詳しくは、https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/187/page をご覧ください。
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1961年に私どもはオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たち、みんな消えてしまいました。
茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。しかし間もなくあの世で会えるのです。
われわれ人間の本当の家は天国なのです。わたしも其処へ帰る日がまもなくやって来ます。お世話になったアメリカ人たちへ感謝するために60年前の写真を掲載します。
1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。
2番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・ヒルトン・ホテルで開いたレセプション風景です。右端が私の恩師のセント・ピエール教授でその左が物理を教えてくれたラドルフ・スパイサー教授です。セント・ピエール教授夫妻がホスト役をしてくれました。
3番目の写真はマックリーン牧師とフォンタナ教授です。
左端は結婚式を司式してくれたマックリーン牧師で、中央が金属工学科の主任のフォンタナ教授です。右端は一生お付き合いをした故ジョージ・オートンさんです。以下、詳細は省略しますが関連の写真を示します。
1960年から1962年までのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。
セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためには同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。
激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友ののような感じでした。
その中でジム・バテル夫妻ととジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジムはまだ健在で、アラスカ州に釣りを楽しみながら悠々自適です。ジョージは数年前に亡くなりましいた。
恩師のセント・ピエール教授には生涯お世話になり、私が54歳の時、オハイオ州立大学の客員教授として2年間招んでくれました。その折りにゴードン・パウエル教授夫妻には家に招んでくれましたが他の先生方は皆他の大学に行ってしまっていました。同級生とも一別以来会っていません。皆ちりじりになってしまいました。
ジェリー・ワースだけがアメリカの鉄鋼会社から出張で日本に来たとき家に招んで一緒に高尾山へ登りました。
人生は夢のようにはかないものです。最近、高齢のせいかよくそんな感じがします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
滝の写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。
1960年にオハイオの大学へ留学しました。24歳の時でした。茫々あれから63年です。
遥かなオハイオは時々思い出します。私のアメリカはオハイオ州コロンバスの思い出です。
感動したことは先生方と同級生がとても親切だったことです。
老人になった私は今更ながらアメリカ留学の影響の深さを感じています。私は無意識のうちに留学の体験が自分の判断を左右しているのです。
もう少し正確に書くと、フルブライト留学生として1960年から1962年までオハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
1番目の写真はオハイイオ州立大学です。
2番目の写真もオハイオ州立大学の写真です。
キャンパスには広大な芝生の広場があり、それを囲むようにいろいろな学部の建物が並んでいます。
3番目の写真はオハイオ州立大学のフットボール競技場です。
オハイオ州立大学は屈指のアメリカン・フットボールの強豪校だったので立派なフットボール専用の競技場を持っていました。
結婚式は大学付属の質素な教会でして披露宴はコロンバスの中心街のディッシュラー・ヒルトンホテルでしました。
アメリカ人は敗戦国の日本人を尊敬していました。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったからです。
ですからオハイオ州立大学のアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
指導教授のセント・ピエール先生や学科主任のフォンタナ教授が「頑張っているね」「良い成果をあげた!」などと励ましてくれたのです。
老境に到ると悪いことは忘れます。良いことだけが記憶に残ります。これを一般には「老人ボケ」と言います。
私も正真正銘の「老人ボケ」です。今日の文章がその確たる証拠です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)