後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「復興した東京の街を海から見る」

2025年03月07日 | 写真

中年の頃は東京湾でよくヨットに乗っていました。その時撮った東京の風景の写真です。

撮影場所:東京港のお台場沖、レンボーブリッジ下、隅田川河口より、撮影日時:2009年5月14日午後4時頃、

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「ドイツの戦災の惨禍」

2025年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はドイツの戦災の惨禍を書いてみたいと思います。
さて伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」という本の69ページに書いてあります。
「ドイツへ行って沁々と感じたことは、戦争の惨禍ということである。
どんな犠牲を払っても、この地上から戦争を無くすることは、人類に課せられた使命であると思った。徹頭徹尾戦った国ほど荒廃している。風車が清流に影を浮かべているオランダの美しさ、豊かさと、ドイツの惨めさとを比較して特にそう思った。・・・」
著者の伊澤孝平氏はライン河に沿って、デュッセルドルフ、ケルン、コベルンツ、アルト・ハイデルベルヒ、シュツットガルト、カールスルーエと戦火に見舞われた街々を巡ったのです。
当時は戦後8年もたっていたのですが、街々にはまだまだ爆撃で破壊された建物が残っていたと書かれています。
その様子を、「大戦中のヨーロッパの写真」(http://www.inspiration-gallery.net/.../europe-during-ww2-38/)から下にご紹介いたします。

1番目の写真には米軍兵士が乗ったジープが写っています。
下の2番目の写真には爆撃でねじまがった橋を自転車とともに渡ろうとしている住民を米軍兵士が助けています。
このような時代がヨーロッパにあったのです。

2番目の写真は爆撃でねじまがった橋を渡ろうとしている住民と米軍兵士です。
そして著者の伊澤氏は戦争中には私が住んでいた仙台市にいたので「仙台の大空襲」を体験しているのです。1945年の7月10日にB29が百機以上来襲して仙台市を一挙に焼き尽くしたのです。
さて私も1970年にシュツットガルトに家族と共に住んでいたのです。
ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。

3番目の写真は寒々とした冬のドイツの風景です。

4番目の写真は雪に覆われたドイツの古い町です。

5番目の写真は冬のシュツットガルト市の街路にたつ市です。近くの農民が作物を売っています。
私どもが住んでいたのは古いアパートでした。墓地のそばにあり3階に住んでいました。家からは娘の行っていた小学校、息子の幼稚園はすぐ近くにありました。八百屋や花屋が近所にある住宅街でした。
ドイツの冬は暗くて寒いのです。その長い暗い冬を体験しました。

ドイツの戦災の惨禍と冬のドイツの思い出を書きました。シュツットガルトのマックス・プランク金属研究所で働いていた頃の思い出です。シュツットガルトはスイスに近い場所です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「3月10日は東京大空襲、そして仙台空襲」

2025年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も3月10日がめぐって来ました。3月10日は東京大空襲のあった日です、そして7月10日には私が住んでいた仙台が空襲で焼野原になりました。80年前の1945年のことでした。
そして3月11日は東日本大震災の日です。14年前の2011年3月11日(金)に起きた大震災です。2万2000人余の死者が出ました。
東京大空襲の日にはアメリカ空軍による大空襲で死者数が10万人以上で、罹災者は100万人を超えたのです。
7月10日には仙台空襲があったのです。私は当時9歳でしたが仙台で凄まじい空襲を体験しました。仙台空襲の体験が忘れられません。

今日は「東京大空襲」と「仙台空襲」のことを書きます。そして戦争の悲惨さを忘れないようにしたいと思います。空襲は愚かな人間が起こした人災なのです。再び起きないように忘れるべきではないのです。
東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。

1番目の写真は富士山を見下ろしながら飛行するアメリカ軍のB-29です。
東京侵入の第一の目印は富士山でした。多量の焼夷弾を日本に落としたのです。

2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。
この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、市街地も爆撃されて大きな損害が生じました。焼夷弾でなかったので火の手は上がっていません。

3番目の写真は3月10日未明の大空襲で焦土と化した東京です。
本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたものです。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。
尚、写真の出典の、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 には焼け野原にある多数の死体の写真など目を覆うような写真が掲載されていますが、ここに転載するのは控えました。

以上の写真で示したようなアメリカ空軍による徹底的な空襲は東京だけでなく全国200市町村に対しておこなわれたのです。
そして当時、私が住んでいた仙台市もアメリカ空軍による空襲で焼け野原になってしまったのです。
東京大空襲の4ケ月後の7月10日に仙台を壊滅したのです。
それを体験したのです。B29爆撃機による無差別絨毯爆撃はすさまじいものでした。
1945年7月10日、仙台市は100機のB29による焼夷弾攻撃で一夜にして焼野原になってしまったのです。
当時はまだ少年だった私は家のあった向山の高台から一面の紅蓮の炎を見下ろしていました。
空には銀色の機体のB29が編隊を組んで縦横無尽に飛びながら束になった焼夷弾をばらまいていました。
夜が明けてから市街地の焼け跡を見におりて行きました。まだ煙が立っていて異臭が鼻を突きます。見回すとあちこちに焼けた死体がころがっています。
その日は一日中、崖下の広瀬川の川原で死体を焼く焚火が絶えませんでした。
幸い私の家の周囲の野山には焼夷弾が数本落ちましたが家を直撃しなかったので焼け残りました。

4番目の写真は焼野原になった仙台市の街の様子です。
7月10日の仙台大空襲の後、仙台駅から南町通りの向こうの西公園方面の光景です。
このように焼き尽くされたのは仙台市だけでなく全国の都市が徹底的にやられたのです。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだのです。
1945年8月15日の終戦で全国の空襲は無くなりアメリカ軍に占領されました。
しかし食料難で復興はままなりません。やっと昭和26年のサンフランシスコ講和で日本は独立国になりました。その後の復興はいばらの道でした。食糧難と住宅難が長く続いて苦しい生活でした。
その苦しみから抜け出したのは所謂、「経済の高度成長」のお陰です。

5番目の写真は経済の高度成長後の美しい町並みになった現在の仙台市です。青葉城から私が撮った写真です。

6番目の写真は経済の高度成長後の東京の銀座4丁目です。私が撮った写真です。

今日は3月10日の東京大空襲の日にちなんで東京と仙台の空襲のことを書きました。特に仙台空襲は私が体験した悲惨な空襲でした。
現在の若い方々にもご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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「アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧」

戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。

内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、

広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)


「春の日の森戸、葉山、逗子、鎌倉、江の島、茅ケ崎の風景写真」

2025年03月06日 | 写真
何年か前に暖かい春風に誘われて湘南海岸のドライブを楽しんだ折りに撮った写真です。
これらの写真に写っている海は、50年ほど前に妻と一緒に小型ヨットのデンギィで走り回った海です。葉山マリーナのデンギィのクラブの会員でした。江の島ヨットマリーナのヨットスクールでも帆走の訓練をしました。
あの頃の元気さが懐かしいです。
家内と葉山マリーナのカフェでのんびりと昔の思い出を話し合ったりしたのも思い出しました。こうして老境の日が過ぎ行きます。
1番目の写真は森戸大明神の沖にある灯台と鳥居です。
2番目の写真は森戸から葉山マリーナ方面を見た風景です。
3番目の写真は葉山の鐙摺港の沖に係留されているヨットです。ヨットの右奥には逗子の海水浴場が広がっています。
4番目の写真は逗子沖を帆走している2人乗りのデンギィの姿です。
5番目の写真は葉山マリーナのカフェの窓から見た浮桟橋とクルーザーヨットです。
6番目の写真は鎌倉の材木座の砂浜です。
7番目の写真は夕日に輝く片瀬海岸の風景です。

「曾遊の蔵王山の紅葉風景」

2025年03月06日 | 写真
秋の紅葉風景は私の大好きな風景です。思い出すのは嘗遊の地、故郷の山、蔵王山の紅葉風景です。
今日はそんな思い出深い紅葉風景の写真をお送り致します。蔵王山の紅葉風景です。
東北大学が蔵王山に清渓小屋を持っていたので夏や秋に何度も登りました。刈田岳に登って頂上からお釜を見下ろしたものでした。
懐かしい山なので麓の「七ヶ宿町の紅葉」を検索して美しい写真を何枚も見つけました。その中から4枚お借りしてお送り致します。

今日は曾遊の地、蔵王山の紅葉風景の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「我が青春の蔵王山にまつわるいろいろな思い出」

2025年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム
蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。
仙台で生まれ育った私は何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしたことがあります。
当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋に逗留するのです。
ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。
あれから茫々60年以上も経ちました。
毎年、今頃になると懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。
今日は皆様に蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたいと思います。
お送りする写真は「 山形蔵王の樹氷写真集」、http://www.asahi-net.or.jp/~EH5W-KRD/zao/photo.htm からお借りしました。

1番目の写真は雪に覆われた冬の蔵王山の山頂です。火山口のお釜の水は冬でも凍りません。熊野岳と刈田岳のすぐ下にあります。
冬は高湯温泉からスキーを履いてドッコ沼へ登り、湖畔の山小屋に逗留します。

2番目の写真は冬の雪に覆われたドッコ沼です。ドッコ沼の湖畔にスキー客用の小屋がありました。何度か数日泊まりました。
ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが冬には樹氷地帯になるのです。

3番目の写真は蔵王山の樹氷です。

4番目の写真は蔵王山の霧氷です。
毎年折に触れて遥かなる我が故郷の蔵王山を想います。冬の樹氷の姿を思い出します。夕日に映えた大平コースの樹氷を思い出します。
蔵王山は大きな火山です。火山ですのでその中腹や麓に幾つかの温泉も湧き出しています。遠刈田温泉、青根温泉、峩々温泉、高湯温泉です。

嗚呼、仙台を離れてから茫々60年以上になります。蔵王山は私にとって大切な故郷の山なのです。
故郷の山は一生私の心に中にあり我が人生を豊かにしてくれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「春の花々の写真をお楽しみ下さい」

2025年03月05日 | 写真
三鷹市の「花と緑の広場」で写真を撮りました。
 写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。
1番目の写真はショカツサイの花です。
2番目の写真はジャーマン・カモミールです。
3番目の写真はマーガレットです。
4番目の写真はパンジーの花輪です。
5番目の写真はパンジーの花壇です。

「菜の花畑を見ると春が来たと実感する」

2025年03月05日 | 写真
満開の菜の花畑を見ていると本当に春が来たと実感します。
そんな風景写真をお送り致します。しかし写真のような風景はあと3,4週間待っていないと見る事が出来ません。待ち遠しいです。
写真はインターネットの、https://www.gettyimages.co.jp/.../%E8%8F%9C%E3%81%AE%E8... からお借りしました。

「菜の花畑はフランスにもあります」

2025年03月05日 | 写真
菜の花畑は世界中にあります。フランスにもあります。
この欄の記事の読者の方の幾人かはフランスにお住まいです。
そこでフランスの菜の花畑の写真をお送り致します。
写真の出典はインターネットで「フランスの菜の花畑の写真」を検索して、多くの写真から美しい写真を選びお借りしました。


「東京の菜の花畑、そして菜の花の追憶」

2025年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

何故か私は春の菜の花が好きです。最近その理由を考えていたら2つの理由を思いつきました。

幼少の頃、庭の花壇に父が植えた菜の花に蝶が飛んでいました。春の暖い陽射しが蝶の白い羽根にあたり、キラキラしていました。そんな風景が心に焼き付いています。

短気で厳しかった父でしたが、草花へは根気が続き、庭には毎年、四季折々花が絶えませんでした。春になると一番先に菜の花と水仙が咲いていた庭を思い出します。戦争中でしたが、我が家の庭だけは平和でした。楽しい追憶です。

そしてそれからずうっと後になって、1974年にドイツを独り旅をしていた時の思い出です。薄暗い列車のコンパートメントの窓から、低い雲に覆われた野や林を見て居ました。

春先でまだ冬の様な光景が淋しく延々と広がっているのです。列車が憂鬱な林を抜けると、突然一面に菜の花畑が広がっていたのです。アッと息を呑んでしまいました。その花畑は明るい黄色で輝いています。中空に浮いているようにも見えます。

菜の花畑が暗い憂鬱な北国の冬を一気に吹き飛ばしているのです。感動しました。あの一面の菜の花畑の光景はこうしてキーボードを叩いている私の心に鮮烈に蘇っているのです。春の到来を告げる感動的な情景でした。当時のドイツでの仕事の苦しさと混じって何か悲しいような追憶です。

毎年、浜離宮の菜の花畑が咲きます。2011年にその写真を撮るために隅田川の川下りの船を浜離宮で降りました。下にその時撮った写真をお送り致します。これも菜の花にまつわる追憶です。094096092

今日は東京の春の菜の花畑の写真をご紹介致しました。、そして菜の花に
にまつわる思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「春の歳時記、リオのカーニバル」

2025年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の復活祭は2025年4月20日日曜日 です。その前の40日間は四旬節です。
リオのカーニバルは2025年2月28日金曜日 – 2025年3月8日土曜日です。
カーニバル、四旬節、復活祭などは欧米の春の歳時記です。これらの歳時記の説明をしたいと思います。
さてカーニバルは謝肉祭と訳します。肉食の快楽に感謝するお祭りなので謝肉祭なのです。それは肉食をしている欧米人にとっては重要な行事です。
伝統的に肉食をしなかった日本にはこんな祭りはありません。日本人には意味不明な祭りなのです。  
この謝肉祭が終わると「灰の水曜日」になり厳しい禁欲の四旬節が40日間が始まります。四旬節が終わると復活祭です。
順々に書くと、リオのカーニバル、灰の水曜日、四旬節、復活祭と季節が流れていきます。今年の復活祭は4月20日日曜日 です。
復活祭はキリストが蘇ったことを祝う祭りです。しかし特に日本人に分かり難いのが四旬節です。
四旬節は復活祭の前の厳しい禁欲の40日間なのです。食べ物だけでなく歌舞音曲全ての快楽を禁じるのが四旬節です。騒がしい音楽やお笑いがテレビやラジオから消えます。静かな番組になります。
カトリックでは「灰の水曜日」には特別なミサがあります。神父様が信者一人一人の額に灰で十字を描くのです。そして人間が土から生まれ灰になる儚い存在であると説教で教えるのです。それは禁欲の四旬節の準備なのです。
欧米の国々ではカーニバルや灰の水曜日や四旬節や復活祭は春先の季節のうつろいを示す歳時記のようなものなのです。
以前の南米のリオデジャネイロのカーニバルの写真をご覧下さい。
写真はインターネットからお借りしました。これらの写真が示すようにリオのカーニバルは大がかりで華やかなお祭りです。この世の楽しみを大規模に表現しています。そして人々がそのその快楽に酔いしれるのです。

北半球の西洋では春先ですが南半球は夏の終わりです。季節のうつろいを示す祝祭日です。
西洋の祝祭日のクリスマスやカーニバルや復活祭も日本の俳句の季語になっていることは面白いと思います。

今日はリオのカーニバル、灰の水曜日、四旬節、復活祭の意味を説明しました。そしてリオのカーニバルをご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「鎌倉文学館とゆかりの文士たち」

2025年03月04日 | ブログ
鎌倉に住んでいた妻の家のすぐ上に鎌倉文学館があります。
鎌倉に遊びに行ってよくこの文学館にも行きました。
その鎌倉文学館の写真を示します。
この文学館のには鎌倉文学館には鎌倉ゆかりの文士たちが作品とともに紹介してあります。
鎌倉の文士たちは文壇史に大きな足跡を残しました。
明治22年(1889年)の横須賀線開通により鎌倉は保養地としての名声も高めました。
「鎌倉文士」という言葉が使われだしたのは昭和に入ってからです。
明治から大正にかけての泉鏡花や島崎藤村、夏目漱石、芥川龍之介らが鎌倉に住んで執筆活動をしたのです。
里見と久米は互いに求心力を発揮し、後に移ってきた文士たちのまとめ役となりました。それを象徴するのが昭和8年に発足した「鎌倉ペンクラブ」です。久米らが中心となって結成されたクラブには、里見はじめ永井龍男、大佛次郎、川端康成、横山隆一、小林秀雄、島木健作ら42人の作家、文化人が名を連ねました。
このように鎌倉は近代の日本の文學で重要な町だったのです。



「鎌倉についての妻の思い出と数多くのお寺の写真」

2025年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉はいろいろな意味で確かに魅力ある町です。観光客が絶えません。
しかし私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。
家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。
家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。
家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。
通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。
1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあるので何度も行きました。戦前の校門と講堂が残っています。
昔住んでいた家の上の丘は「加賀様山」と呼び、毎日のように遊んでいました。現在、鎌倉文学館学館がありますが当時は加賀藩主だった侯爵前田氏の別荘でした。鎌倉文学館はその別荘の建物をそのまま使っています。何度か入りましたが川端康成、芥川龍之介、久米正雄ら鎌倉文士やゆかりの作家300人余の原稿や初版本が展示してあります。そして昔の別荘の華麗な内装や家具を眺めて楽しみました。
そして子供の頃の妻は自宅から路地を抜けて、江の電の線路を渡り由比ヶ浜によく行ったそうです。夏になると親類の若者や子供達が海水浴に来て、何日も泊っていきます。

2番目の写真は鎌倉の由比ヶ浜の風景です。
家内の父親は横須賀の海軍の経理学校で教えていました。自由な思想の持ち主で陸上競技や野球を楽しんでいました。
鎌倉は終戦まで大規模な空襲が無かったので、戦前の余裕のある楽しい生活が続けられたのです。
鎌倉に行く度に家内が元気はつらつになるので、何度も行くことになりました。そのうち私自身も第二の故郷のように思うようになります。
そんなわけで、ついでに鎌倉にあるお寺の写真をお送り致します。全て家内が撮った写真です。
3番目の写真は鎌倉仏教を代表する建長寺の山門です。
4番目の写真は円覚寺の方丈です。
5番目の写真は浄福寺の山門です。
6番目の写真は浄智寺の本堂です。
7番目の写真は浄明寺です。
8番目の写真は海蔵寺です。質素で小さなお寺です。侘びを感じさせるたたずまいです。この雰囲気が好きで何度も行ったお寺です。
9番目の写真は光明寺の山門です。この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいのです。

写真に示した建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の5つを鎌倉五山といいます。当時の政治権力者が新しい禅宗の寺院を格付けし管理をする制度で選ばれたお寺です。 

鎌倉のお寺めぐりの魅力は「質素な美の世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。

今日は鎌倉についての妻の思い出をご紹介いたしました。そして鎌倉にある数多くのお寺の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「光の春、湘南の海の輝きを懐かしむ」

2025年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム
朝晩の冷え込みは厳しいものの、昼間のキラキラ輝く太陽光からは、春の気配があります。 
この様子を表現する言葉として、ロシアでは2月から本格的な春にかけての時期を「光の春」と言うそうです。
日本では、立春を過ぎると徐々に太陽の高度が上がり、昼間の時間は長くなっていきます。
そんな季節になると私は鎌倉へ行って湘南の海の風景をあかずに眺めたものです。
自宅から車で行くと1時間くらいで湘南の海に出のです。運転免除を返上してから暫く行っていません。しかしよく早春の湘南の海の風景を思い出します。
写真は鎌倉の浜辺から見た風景です。
出典は下記です。
湘南の海と言えばこの近所に住んでいた旧友の村木良彦君を思い出します。長らくTBSのディレクターをしていましたが数年前に旅立ってしまいました。村木良彦君とは仙台の中学校以来の友人でした。
鎌倉はへは何度も遊びに行きました。懐かしい町です。

今日は光の春のことを書いて湘南の海にまつわる思い出を書きました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「珍しい黄色いモクレン」

2025年03月03日 | 写真
黄色いモクレンはアメリカで育種された最新品種です。
花は大きく、黄金色にピンク色の縞模様が入る珍しい花色です。
写真の出典は、https://item.rakuten.co.jp/fm-floral/10004383/ です。