後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「アンズの花の写真」

2025年03月03日 | 写真
アンズの花の写真をお送り致します。
写真は長野県の森の杏の里のアンズの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 


「桃の花の写真です」

2025年03月03日 | 写真
桃の花の写真をお送り致します。

「春の歳時記、桃の花と雛祭り、そして五節句とは」

2025年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
季節の廻りは早いものです。節分が終わったと思ったら次は雛祭の季節です。この季節の歳時記と言えば桃の花と雛祭りではないでしょうか?
けれども桃はまだ咲きません。東京では4月末頃に咲きます。
今日はお雛様と紅梅の写真をお送りいたします。紅梅の写真は府中市にある郷土の森博物館公園で撮りました。
1番目の写真は家内が実家から持って来たお雛飾りです。
2番目の写真はデパートに飾ってあった簡素な雛飾りです。この方がお手軽で飾りやすいです。
3番目の写真は最近の我が家の雛飾りです。
4番目の写真は府中市の郷土の森博物館公園の紅梅です。

思い返してみると雛飾りを見たのは新婚の頃でした。男だけの3人兄弟でしたから女の子のお祭りとは縁が無かったのです。妻が実家から持ってきた雛飾りは1番目の写真のように七段ありました。
しかし何年か後には七段の雛飾りは飾るのが大変なので小さな木目込み人形の内裏雛を買いに行きました。そうしたら2番目の写真のように簡素なものをいろいろ売っています。
毎年3月3日がちかづくと簡素な雛飾りを床の間に飾り、菱餅や雛あられや白酒を供えています。毎年妻が小声で「明かりをつけましょぼんぼりに・・・今日は楽しい雛祭」と歌っています。もう60年以上続く我が家の季節の歳時記です。
雛祭りには桃の花を飾りたいところです。しかし関東では4月末にならないと桃畑が咲きません。ですから4月末になると毎年、山梨県の桃の産地に満開の桃畑を見に行ったものです。
南アルプスの雪の山稜を背景にして咲く桃畑の風景はまさに桃源郷のようでした。
さて五節句とは何でしょう。
四季の移り変わりを彩るのが「節句」です。現代では、5つの節句が残っており、季節の節目を祝う日本の伝統行事が五節句です。
五節句は次の通りです。
  1.  1月7日 七草の節句
  2.  3月3日  桃の節句
  3.  5月5日  端午の節句(菖蒲の節句)
  4.  7月7日  七夕の節句(星祭り)
  5.  9月9日 重陽の節句(菊の節句)
さて五節句とは何でしょう。
五節句は、奈良時代に中国から伝わった、奇数が重なる日をめでたいとした考えです。
節句とは季節の変わり目に、無病息災・豊作・子孫繁栄などを願って、お供えものをしたり邪気払いを行ったりする行事のことをいいます。もともとは、奈良時代に唐(当時の中国)より伝来した「陰陽五行説」に基づいています。
なお、五節句の日は1月7日を除いて同じ奇数が重なる日です。1月1日の元旦も本来は節句に含まれるべきですが、別格とされています。代わりに、1月7日が節句として取り入れられています。
中国では奇数は陽の数とされていて、縁起の良い数字が重なることで逆に不吉な日とされ、もともとは厄払いする日として捉えられていたそうです。その習わしが変化し、無病息災や子どもの成長などを願って祝い事をする日になりました。
なお、昔は五節句の他にも、さまざまな節句がありました。しかし江戸時代に、幕府が5つの節句を公的行事の日と定めたことで5つの節句が行事として残ることになったのです。

今日は春の歳時記として雛祭りと桃の花と五節句について書きました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「広々とした風景を見るとくつろぐ」

2025年03月02日 | 写真
とにかく広々とした風景が好きです。ジッと眺めていると、とてもくつろぎます。そんな広々とした風景は小金井公園と武蔵野公園にあります。今日は武蔵野公園に行ってくつろいで来ました。広々とした風景の写真をお送り致します。


「今日の東京のイグナチオ教会のミサの写真」

2025年03月02日 | 写真
今日は東京のイグナチオ教会のミサに動画配信をとうしてあずかりました。
動画配信は下記にあります。
https://www.youtube.com/live/bKVH6Ih6iGQ

 今日の東京のイグナチオ教会のミサの写真をお送り致します。


「インド人のフェルナンデス君の思い出」

2025年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アジアと西洋の間にインドがある。行ったことはないが、アメリカやドイツで会ったインド人は皆例外なく親切で、私の面倒をよくみてくれた。宗教はヒンズー教が多い。日本人の仏教は大ざっぱに言えばヒンズー教の一派となるのか、非常に親しげにいろいろ面倒を見てくれる。

1969年秋、ドイツのローテンブルグでのこと。私は34歳。カトリック教会へ連れて行ってくれたインド人フェルナンデス君は22歳。中世風のカトリック教会で3ケ月間、毎日曜日ミサへ連れて行ってくれた。ミサの後は決まって傍のレストランでチキンの空揚げの昼食をとり別れた。宗教談義はしない。ただ「ヨーロッパを車で観光するときには、村々の教会へ入り、お祈りしなさい。ヨーロッパ人の宗教が理解できますよ」と言った。彼はカトリック教徒であった。

まず私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真とをご紹介しましょう。

ローテンブルグを離れた私はシュツッツガルト市へ引っ越しました。その後、家族が合流した。週末には南ドイツやスイスへ車で遊びに行くようになった。村々の中心には広場があり、カトリック教会と新教のエバンジュリッシュ教会が向かい合っている。教会に静かに入り、お祈りして小銭を献金箱に入れて出てくる。フランスでもスウェーデンでも教会に寄った。有名な豪華な教会でなく、ひなびた小さい教会ほど味わい深い。
旅をすると、外国人がなんとなく恐くて緊張する癖があった。しかし、教会に寄るようになってから緊張は一切消えてしまった。

そして時々フェルナンデス君を思い出すのです。

フェルナンデス君が興味津々で聞いた話は、江戸時代260年の禁教とそれに耐えた日本の隠れキリシタンのことでした。明治になり、フランスからやって来たプチジャン神父が浦上天主堂を建てた時、日本の信者が「私たちは神父さんが必ず戻ってくると260年間待っていました」と言ったという話もしました。

しかしフェルナンデス君とは一別以来会っていない。消息も分からない。ドイツから帰国した私は1971年に立川カトリック教会で塚本金明神父さんから洗礼を受けた。
インドにはザビエル神父の腕が保存してあり、カトリック信者の数も多いそうである。マザーテレサをインド人は宗教の違いを超えて熱烈に支援した。
あれから茫々50余年、フェルナンデス君のことを今でも良く思い出す。善良な彼の顔を思い出します。


「3月2日(日)『年間第8主日』のミサのライブ配信」

2025年03月02日 | ブログ
今日の東響のイグナチオ教会のミサの動画配信は下記です。

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
シラ書(シラ 27:4-7)
第2朗読
使徒パウロのコリントの教会への手紙(1コリント 15:54-58)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ6:39-45)

カトリック麹町 聖イグナチオ教会
https://www.ignatius.gr.jp/index_j.html
〒102-0083 東京都千代田区麹町6-5-1

JR中央線(麹町出口)/東京メトロ 丸の内線・南北線(赤坂出口) 四ツ谷駅下車(徒歩1分 上智大学手前)
教会受付(受付時間: 9:00~19:00):
 電話 03-3263-4584



「庭の白梅の写真」

2025年03月01日 | 写真
庭の白梅の写真です。
狭い庭にいっぱいに毎年咲きます。

「春風が吹く今日の小金井公園の風景」

2025年03月01日 | 写真
春風が吹く今日の小金井公園の風景の写真をお送り致します。
風は暖かいのですが砂埃が眼に入ります。そんな小金井公園の散歩でした。
撮ってきた写真をお送り致します。
 

「南国の沖縄の花の写真」

2025年03月01日 | 写真
南国の沖縄の花の写真をお送り致します。
写真はインターネットからお借りしました。

「早春の花々の写真」

2025年03月01日 | 写真
「季節の花」という楽しいHPを見つけました。
そのアドレスは、http://www.hana300.com/aasyasin03.html です。
このHPから早春の花々の写真を5枚お送りいたします。
一番目の写真から順々に、クロッカス、梅、ウチワノキ、ジンチョウゲ、カタクリの花々です。


「早春の山梨県と北海道の水芭蕉の思い出」

2025年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
私には山梨県と北海道の水芭蕉の思い出があります。
山梨県の雑木林を分け入り、友人の木内さんの山荘の咲いていたのです。その庭に一輪咲いた水芭蕉を見ながら、ビールを酌み交わした思い出があります。
池の上流にある小橋の上に椅子を2個出して貰いました。夕方の木々の姿が池の水面に映り、春の暖かい風が頬を撫ぜていました。
北海道では2003年に見ました。
北海道への旅で水芭蕉が一面に咲いている湿地帯に偶然迷い込みました。
それは 網走湖の湿地帯で鮮やかな緑の葉の中に真っ白い水芭蕉の花(苞)が一面に開いていていたのです。
家内が喜んで湿地帯に中を歩きながら水芭蕉の白い花を眺めていた姿を思い出します。
はじめの2枚の写真は木内さんの山荘に咲いていた水芭蕉です。
あとの2枚の写真は北海道に咲いていた水芭蕉です。



「可憐な野に咲くスミレ、華麗なパンジー、そしてゲーテの詩」

2025年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム
春になると野山には小さくて可憐なスミレが沢山咲きます。そのスミレを園芸種として大きな花びらのパンジーや、ビオラに改良しました。パンジーは冬でも大きくて華麗な花を見せてくれます。花屋さんの店先を美しく飾っています。
小さく可憐な野に咲くスミレ、華麗な花びらのパンジー、あなたはどちらがお好きでしょうか?
この問いに自信を持ってはっきり答えるのは難しいと、数日考え込んでしまいました。
解答が出ました!私は「小さな野に咲くスミレの方が好きです」と明快に答えることにしました。しかし本音ではパンジーの方がすきです。
こんな問題に呻吟している私は本当に暇な老人なのです。
しかしこの難問を思いついたのでスミレとパンジーの関係をいろいろ調べてみました。
その結果を見る前にスミレの花の写真とパンジーの写真をまずご覧下さい。

1番目と2番目のスミレの花の写真の出典は、「菫の小部屋」;http://www.wondersquare.net/50/sumire.htm です。
3番目と4番目の写真は、「パンジーの画像集」を検索すると沢山の写真が出てきますので、その中から選びました。

さてここで二つの疑問が湧いてきます。
人間とスミレの関係と、スミレからパンジーへと改良したいきさつです。
野に咲く小さなスミレを人間は何時頃から見て楽しんでいたのでしょうか?
そこで万葉集を見てみました。するとスミレが出ているのです。
万葉集1424番、山部赤人、
「春の野に すみれつみにと 来(こ)し吾ぞ 野をなつかしみ  一夜(ひとよ)宿(ね)にけり」
この菫はツボスミレではないかと言われています。

それではヨーロッパではどうでしょうか?
ゲーテの詩があります。それをモーツァルトが歌曲として作曲しました。K.476 歌曲 「すみれ」ト長調です。
そのゲーテの詩は、http://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/op4/k476.html から転載しました。西野茂雄訳です。

    すみれ、Das Veichen
一本のすみれが牧場に咲いていた
ひっそりとうずくまり、人に知られずに。
それは本当にかわいいすみれだった!

そこへ若い羊飼いの少女がやって来た
軽やかな足どりで、晴れやかな心で
こっちの方へ近づいてくる
牧場の中を、歌をうたいながら。

ああ、とすみれは思った、もしも自分が
この世で一番きれいな花だったら、と
ああ、ほんのちょっとの間だけでも
あの少女に摘みとられて、
胸におしあてられて、やがてしぼむ
ああ、ほんの
十五分間だけでも

ああ、それなのに!少女はやってきたが、
そのすみれには眼もくれないで、
あわれなすみれを踏みつけてしまった!
すみれはつぶれ、息絶えたが、それでも嬉しがっていた
ともあれ、自分はあのひとのせいで
あのひとに踏まれて
死ぬんだから、と!

かわいそうなすみれよ!
それは本当にかわいいすみれだった。   

当時ゲーテのこの詩は単独でよく知られていて、多くの作曲家が曲をつけていたそうです。
ですからヨーロッパ人はスミレの花を見つけるとロマンチックな気分になるらしいです。
なをこの詩の訳は新潮文庫の高橋健二訳にもありますが省略します。

さてこの小さな野生のスミレはどのようにしてパンジーになったのでしょうか?
簡単に言うと、1800年代に北欧で、アマチュアの園芸家が、野生のサンシキスミレと野生スミレビオラ・ルテア、さらに近東のスミレビオラ・アルタイカを交配して品種改良に成功したと言います。
1820年代から1830年代に膨大な交配が行われた結果、華麗な大きな花びらの品種が非常に普及したのです。
1835年までには園芸種は400品種が存在しており、1841年までには、パンジーは観賞植物として完成したのです。
イギリスでは園芸愛好家たちによって育種され、1813年にトムスンが改良を始めたと言われています。
しかし19世紀半ばには、ヨーロッパ大陸生まれの華麗で鮮やかな色のファンシー・パンジーが流行し現在に至っているのです。
なお詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BC をご覧ください。
詳細は省略しましたがスミレに対するヨーロッパ人の情熱には圧倒されます。
このヨーロッパのパンジーは戦前の日本では「三色スミレ」と呼ばれ販売されていました。
戦後から現在に至って三色スミレはパンジーと呼ばれるようになり、その小型のものはビオラと呼ばれているようです。
宝塚の少女歌劇の歌に「スミレの花咲くころ・・・」という歌があり憶えていらっしゃる方々も多いと思います。
このように野生のスミレやパンジーやビオラは私達の生活を豊かに潤しているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出を書きたいと思います。私は愛宕中学校をを1951年に卒業しました。
それそれから61年目の2012年10月に仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。 若くして仙台を出てアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。 今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。2回生は全部で350人でした。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。 その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私でした。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。

 まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内量君ともよく一緒に遊んだものです。 君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ同窓会に行きました。旅立ったことも知らなかった私をお許し下さい。

 内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。 今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。

 有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。 何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったですね。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。今回の同窓会で多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。 

我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。 満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていましたね。 大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。 

村木良彦君。きみは10年以上前に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私もでました。 テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な番組を沢山つくりましたね。 仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。肺を病んでいた上品な母親がいましたね。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。君はその後東京大学に入りました。そのころ訪ねて行った私へ大井町駅のそばでトンカツをご馳走してくれました。 仙台はまだ貧しい時代だったのでトンカツなど食べたことも無かったのです。あの美味しさを忘れません。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。このブログでも君の追悼文を前に掲載しましたよ。 

早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。 その君が何時も非力な私を守ってくれましたね。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。 そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思いつつ今回同窓会へ行ったのです。でも君は既に旅立ってしまっていたのです。 早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れないよ。

その他いろいろ追悼したい友だちが沢山いますが、この辺で止めます。 今日は既に亡くなってしまった76人の愛宕中学二回生のご冥福をお祈り致します。 そして亡くなったことも知らないもっと多くの愛宕中学校の2回生の方々の冥福をお祈りいたします。どうぞこの私の長い間の不義理をお許し下さい。 

1番目の写真は愛宕橋の上から広瀬川の下流を見た風景です。はるか向こうに宮沢橋が見えています。 そして2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会があったのです。そして皆、77歳の喜寿になったので、今回をもって最後の同窓会にするというのです。 幹事長は懐かしい杉下成美君です。野球やバレーボールが上手だった彼の顔を鮮明に記憶しています。 私はこの最後の同窓会に出席してきました。 
2番目の写真は2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会の出席者です。
今日は「愛宕中学校の友人たちの思い出」をお送り致しました。





「年老いて懐かしい仙台一高のこと」

2025年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
年老いて懐かしく思うのは昔卒業した仙台一高でのいろいなことです。
私は昭和26に宮城県立仙台第一高等学校へ入学しました。先生たちはみな旧制の仙台一中の先生でした。新制高校が出来て2年目なので旧制の中学の先生がそのまま残ったのです。自由で民主的な仙台市立愛宕中学校から古い雰囲気の宮城県立の仙台一高に入ったのです。
印象的だったのは漢文とドイツ語の授業でした。旧制の中学の漢文の先生がいろいろな漢詩を朗々と謳います。ドイツ語の先生はリルケの詩をドイツ語で暗唱します。英語の先生はサマセット・モームの小説の原文を読ませます。
仙台第一高等学校の授業ははそういうものでした。
生徒たちは宮城県全域から集まった秀才です。旧制の教育はそういうものでした。
思い出の深いものは数々のクラブ活動でした。野蛮な応援歌の練習でした。
旧制の仙台第一中学校と仙台第二中学校の野球の試合は古くからの伝統だったのです。野蛮な応援歌の練習はそのためだったのです。
クラブ活動で海水浴場に近いある別荘に泊まり込んで毎日泳ぎました。上級生が厳しかったので辛い思いをしました。
クラブ活動として木工部に入りました。ところがそのクラブでは木工はせずに、松島湾でカッターを漕いだのです。カッターだけでなく細い艇身のスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。スライデイングやフィックスは東北大学の漕艇部から借りて来ました。東北大学の漕艇部はオリンピック出場めざしてスライデイングやフィックスを漕いだのです。
クラブ活動としての木工部では蔵王山にも登りました。中腹にテントを張り寒い夜を過ごしました。
仙台第一高等学校の校風は質実剛健でした。その質実剛健が懐かしいです。

今日は旧制の中学校のような仙台一高の思い出を書きました。

添付の写真は松島の風景と細い艇身のスライデイングやフィックスです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)