後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「岡山の後楽園の梅の花の写真」

2025年01月28日 | 写真
岡山の後楽園の園内では2月上旬から3月上旬にかけ、紅梅白梅合わせて約100本の梅が楽しめます。「春の和のおもてなし」と題して和文化体験なども催されます。
詳しくは、https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/187/page をご覧ください。
 

「金沢の兼六園の梅の花の写真」

2025年01月28日 | 写真
金沢の兼六園の梅林を是非ご覧下さい。様々な梅の木が咲き誇るのは3月中旬からです。この梅林は、昭和44年に明治百年記念事業として約3000平方メートルの広大な場所に全国から約20種200本にも及ぶ名梅の苗木を兼六園観光協会が作りました。
詳しくは、https://kenrokuen.or.jp/seasons/march/ をご覧ください。



「春の風物詩、水戸の偕楽園の梅の満開の風景」

2025年01月28日 | 写真
春の風物詩の一つに水戸の偕楽園の梅の花があります。
私は何度も行った美しい梅の花が広い傾斜地に満開になるのです。梅林の下の千波湖も美しい湖です。
偕楽園では120年以上の歴史をもつ「水戸の梅まつり」が毎年行われます。
偕楽園は金沢の兼六園・岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられており、江戸時代天保13年(1842年)7月、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公により、領民の休養の場所として開園されました。
園内には約100品種3,000本もの梅が、春の訪れを告げるかのように可憐に咲き競います。 様々な品種があるため、「早咲き」「中咲き」「遅咲き」と長期間にわたり観梅を楽しむことができるのも魅力
写真の出典は、https://www.ibarakiguide.jp/seasons/umeiro/mito_ume.html です。
最後の写真は水戸駅に近い弘道館の梅です。

今日は春の風物詩として、水戸の梅の満開の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「水が静かに流れる風景を見ると平和な気分になる」

2025年01月27日 | 写真
私は水が静かに流れる風景が好きです。見ると平和な気分になるのです。
今日もそんな風景を眺めて来ました。
撮って来ました写真をお送り致します。


「早春の花々の写真を見ながら春到来を待つ」

2025年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
「季節の花」という楽しいHPを見つけました。
そのアドレスは、http://www.hana300.com/aasyasin03.html です。
このHPから早春の花々の写真を5枚お送りいたします。
一番目の写真から順々に、クロッカス、梅、ウチワノキ、ジンチョウゲ、カタクリの花々です。

花々の写真を見ているとこれらの花は縄文時代から山野に咲いていたのか調べてみようと思いました。縄文時代は無理ですが文字の使われ始めた奈良、平安時代からの日本に咲いていた花の一覧表がありました。
http://nihon-rekishi.com/hana/index.html から転載致します。
1、桜
農業開始の指標とされた。
2、躑躅・皐月
「万葉集」でも詠まれるなど、とても長い栽培の歴史を持つ。江戸時代に栽培が大流行し、多くの園芸品種が生まれました。
3、藤
日本最古の歴史書「古事記(712年)」にもその名が登場しているため、かなり古くから親しまれてたようです。
室町将軍・足利義詮や太閤・豊臣秀吉も観藤会を催したことが知られています。江戸時代までは藤から取った繊維を使った「藤衣」と呼ばれる仕事着が作られていました。日本で植物分類学が確立する前は、野田藤(ノダフジ)と呼ばれていました。
4、薔薇
その容姿から外来種と思われがちですが、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシなどの立派な日本固有種もあります。
「万葉集」のも名前が出てきています。
現代のように「花の女王」として親しまれるのは明治時代になってからでした。
5、睡蓮
ヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生。
6、花菖蒲
平安時代から栽培されており、特に江戸時代に江戸系、肥後系、伊勢系、長井古種など多くの園芸品種が生まれました。
7、紫陽花
「万葉集(759年)」などにも名前が出てくる事から、長らく親しまれてきたようです。
8、百合
国内には15種類の固有種が自生しており、「古事記」にも『神武天皇が百合の花を摘んでいる娘に惚れて嫁にした』という記述があります。
江戸時代に観賞用としても多くが栽培されるようになりました。
8、萩
「秋の七草」の一つで古くから親しまれてきました。「万葉集」で最もよく読まれる花です。
9、山茶花
「冬の華」として各地に伝播し、幾度か盛衰を繰り返しながら今日に受けつがれています。
http://www.flower-photo.info/products/detail.php…
10、椿
「古事記」にも名前が出てきます。赤く山茶花によく似た花を冬から春に咲かせます。
花弁が散らず、花が丸ごとボトッと落ち、その姿が人の生首を連想させる事から、見舞いの贈り物にはタブーとされます。
11、薄
かつては「尾花」と呼ばれ「万葉集」でもその名が詠まれています。茅葺屋根の材料や家畜の餌として古くから利用されてきました。
「秋の七草」の一つ。

さて、人々と花の関係についても以下のような説明がありました。
日本では古来よりお墓に花を供えたり、花を愛でる習慣がありました。
・・・中略・・・・・
「源氏物語」によると男女が愛の告白を行う際に花を贈るなどの習慣があるようですので、平安時代ごろに一般の人々も花と接するようになったと思われます。
生け花を追求した「華道」は室町時代に広まりました。・・・

そして人々は山や野に咲く花々を見て楽しんだに違いありません。
ところで写真にあるジンチョウゲ(沈丁花)は、常緑低木で、漢名は瑞香、別名輪丁花です。 原産地は中国南部で、日本では室町時代頃にはすでに栽培されていたと言われています。
そして団扇の木(ウチワノキ)は、朝鮮半島の中北部が原産です。わが国へは昭和時代のはじめに渡来しました。葉は卵形で、先端が尖り対生します。
3月から4月ごろ、葉の展開する前に白色または淡い紅色の「れんぎょう」に似た花を咲かせます。名前は、果のかたちが扁平な円形で、これを団扇に喩えたもの。別名で「しろれんぎょう(白連翹)」とも呼ばれます。

このように花々が日本へ移り住んだ歴史を調べると興味がつきません。花々は静かに日本へやって来ます。そして奥ゆかしく咲いています。想像しただけで楽しいですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「モクレンとコブシなどの写真」

2025年01月27日 | 写真
春になると近所の園芸農家の白モクレンと紅モクレンが咲きます。その写真を撮ってから足を伸ばし府中市の郷土の森博物館公園に行ってコブシとモモとユキヤナギの写真を撮って来ました。数年前のことでした。その写真をお送り致します。お楽しみ頂ければ幸いです。
1番目の写真は近所の園芸農家の白モクレンの梢です。
2番目の写真は白モクレンの全体の写真です。
3番目の写真は園芸農家の紅モクレンの写真です。
4番目の写真は府中市の郷土の森博物館公園のコブシの写真です。
5番目の写真はコブシの梢の写真です。
6番目の写真は郷土の森博物館公園の桃の花です。
7番目の写真は郷土の森博物館公園のユキヤナギの写真です。

「春の瀬戸内海のイカナゴの釘煮の思い出と文学作品」

2025年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
イカナゴ漁は早春の瀬戸内海の風物詩です。そのイカナゴの釘煮を数年前に何度かよく頂きました。春になるとイカナゴの釘煮を懐かしく思い出します。
旧友の鈴木 裕さんの母上が精魂込めて煮たものを何度か送って下さいました。
山椒入りのものとショウガ入りのものと2種類がハランの葉で分けてパックに丁寧に詰めてありました。漁の解禁早々のまだ幼魚の高級なイカナゴのクギ煮でした。懐かしく思い出します。
これを食べると、「ああ、今年も春が来た」という温かい気持ちになり、春の陽に輝く瀬戸内の海の風景が眼前に広がったものです。早春の季節の風物詩で
した。
瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴという小魚を大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化です。瀬戸内海地方の伝統的な輝かしい『地方文化』です。

今日は美味しいイカナゴのあれやこれやを書いてみたと思います。
イカナゴは日本各地の沿岸で漁獲される魚です。しかし瀬戸内海のイカナゴは特別に美味しいのです。生育中に食べている餌が違うのです。
毎年、瀬戸内海でのイカナゴの解禁日は年によって違いますが、大体2月下旬に解禁になります。
稚魚を瀬戸内沿岸部ではイカナゴ(玉筋魚)、関東ではコウナゴ(小女子)、大阪ではシンコまたはカナギと呼ばれています。
イカナゴは暑さに弱く、6月から晩秋過ぎまで砂に潜って夏眠する珍しい魚です。
関東ではコウナゴの佃煮と同じものが瀬戸内海沿岸ではイカナゴのクギ煮と呼ばれています。

イカナゴのクギ煮と同じものを東京ではコウナゴの佃煮と言います。味がどのように違うのか食べ比べてみると歴然と違いが分かります。
同じ魚ですが全く味が違うのです。
瀬戸内海沿岸の須磨のイカナゴのクギ煮はかすかにフォアグラのような肝臓の風味がするのです。そして骨を感じさせない柔らかい小魚の食感です。魚の肝臓ではアンコウの肝やカワハギの肝が美味ですが、それらと一脈通じる味がかすかにするのです。これこそイカナゴのクギ煮が絶賛される原因なのです。
東京で売っているコウナゴの佃煮とイカナゴの釘煮を食べ比べてみると明快に分かるのです。コウナゴは身が固すぎます。魚としての旨さは充分ありますが固すぎるのです。
この違いは餌の違いなのでしょう。
イカナゴの釘煮こそ瀬戸内海地方の『地方文化』なのです。

イカナゴの釘煮がローカル文化であることは、それにまつわる和歌や俳句や随筆をみるとよく分かります。
毎年、いかなごくぎ煮振興協会が主催してイカナゴの釘煮にまつわる和歌や俳句や随筆を募集しています。
そして優秀な作品へ『いかなごのくぎ煮文学賞』を与えているのです。(http://kugini.jp/contest/index_b2016.html )
第5回目を迎えた文学賞では、過去最多の1410作品が全国43都道府県から寄せられました。
その中から主な作品をご紹介いたします。
第五回 いかなごのくぎ煮文学賞 グランプリ作品

≪ 短歌 ≫
「春暁(しゅんぎょう)の 海に漁火 煌(きら)めきて 茅渟(ちぬ)の浦曲(うらわ)に ●子(いかなご)のくる」 ( ●は魚へんに白)    
                大濱義弘 さん  72歳 (神戸市垂水区)

三田 完 先生 講評
さながら万葉の一首のような風格を持つ作品です。「茅渟」は大阪府南部の古称で、黒鯛のことを「チヌ」と呼ぶのも、この地名にちなんだものととか。「浦曲」は入江のこと。こうした古語をすんなりと用いた技量に感服しました。

≪短歌≫  くぎ煮炊く 母との会話 味わって 顔知らぬ祖母へ 想いをはせる              川野沙綺 さん  高1 ( 神戸市垂水区)

三田 完 先生 講評
くぎ煮を炊く香りを鼻孔で味わいながら、作者はくぎ煮を炊くお母さんとの会話も耳で味わっています。会話の内容は、くぎ煮の炊き方を教えてくれたお祖母ちゃんのこと。この会話のおかげで、炊き上がったくぎ煮の味がふっくらと豊かになります。味がそれぞれの家庭で受け継がれていく-そのことについて書いた投稿は毎年たくさんあります。この短歌もそうした一篇なのですが、未知の祖母に寄せる孫の思いが、くぎ煮の味わいを数段引き立ててくれました。

≪ 俳句 ≫ 「 いかなごを ふくふく育てる 春の波 」     
              マコッチャン さん  58歳 (神戸市西区)
三田 完 先生 講評
「ふくふく育てる」が、瀬戸内の海の豊かさをみごとに伝えてくれます。春風駘蕩の海原を詠んだ句なのに、口の中にはくぎ煮の味が沸きあがる-まさしくくぎ煮文芸の神髄といえるでしょう。

≪ 俳句特選 ≫ 「 春を告ぐ ほのかに香る いかなごよ 」   
                  りい さん  高2 (神戸市長田区)
三田 完 先生 講評
温かいご飯の上にくぎ煮を載せたとき、ほのかに香りがたちのぼる。その淡い香りに春を実感する…。これこそ、まさに俳句-日々の暮しのなにげない一瞬に季節を感じ取ることです。

この他にイカナゴに関する随筆もありますが、長くなるので割愛いたします。
瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴを大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化ではないでしょうか?瀬戸内海地方の『地方文化』です。

イカナゴ漁の関連の写真をお送り致します。

今日は春の瀬戸内海のイカナゴの釘煮をご紹介致しました。そしてイカナゴの釘煮にまつわる文学作品もご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はイカナゴ漁をしている漁船の写真です。
2番目の写真は目の細かい網にイカナゴがビッシリ獲れて、それを船の上に引き上げようとしている光景です。
3番目の写真はとれたイカナゴです。イカナゴは人間の指の半分くらいしかない小さな魚です。
4番目の写真は大量にとれたイカナゴの写真です。
5番目の写真はイカナゴを丁寧に煮て作った釘煮の写真です。

「燃え立つように見える樹木」

2025年01月26日 | 写真
樹々が好きでいろいろ探しては眺めています。今日は燃え立つように見える樹木を、見つけました。その写真をお送り致します。

「畑の写真を撮りに行った」

2025年01月26日 | 写真
小金井の数少ない農地は貴重な風景です。今日はその貴重な風景の写真を撮りに行きました。
撮って来ました写真をお送り致します。

「茫々60年、あのアメリカ留学は一朝邯鄲の夢」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

1961年に私どもはオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たち、みんな消えてしまいました。

茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。しかし間もなくあの世で会えるのです。

われわれ人間の本当の家は天国なのです。わたしも其処へ帰る日がまもなくやって来ます。お世話になったアメリカ人たちへ感謝するために60年前の写真を掲載します。0044
1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。008_21
2番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・ヒルトン・ホテルで開いたレセプション風景です。右端が私の恩師のセント・ピエール教授でその左が物理を教えてくれたラドルフ・スパイサー教授です。セント・ピエール教授夫妻がホスト役をしてくれました。0076
3番目の写真はマックリーン牧師とフォンタナ教授です。
左端は結婚式を司式してくれたマックリーン牧師で、中央が金属工学科の主任のフォンタナ教授です。右端は一生お付き合いをした故ジョージ・オートンさんです。以下、詳細は省略しますが関連の写真を示します。

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1960年から1962年までのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。

セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためには同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。

激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友ののような感じでした。

その中でジム・バテル夫妻ととジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジムはまだ健在で、アラスカ州に釣りを楽しみながら悠々自適です。ジョージは数年前に亡くなりましいた。

恩師のセント・ピエール教授には生涯お世話になり、私が54歳の時、オハイオ州立大学の客員教授として2年間招んでくれました。その折りにゴードン・パウエル教授夫妻には家に招んでくれましたが他の先生方は皆他の大学に行ってしまっていました。同級生とも一別以来会っていません。皆ちりじりになってしまいました。

ジェリー・ワースだけがアメリカの鉄鋼会社から出張で日本に来たとき家に招んで一緒に高尾山へ登りました。

人生は夢のようにはかないものです。最近、高齢のせいかよくそんな感じがします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「戦後の焼野原と現在の全国にある花園の風景」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
これは戦後の焼野原をこの目で見た私の感慨です。現在の全国の花園の風景を見て隔世の感です。日本がこんなにも変わったことに驚いています。この驚きは若い人には理解出来ないかも知れませんが書いて置きたいと思います。
写真に従って説明いたします。
1番目の写真はB29の編隊が焼夷弾で東京を焼きつくしている光景です。
当時住んでいた仙台でも同じような光景を私は見ました。
1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。当時9歳であった私は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。
2番目の写真は空襲があった翌日の東京の風景です。
仙台の空襲の翌日、私は鹿落坂をくだって中心街の焼け跡を見に行きました。この写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇っていたのを鮮明に思い出します。
1番目の写真と2番目の写真の光景は全国にあったのです。全国の200以上の市町村がB29で焼け野原になったのです。
3番目の写真は兵庫県の「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
写真の出典は、https://www.hyogo-tourism.jp/review/101 です。
焼け野原になった日本には現在この写真のような広い花園が沢山あるのです。
終戦の頃は花園はありませんでした。皆無でした。現在花園になっている畑にはジャガイモやサツマイモやカボチャが植えられてきたのです。食糧難でお米のご飯が無くてジャガイモやサツマイモやカボチャで命をつないでいたのです。
4番目の写真も「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
場所は、舞鶴若狭道「福知山」ICまたは播但自動車道「和田山」ICのどちらからも40kmほど。たんとう花公園は、4月のチューリップと8月ひまわりの見ごろの時期だけオープンする公園です。
5番目の写真も「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
のどなか里山の一角に咲き競う300品種・100万本のチューリップ。赤、黄、ピンク、紫と濃淡を交えた鮮やかな色であたり一面を染め上げる様は、春の日差しの下で波打つ花の海を思わせ、まさに圧巻の光景です。
終戦の頃、こんな綺麗な花園が日本に出来るとは想像も出来ませんでした。
全く隔世の感です。日本が復興してこんなんにも豊かな国にになったのです。
人々の心も豊かになったのです。幸福感につつまれます。

それにつけてもウクライナの苦難に心が乱れます。ロシアの暴虐に衝撃を受けています。ウクライナの歴史に無い最大の悲劇です。ウクライナは何もしなかったのにロシアが突然一方的に武力侵攻したのです。
ウクライナのために祈らざる得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の東京のカトリック松原教会のミサ」

2025年01月26日 | 日記
今日はインターネットを通して東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました。

カトリック松原教会のミサの動画配信は下記にあります。
https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/
写真はカトリック松原教会のミサの風景です。

カトリック松原教会
東京都世田谷区松原2丁目28番5号
TEL. 03-3321-0941
FAX. 03-3321-0009



懐かしいイギリスのスポーツカー

2025年01月25日 | スポーツ
1960年にオハイオ州立大学に留学したのですが、そこで多くの学生たちがイギリスの華麗なスポーツカーを乗り回していたことに驚きました。
博士課程のアメリカ人の同級生のジョージ・オートンさんも下の写真のイギリス製のスポーツカーを持っていました。
彼は空軍大佐でにB29に乗って数十回も日本の街々の焼夷弾攻撃に来た人でした。
とても親切で、下の赤いイギリス製のスポーツカーに私を乗せて何度も彼の家に招待してくれました。彼とは終生の親友でしたが数年前に亡くなってしまいました。
このスポーカーは神経質な車で運転が難しそうでした。気難しい貴婦人のような雰囲気のある車でした。
先月の8月28日に河口湖自動車博物館に行きましたら、この懐かしい車が展示してありました。そしてオハイオで学生がよく乗っていた同年代のイギリスのスポーツカーも数種類展示してありました。
1960年代の大人のアメリカ人は豪華なアメリカ製の大型乗用車に乗っていましたが、学生たちは中古の1950年代の車か比較的安価なイギリスのスポーツカーの乗っていました。
私も1953年製のダッジ・コルネットという大きな中古のセダンに乗っていました。あれほど乗り心地の良い車には、その後乗る機会がありません。
下に昔、オハイオでよく見た懐かしいイギリスのスポーツカーの写真をお送りします。
8月28日に河口湖自動車博物館で撮った写真です。
ついでに1960年にオハイオで買った1953年型のダッジ・コルネットの写真を示しておきます。
そして1962年に帰国後、東京で買ったマツダ・クーペ360の写真も示します。

「思い出のナイアガラの滝の写真」

2025年01月25日 | 写真
ナイアガラの滝は若い頃にオハイオ州立大学に留学していた折りに見に行きました。オハイオから比較的に近いのです。
滝の写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。
 

「遥かなオハイオ、友人たちの思い出」

2025年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
個人的な思い出を書くのは恐縮ですが、今日は懐かしい遥かなオハイオの思い出を書きます。そしてオハイオの友人たちのことも懐かしく思い出しています。
1960年にオハイオの大学へ留学しました。24歳の時でした。茫々あれから63年です。
遥かなオハイオは時々思い出します。私のアメリカはオハイオ州コロンバスの思い出です。
感動したことは先生方と同級生がとても親切だったことです。
老人になった私は今更ながらアメリカ留学の影響の深さを感じています。私は無意識のうちに留学の体験が自分の判断を左右しているのです。
もう少し正確に書くと、フルブライト留学生として1960年から1962年までオハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。

1番目の写真はオハイイオ州立大学です。

2番目の写真もオハイオ州立大学の写真です。
キャンパスには広大な芝生の広場があり、それを囲むようにいろいろな学部の建物が並んでいます。

3番目の写真はオハイオ州立大学のフットボール競技場です。
オハイオ州立大学は屈指のアメリカン・フットボールの強豪校だったので立派なフットボール専用の競技場を持っていました。
私は 妻を日本から呼び寄せ、オハイオ州のコロンバスで結婚式を挙げたのです。1961年のことでした。
結婚式は大学付属の質素な教会でして披露宴はコロンバスの中心街のディッシュラー・ヒルトンホテルでしました。

4番目の写真は披露宴のレセプションラインです。
アメリカ人は敗戦国の日本人を尊敬していました。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったからです。
ですからオハイオ州立大学のアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
指導教授のセント・ピエール先生や学科主任のフォンタナ教授が「頑張っているね」「良い成果をあげた!」などと励ましてくれたのです。

老境に到ると悪いことは忘れます。良いことだけが記憶に残ります。これを一般には「老人ボケ」と言います。

私も正真正銘の「老人ボケ」です。今日の文章がその確たる証拠です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)