しく設計しなくてはならないと、雑誌の記事に書いていたかと思う。その言葉通り、テレビ朝日社屋の屋上は美しい。
豊田講堂の記事を読んで 2014.10.28


「LIXIL eye」は株式会社LIXILが発行する情報誌。無料だが、内容が充実している。NO.6号(2014.10)の特集記事に名古屋大学豊田講堂が取り上げられている。名古屋大学豊田講堂は槇さんのデビュー作にして日本建築学会賞受賞作。
成熟社会に相応しい施設 2014.02.23


『建築ジャーナル』という月刊誌があるが、2014年の1月号と2月号に「新国立競技場案を考える」という特集が組まれた。国際コンペの当選案、いや新国立競技場のプログラムそのものに問題ありと指摘する建築家・槇文彦氏の論考「新国立競技場を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」に多くの人が関心を持ち、一般紙にも取り上げられた。論考の中で槇氏はオリンピック後の維持管理や収支見通しなどについても、広く説明する責任があるという指摘もしている。

新国立競技場案 2013.10.03


日本スポーツ振興センターのウェブサイトより

**発表された新国立競技場案のパースが一葉、日本のメディアに公表された時、私の第一印象はその美醜、好悪を超えてスケールの巨大さであった。** と槇さんは上掲した論考に書いている。だが、本当のところは、当選したザハ・ハディドという建築家の案のあまりにも異様な外観が気になったのではないか。スケール感がつかめなかった私は、まずその異様な姿がとても気になった。

モダニストで美しい建築を創り続けてきた槇さんが、当選案を美しいと評価していたとは到底思えない。槇さんは理性的にそして注意深く論文を書いてはいる。だが、その異様な姿にこそ失望したのではないか、と私は勝手に推察する。その後、当選案は白紙撤回された。


まち並みを秩序づけるもの 2011.09.06


「代官山ヒルサイドテラス」はあの辺一体の地主だった朝倉家の「良質な生活環境の創出を」という願いを受けて槇さんが30年以上もかけてじっくり創ってきた街。ひとりの建築家がこれほど長い間、同じクライアントと関わりながらひとつの街を創り続けてきたということは極めて稀な事例だろう。






代官山ヒルサイドテラスの魅力、それは公的な(街に開かれた)空間と私的な空間のヒューマンなスケールとそれらの巧みな構成。建築相互を関係付ける「リンケージ」という概念によって創出されるまとまりのあるグループフォーム(群造形)。

混沌とした東京にあってこの街の秩序はまさに奇跡と言って良いだろう。変わらないこの街の上品で知的な雰囲気、それはやはり設計者の都会的でオシャレなセンスの反映だろう。槇さんの代表作。


『見えがくれする都市』槇 文彦他(SD選書 鹿島出版会1980年)
『記憶の形象 都市と建築との間で』槇 文彦(筑摩書房1992年8月20日初版第1刷発行、1993年4月20日初版第4刷発行)

『記憶の形象』は今から31年前に発行された本で定価5,974円(税込)は決して安くはないが、この頃は読みたい本は買い求めていた。

槇さんの作品はどれも実に知的で端正で美しい。今から40年以上も前のこと、1983の9月に富山県黒部市にあるYKKのゲストハウス「前沢ガーデンハウス」を見学したが、それが槇さんの作品をじっくり見た最初の機会だったように思う。その後、京都国立近代美術館も見学しているが、美しい階段が印象に残っている。


京都国立近代美術館 撮影日不明
今年の5月、東京は墨田区横網にある刀剣博物館に出かけた。この博物館も槇さんの設計。残念なことに休館していた。次回東京する時、ここのカフェでも良いし、青山のスパイラルのカフェでも良い、槇さんの空間で友人とカフェトークしようと思う。
デザインということばの原義は「整理すること」だとか。複雑な建築構成要素を整理して秩序だてることが、ものとしての建築のデザインだと解せば(その逆、意味もなく複雑な構成をしたとしか思えない、デザインの意図が分からない建築もあるが)、槇さんの建築は形が単純化され、各部の寸法が整えられ、材料や色、ディテールが限定されている。その洗練されたデザインが効果を充分発揮して実に上品な空間が創出されている。

だがそれだけではない。例えば基調となる水平・垂直線に敢えて斜めの線を加えたり、イレギュラーな形や色を採りこんだりと、建築を秩序だてるデザインルールから少し外した「遊び」も採り込んでいる。そしてこれが実に魅力的なのだ。


村上忠志 ー 異次元空間の創造

2024-06-13 | A あれこれ


 辰野美術館で6月30日までの会期で開催されている村上忠志 ー 異次元空間の創造。今日(12日)の午後、ギャラリートークが行われるとのことで、出かけてきた。この個展を紹介してくれた高校時代の同期生に感謝したい。

1階と2階の展示室に55点の作品(作品リストによる)が展示されていた。会場の様子を撮影した写真で紹介する(写真撮影とSNSで紹介することを会場で作者から許可していただいた)。鑑賞者を写さないように配慮したので作品のサイズが分からないが、大きな作品は2790×1820もある。作品の迫力、訴える力に圧倒された。




「鎮魂 3.11A」「永い旅 3.11」などのタイトルから分かるが東日本大震災をテーマにした作品が多い。作品リストで数えると20点あった。震災で傷ついた人びとの深い悲しみ、そして作者の問題意識が伝わる作品群。




ここ数年間で制作された空間の概念シリーズ。平面に4次元空間を創出するという新たな試み。

ギャラリートークの最後に色々なことにチャレンジすることは楽しい、と語っておられた。80歳を過ぎてなお衰えぬ創作意欲、新たな表現の探求欲に感動した。


村上忠志 ー 異次元空間の創造 作品鑑賞をおすすめします。
辰野美術館:上伊那郡辰野町樋口2407-1 0266-43-0753


火の見櫓のある風景を描く

2024-06-12 | A 火の見櫓のある風景を描く


火の見櫓のある風景 長野県朝日村古見 2024.06.08

 朝日村には火の見櫓が16基ある。それらの中でまだスケッチしていないのがこの火の見櫓。なんとか道路山水的構造の風景を見出した。緩やかに下って行く道路。その交差点の脇に立つ小さな火の見櫓。

本当はもう少し火の見櫓に近づきたいけれど、歩道のない道路なので、それは無理。車道に立ってスケッチするわけにはいかない。道路の左側に並び立つ住宅の形は把握しやすい。背景の山のボリュームもこのくらいが良い。道路の右側をどう描こう。この近景は描きにくい。


 


高山市のマンホール蓋

2024-06-12 | B 地面の蓋っておもしろい


 高山市丹生川(旧丹生川村)のカラーマンホール蓋 2024.06.09

飛騨高山ウルトラマラソンの第3関門、丹生川支所の駐車場に設置されているカラー蓋。乗鞍岳を背景にライチョウと旧丹生川村の花・キバシャクナゲ、シラビソ、ハイマツが描かれている。「にゅうかわ」としか記されていない。




 高山市清見町(旧清見村)のマンホール蓋 2024.06.09

飛騨高山ウルトラマラソンの第5関門、高山市公文書館の近くの道路上に設置されていた。カワセミが描かれている。清らかな川に生息すると言われるカワセミは旧清見村の象徴。丹生川の蓋と同様に「きよみ」としか記されていない。


 


飛騨高山ウルトラマラソン応援の顛末

2024-06-11 | A あれこれ

 一昨日(6月9日)行われた飛騨高山ウルトラマラソンに友人のS君が参加した。標高差約500m、激坂ありの国内屈指の過酷なコースを100km走る。自宅から高山駅まで90km弱。それ以上の距離を走るのだから凄いとしか言いようがない。彼はここ何年かこのウルトラマラソンに参加している。今年も応援に出かけたが、昨年とは全く違う応援になった。以下その顛末記(推敲していないので冗長な文章です)。

飛騨高山ウルトラマラソンには100kmと71kmの2種目ある。100kmのスタート時刻は4時30分、4時50分。途中関門が5か所設けられていて、各関門を制限時刻までに通過できないと失格となる。制限時間は14時間。4時50分スタートのS君は制限時刻の18時50分までにフィニッシュしなくてはならない。


第3関門の丹生川支所

朝9時前に自宅を出発、第3関門の丹生川支所へ向かう。自宅からおよそ77kmで2時間とかからない。10時40分ころ到着した。この関門はスタート地点から57.2km。S君のペースチャートによると、ここを通過するのは12時18分頃だ。


11時50分頃から、関門の入口付近に設置されている時計(②)の横に立ってS君を待つ。昨年と同じごく薄い緑色のシャツを着て走ることもゼッケンもS君のSNSで確認している。見逃すはずはない。

12時15分になった。そろそろ来るはずだ。だが来ない・・・。12時30分、まだ来ない。制限時刻の12時50分になった。来ない・・・。S君は日々の練習をSNSにアップしている。入念な準備をして今日を迎えたはずなのに・・・。制限時刻に間に合わないランナーが何人も走って、歩いて関門に入って来る。あと30分待ってみよう。来ない。

僕は待つことをやめて、帰ることにした。どうしたS君? 何があった? 途中でアクシデント? 

K君が何か情報を掴んでいるかもしれないと電話してみたが、出ない・・・。しばらくしてもう一度電話したがダメ。自宅に向かって走行中にK君から電話があった。道路脇の空き地に停めて、事情を伝えた。更に走行。第3関門の丹生川支所から20km近く戻って来たところ、平湯トンネルまであとわずかというところでK君からメッセージがあった。運よく道路工事区間の直前だった。工事用信号が赤になった。待ち時間3分。

メッセージを確認した。「12時半くらいに60km通過して第4関門に向けて走っている可能性が高いです」

僕は引き返して第4関門に向かうことにした。途中、空地に車を停めてメモしてきた第4関門の電話番号をカーナビに入力した。案内に従って進む。丹生川支所支所通過。僕の記憶だとそのまま直進するはずだが、カーナビは左折指示。高山の中心市街地方面へ向かう。カーナビは距離優先にしないと遠回りのルートを指示することがあるからなぁ、と思いつつ走行。

観光客の姿が目に入り出す。道路上の案内標識に 高山駅の表示。おかしい・・・。渋滞気味で第4関門の通過予想時刻、3時前には到着できないと判断して、市街地を抜け出そうと迷走・・・。


ランナーの姿が目に入った。よかった。そのまましばらく走行するとフィニッシュまで残り4kmと表示されたコーンが道路脇に設置されてるではないか。え? ここはどこ・・・? さすがに私は誰?とはならなかったが、かなり焦って冷静さを失った。

コーンのすぐ近くに給水所があった。幸いその向かいが空地だったので車を停めて、訊ねた。第5関門の高山市公文書館がすぐ近くだと、教えてもらった。

僕は理解した。高山市にはB&G海洋センター体育館が2カ所、国府と清見にあって、僕がメモしたのは第4関門の国府ではなく、かなり離れた清見の電話番号だったということを。

だが、ラッキーなことに間違えた清見B&G海洋センター体育館は第5関門の高山市公文書館のすぐ近くだった。カーナビをセット。案内を頼りに3km程走行。第5関門に着いた。


第5関門の高山市公文書館

ここからフィニッシュ地点、飛騨高山ビッグアリーナまで6.7kmと表示されている。


通過制限時刻は17時50分。S君がここを通過するのは17時過ぎだろう。

かなり前に僕はS君に今年も応援に行くことを伝えていた。第3関門、第4関門で会うことが出来なかった。ここで会って約束を果たさなければ・・・。見逃してはならない。第3関門の失敗をまたしてはならない。関門入り口を注視し続けた。


来た! S君! ハイタッチ、握手! よかった会えた。

S君を見送って飛騨高山ビッグアリーナへ。途中力走するS君を追い抜く時スピードを落として手で合図すると、彼も手を挙げて、何やら叫んで応えてくれた。

第5関門でもそうだったが、飛騨高山ビッグアリーナでS君を待つ間、向かってくるランナーに拍手すると、頭を下げたり、ありがとうとお礼を口にしたり、目を合わせて頷く仕草をしたり・・・。いいなぁ、こういうの。


フィニッシュゲートを潜り抜けるS君


右後方に時計が写っている。まだ制限時刻の18時50分まで40分もある。ナイスラン!

100km 完走おめでとう! すばらしい!!


なぜ、第3関門で見逃してしまったんだろう・・・。想定時刻より30分も前、11時45分頃通過していたことが分かった。スタート地点から74.1kmの第4関門は14時18分頃通過していた。想定時刻は14時57分。40分も稼いでいる。カーナビのセットを間違えなかったとしても到底間に合わなかった。

S君はSNSに次のように綴っている。**完走だけ出来る走りをしたんじゃ成長は出来ないと思い攻めの走りをしようと思っていました。勇気ある走りです。** 

僕が祝意をメッセージで伝えると次のような返信があった。**そう言ってもらえて嬉しいです。出来るか出来ないかよりやるかやらないかが大事ですね。** 名言だ。


80km通過 90km通過しました。そろそろかと。第3関門で連絡してから、このような情報を何回も送ってくれたK君に感謝します。


「伊豆の踊子」を読む

2024-06-10 | A 読書日記

360
 川端康成の(などと書く必要もないだろうが)『伊豆の踊子』(新潮文庫)を続けて2回読んだ。40頁に満たない短編だから読むのにそれ程時間はかからない。この小説を初めて読んだのはたぶん高校生の時。奥付に1950年8月20日発行、2021年7月20日第154刷、2022年7月1日新版発行とある。長年読み継がれてきていることが分かる。

カバーの画はきれいな櫛。踊子が挿していたのは桃色だったことが文中に出ている。だが、この絵は踊子の櫛ということだろう。なかなか好いカバ―デザインだ。

20歳の一高生の私と14歳の踊子の淡い恋と括られる短編だが、ポイントは以下のくだりだろう。

伊豆で旅芸人一行と数日一緒に旅をする私。**二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。**(38頁) 踊子が「いい人ね」と言うのが聞こえて、**私は言いようもなく有り難いのだった。**(38頁) **私はさっきの竹の杖を振り廻しながら秋草の頭を切った。**(38頁)心ウキウキな私。

**「あの芸人は今夜どこで泊るんでしょう」
「あんな者、どこで泊るやら分るものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊るんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか」**(12,13頁)

こんなことを聞かされて、私は心が乱れてしまう。料理屋のお座敷に呼ばれた芸人たち。**踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。**(19頁)となる。

小説の最後、私が東京へ帰る日。宿の外には女たちの姿が見えない。踊子もいない・・・。**昨夜遅く寝て起きられないので失礼させていただきました。**(41頁)と私に伝える一座の栄吉。

ところが乗船場の近くで踊子が待っていた。 

永吉が問う。
**「外(ほか)の者も来るのか」
踊子は頭を振った。
「皆まだ寝ているのか」
踊子はうなずいた。**(42頁)

いいなぁ、この場面。読んでいて涙が出た・・・。早朝なのに踊子が見送りに来てくれていた。これが淡い恋でなくて何であろう・・・。

読書はいい。この歳になってもこんな体験ができるのだから。


 


火の見櫓建設費用の負担

2024-06-10 | A 火の見櫓っておもしろい


 火の見櫓の建設費用はどうしていたんだろう・・・。

全額公費で、あるいは全額個人の寄付で賄うケース、全額地元住民が負担するケース、それからこれらの複合ケースがあっただろうと考えていた。一昨日(8日)火の見櫓建設の費用負担に関する資料が見つかった。

以下その報告。

上掲写真の火の見櫓は長野県朝日村西洗馬に立っていたが、隣りの消防団詰所と共に撤去された。見つかったのはこの火の見櫓の建設に関する資料。

この火の見櫓の建設工事契約書の写しと竣工記念写真は手元にある。契約書には請負金額  拾参萬圓也と記されている。記念写真には朝日村消防団第5分団 警鐘楼竣工記念 昭 30.8.12と文字入れされている(第5分団の第は略字)。

火の見櫓と消防団の詰所があった敷地には西洗馬公民館があるが、近々解体されることになっている。それで、一昨日の午前中にこの公民館2階の図書室に長年保存されていた書類等が一般公開されると知り、出かけた。この火の見櫓建設に関することが記載されている書類があるのではないか、と思ったので。


座卓に並べられた何点もの資料。


火の見櫓が建設された年、今から69年前の昭和30年(1955年)の記録簿を見つけた。火の見櫓の建設工事の契約日はこの年の6月21日、ということは契約書の写しで分かっている。予想していた通り、記録簿に建設費用支出に関する記録があった。

「警鐘楼建設補助金の件」 村費支辨(弁の旧字)以外不足金40,300円(記録簿には漢数字で書かれている、以下同じ)について各戸金100円平均負担として残り金13,000円を区にて負担するという内容が記されている(誤読はしていないと思う)。

この記録簿は上記の通り、自治体(村)と地元の区(西洗馬区)と地元住民が建設費用をそれぞれ負担したことを示す具体的な資料として貴重だ。

記録簿は今後も保管する予定、と聞いている。


記録簿には起工式が8月1日に、竣工式が8月12日に行われたことも記されている。これは契約書の工期(昭和30年6月21日~8月20日)より短い。

やはり記録するということは大事なことだと、改めて思った。


 


火の見櫓のある風景

2024-06-08 | A 火の見櫓のある風景を描く


火の見櫓のある風景 長野県朝日村針尾 2024.06.08

 朝日村にある火の見櫓16基の内の1基。この風景は昨年6月に描いているが、その時の写真(下)と今日の写真とは画角に違いがあるものの、ほぼ同じ位置から撮っている。

この風景をスケッチするとなると、この位置がベストだということを確認した。背景の山と火の見櫓との関係。火の見櫓の手前の2棟の切妻屋根の建物(右は消防団詰所)など、この風景を構成している各要素の位置関係が一番好い。

この風景の構造を読み解こうとよく見ると、道路山水的構造でもなく、重層的構造とも言えない。構造がきちんと把握できないと描けない・・・。


2023.06.20


ここの火の見櫓は見張り台から屋根まで高く、屋根の直下に半鐘が吊り下げられていない。中間の横架材から吊り下げられている。この通り描くと、不自然に見えるだろう。本当のことが嘘っぽく見えてしまう。どうする・・・。


 


「マンボウ家族航海記」を読んで

2024-06-07 | A 読書日記


『マンボウ家族航海記』北 杜夫(実業之日本社文庫2011年)

 北 杜夫の作品は文庫本、単行本でかなり読んだが『マンボウ家族航海記』は読んでいなかった。 

既に何回も書いたが、数年前に文庫本の大半、1,100冊、新書、単行本を加えると1,700冊を古書店(この「マンボウ家族航海記」を買い求めた古書店)に引き取ってもらった。だが、夏目漱石と安部公房の本と共に北 杜夫の本は残した。

『マンボウ家族航海記』はしばらく積読状態だったが、数日前から読んでいて、昨夜(6日)読み終えた。奥付で発行年月日を確認すると2011年10月15日 初版第一刷発行となっている。北さんが亡くなったのは同年の10月24日。生前に発行された最後の本であろう。

この本を読み終えてあれこれ考えた。

北さんは確か40歳のころ躁うつ病を発症。チャップリンのような喜劇映画をつくりたいと、その資金稼ぎのために株取引を始めて大損して、自己破産状態に陥っていた。この本にも「株騒動あれこれ」というタイトルのその一からその十二まで株取引の様子を詳細に書いている。奥さんとの騒動も。

2015年7月に信州大学で北さんの娘さんの斎藤由香さん(*1)の講演があり、聴講したが(過去ログ)、その時奥さんも来ておられた。とても上品な感じの美しい方だった。

北さんがこの本に書いていることを引用したい。**私は必至になって資金を稼ぐため、エッセイなどを書きなぐったが、それはあまりに急いで書いたため、くだらぬものとなった。(中略)先輩友人からもずいぶんと忠告されもした。**(103頁)

**かつてソウ病のときに出鱈目に書きなぐった小説やエッセイや対談がひどいものであったので、むかしは少しは人気もあった私もすっかり読者から見放されているようだった。**(109頁)

北さんは自覚していたのだ。このエッセイ集について感想を書くのは控えたい。ただ、家族愛を感じるとだけ書いておきたい。

『夜と霧の隅で』『幽霊』『木精』『どくとるマンボウ青春記』『楡家の人びと』・・・。すばらしい作品を残した北さんには感謝しかない。




ぼくはトーマス・マンの長編小説『魔の山』(上下2巻で1200頁超にもなる大作 *2)を1994年の10月から11月にかけて読んだ。北さんがこの作家を敬愛していたという理由から。ぼくが北さんのファンでなかったら、読むことはなかっただろう。

『北杜夫の世界』新評社(1979年)に収録されているなだいなだの「『幽霊』から『楡家』まで」という論考に、**彼が、真に作家を志向したのは、トーマス・マンにめぐりあった時からである。このトーマス・マンに対する傾倒のしかたは、異常というほかない。**(156頁)とある。


ごく初期の作品を再読しようと思う。


*1 エッセイスト 『マンボウ家族航海記』の解説を書いている。
*2 『魔の山』(岩波文庫1988年10月17日 改版第1刷発行(上下巻共))の訳者の望月市恵は北さんの旧制松本高校時代の恩師。卒業後も交流が続いたという。『北杜夫の世界』には望月さんの『松本高等学校時代の北杜夫君』というエッセイも収録されている。


火の見櫓のある風景

2024-06-06 | A 火の見櫓のある風景を描く


△ 道路山水的構造の火の見櫓のある風景


△ 重層的構造の火の見櫓のある風景

(再)北安曇郡松川村(板取会館の近く) 2024.06.05

 私が惹かれる風景の構造はふたつ。同じ火の見櫓でも見る位置によって見え方は変わり、好きな構造(風景構成要素の構成され方)を見つけることもできる。この火の見櫓から私好みのふたつの構造の風景を見出すことができた。

いま描いてみたいのは重層的構造の火の見櫓のある風景。坂井さんの布絵に魅せられたからかもしれない。ここ、自宅から少し遠いけれど天気の良い日に出かけてスケッチしようかな・・・。


 


坂井 真智子 布絵展「季節を巡る」

2024-06-05 | A あれこれ


 池田町のカフェ 風のいろを会場に、5月11日に始まった布絵作家・坂井真智子さんの個展「季節を巡る」は昨日(4日)が最終日だった。




昨日の午後、在店していた坂井さんと話をすることができた。

坂井さんが惹かれる風景の特徴が上の布絵から見て取れる、と坂井さんに話した。それは重層的構造の風景。もちろん他の構造の風景の作品もあるけれど・・・。上の作品。近景は一番手前の黄色い菜の花畑、中景はその丘を下った先にある針葉樹の林、ゆったりと流れる千曲川(たぶん)、遠景は山際の集落。そして一番遠景に2層の山並み。

布による風景の創作。絵で表現するより制約が多いだろうと思う。自由にならない色や形。そう、形にも布という素材による制約、糸で縫うなどして固定することなどの制約がある。それ故、グラフィックで抽象的な作品になるのではと思うのだが、違う。坂井さんは布のテクスチャーや柄を実に上手く活かしている。


小品を買い求めて自室に飾った。近くで観ると確かに布だけれど、少し遠くから観るとリアルな風景(ぜひスマホやパソコンの画面から離れて見てください)。

この作品も重層的構造の風景で山が3層重なっている。

1層目。近景は粗い織り目、紺地に白い菱形格子。格子の中に白い菱形。近景では山も樹木など細かなところまで見えるから、絹地のような均一で細かな布では表現できないだろう。

2層目。山並み。濃い緑とその右の明るい緑が今ごろの山の表情を上手く出している。左側の白は北斜面に残る雪。雪の右のグレーもなんだかリアルな山の表情だ。

3層目。遠景の山並みはレイリー散乱と呼ばれる現象によって青みを帯びて見える。青い布によってそのことが表現されている。山肌の白は残雪。不思議なのは層と層の間に空間を感じ、奥行き感があること。手前の山と奥の山は相当離れているように見える。

明るい空に白糸で雲が表現されている。

縦横約5cmの正方形に表現された重層的構造の初夏の風景。ただし以上は私が作品から読み取ったことで、坂井さんの創作意図とは違うかもしれない。

作者の手から離れた作品は鑑賞者に委ねられる。どのように解釈しようがかまわない。水彩画では無理、油彩画でも無理。布でしか表現することができない魅力的な風景。いいなぁ。

※ 坂井さんから作品撮影およびブロ過グ掲載の許可を得ています。


過去ログ


6月の本

2024-06-04 | A 読書日記


 松本駅近くの丸善へ久しぶりに行った。買い求めたのは『伊豆の踊子』川端康成(新潮文庫)と『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』三砂ちづる(光文社新書)の2冊。

川端康成の小説は文庫で大分読んだが、数年前に松本市内の古書店に文庫本の大半を引き取ってもらった際、それらの本も引き取ってもらった。自室の本を減らすことを優先した。また読みたくなったらその時は改めて買い求めようと割り切って。で、『伊豆の踊子』(過去ログ)を買い求めた次第。

この本の奥付を見ると、発行されたのは昭和25年(1950年)8月20日で、令和3年(2021年)7月20日には154刷となっている。私が買い求めたこの文庫は令和4年7月1日に発行された新版。154刷とは凄い。やはり名作は時を超えて読み継がれる。外した帯には文学の至宝とまで書かれている。

川端康成の文学者としての生涯を辿る『川端康成』十重田裕一(岩波新書)には発表時に必ずしも高い評価を得ていなかった『伊豆の踊子』が名作となった過程とその要因が書かれている。1963年に行われた高校生への読書アンケートの結果、全学年の男子高校生が最も読んだ本が『伊豆の踊子』だったことも示されている。このことは先日IT君とのカフェトークで話題にした。今読んでいる本を読み終えたら『伊豆の踊子』を読むつもり。

もう1冊の『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』三砂ちづる(光文社新書2024年)は新聞の書評を読んで、読みたいと思った。巻末のプロフィールによると、著者の三砂ちづるさんは1958年生まれ。このくらいの年代の著者の文章は好きだ。もちろん個人差はあるけれど、総じて適度な読み応えがあるし、文体も好みに合う。あまり噛まずに飲み込める食べ物のような文章は好まない。

手元には本の駅・下新文庫で買い求めた古本、『絶景鉄道 地図の旅』今尾恵介(集英社新書2014年)もある。6月の読書は以上の3冊の他に安部公房2、3冊。『方丈記』(岩波文庫1989年5月16日発行、2001年3月5日第25刷)の再読はできるかな・・・。





「川端康成」を読む

2024-06-03 | A 読書日記


■  『川端康成』十重田裕一(岩波新書2023年)を読んだ。

副題は「孤独を駆ける」。それから帯には、**メディアの時代を駆け抜けた、しなやかな孤独**とある。また、カバー折り返しの文章には**二〇世紀文学に大きな足跡を残した川端康成は、その孤独の精神を源泉に、他者とのつながりをもたらすメディアへの関心を生涯にわたって持ち続けた。(後略)と書かれている。共通する孤独という言葉。

この本を読み進めると、「孤独」がキーワードとしてしばしば出てくる。川端康成は2歳の時に父親を、3歳の時に母親を亡くし、祖父母に引き取られる。その祖父母も川端康成が15歳の時までに亡くなっている。巻末の年表を見ると、7歳の時に祖母が亡くなり、以後祖父とふたりで暮らしたことが分かる。

著者の十重田さんはこのことに触れて、**天涯孤独となった川端の、いわゆる孤児の感情は、彼の文学の特色を考えるうえで逸することのできないものである。**(8頁)と説き、このことが「伊豆の踊子」や「葬式の名人」、「孤児の感情」など多くの小説の重要なモチーフとなっていると指摘している。

この本に紹介されている「伊豆の踊子」のくだりの一部を載せる。**二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでゐると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪へ切れれないで伊豆の旅に出て来てゐるのだつた。**(62頁) なるほど、孤児根性という言葉が出ている。

私は川端康成について知っていることは少なく、川端が映画製作に関わったことがあったこと、文芸時評で多くの若い作家を見出すことに貢献したことなど、この本を読んで初めて知ることも少なくなかった。

また、この本には「雪国」など代表作の読み解きなど、興味深い内容が密度濃く綴られている。巻末の主要参考文献は9頁に及び、川端康成著作目録も、きっちり8頁。関連年表も掲載されていて、川端康成のことだけでなく、歴史的・文化的事項も載っている。

*****

ここで問題、川端康成と光源氏には共通点がある。それは何? 

答えは川端康成も光源氏も3歳の時に母親を亡くしているということ。→ 過去ログ

亡き母への追慕の念断ち難く、光源氏は母に似ている女性はもちろんのこと、多くの女性に恋をした。川端康成はその気持ちを小説に表現したのではないか・・・。

『川端康成』で十重田裕一さんは「孤独」をキーワードに挙げたが、この本を読むまで私は「母への追慕の念」を川端作品を読み解く鍵だと思っていた。まあ、この二つの言葉は同じ意味合いだと解釈するが。

だから、いくらアルコールなブログだったとは言え、「眠れる美女」を好色爺さんの女体観察記などと書いてはいけなかったと、過去に書いた記事を反省する。これは幼子が母親と一緒に寝るという体験に乏しい川端康成の幼児体験願望ではないのか・・・。この解釈は案外いけるかも。 

「伊豆の踊子」を再読しよう。新たに気がつくことがあるかもしれない。二十歳の一高生の私と踊子との間に芽生えるほのかな恋心、この淡い恋物語を中高生が読む小説などと決めつけてはいけない。