後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「人と馬との絆を楽しむ八王子乗馬倶楽部の写真」

2025年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
乗馬クラブのことを書きたいと思います。
乗馬クラブは北海道から沖縄県まで数多くあります。乗馬クラブの良いことは会費さえ納めれば、老若男女、誰でも馬に気軽に乗れることです。その上、多くの乗馬クラブでは乗馬する人に馬の世話をさせます。すると人と馬の絆が深まり乗馬する人の意思のままに馬が言うことを聞くようになるのです。こうして乗馬クラブでは単に乗るだけでなく、人と馬との温かい絆を楽しむことが出来るのです。
以前に八王子乗馬倶楽部に行って写真を撮って来ました。撮った写真をお送りいたします。
1番目の写真は乗馬初心者の若い女子の写真です。姿勢が悪く、数分見ていると鞍にしがみ付くような行動をしていました。
2番目の写真はかなり上達した女子の写真です。姿勢が良く馬を好きなように走らせています。自分の膝を折り上下の揺れに対してクッションをきかせています。
3番目の写真は初心者の男性の写真です。体が棒状になっています。これでは馬が気持ちよく走れません。
4番目の写真は裏の馬小屋の風景です。大型の乗馬用の馬が出払っていてポニーだけが退屈そうにしています。
5番目の写真はポニー専用の馬場で走り回る調教後に休んでいたポニーです。
写真を撮りに行った家内に甘えようと近づいてきます。それを女性の調教師がポニーを押し止めている場面です。家内と調教師が何やら親しげに話し合っていました。ポニーはもう20歳ですがとても元気で子供が大好きということです。

さて八王子乗馬倶楽部は東京都八王子市丹木野町1-501にあります。馬が約70頭いるそうです。この乗馬クラブの正会員になるには、入会金35万円と毎月の会費1万円かかります。その上更に乗馬する度に5000円かかります。少し高額に思いますがゴルフ場の会員金やヨットをマリーナに係留する場合の年間係留料金に比べると格安とも思えます。
さらに低額なプランもあります。平日だけ6ケ月だけ乗馬する場合は、入会金6万円と毎月の会費1万円と乗馬する度に5000円だけ払えば良いのです。
詳細は次のホームページ、http://www.hachioji-rc.co.jp にあります。
さて全国にある数多くの乗馬クラブの入会金、毎月の会費、騎乗料金は八王子乗馬倶楽部とほぼ同じです。ただ東京の明治神宮のそばにある東京乗馬倶楽部だけは格段に高いようです。

最後に全国の乗馬クラブの一覧の出ている資料をご紹介しておきます。
それは、https://www.jouba.jrao.ne.jp/wp/club/ で全国の都道府県別に詳しい情報が掲載してあります。例えば北海道には20以上の乗馬クラブがあり、南の果ての沖縄県には2つしか無いことが分ります。
ご自分のお住まいになっている都道府県の乗馬クラブを調べると面白いと存じます。暇と興味があれば見学に行くもの楽しいと存じます。
今日は八王子乗馬倶楽部のご紹介をし、あわせて全国の乗馬クラブのご案内を致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「妻からの色々な影響、そして馬も好きになった」

2025年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
結婚して非常に驚いたことは妻からの色々な影響を受けることです。皆様も程度の差があっても同様と思います。特に理系だった私は妻から文学や芸術の楽しみ方を教わりました。
印象派の油彩画の素晴らしさが分るようになりました。茶道、華道の面白さが分るようになりました。日本文学や西洋文学も少し理解出来ます。そして吃驚したのは他所の家の犬や猫が寄ってきて体を家内に摺り寄せることです。
家内に驚いたことは沢山ありますが今日は一つの例だけをご紹介したいと思います。
それは妻は馬を見ると駆け寄り、猫や犬のように撫でまわし可愛いがるのです。私は馬が怖くて傍に寄れません。馬に噛みつかれそうで恐怖で足が止まるのです。
1番目の写真は以前に北海道で妻が大型の欧米系の道産馬に駆け寄り撫でまわし可愛いがっている場面です。馬も嬉しいのか妻にすり寄って首を上下に振るのです。
私には出来ない芸当です。あっけにとられてしまいました。
次第に私も馬が好きになりました。そうして北海道の土産馬、木曽駒、九州の都井岬の野生馬を見に行く旅をしました。
今日はいろいろな馬の写真をお送りしたいと思います。
2番目の写真は馬の親子がのどかに草を食んでいる風景です。この親子の馬の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/hiroshiz_2010/3603332.html です。
この写真を見ると親子の馬が走り回れるかなり広い土地があり、その柵の向こうは牧草が生えている斜面になっています。そして牧場を管理する人が寝泊まりす小屋も見えます。このような広い土地にいる馬は幸せです。
3番目の写真は木曽駒です。背景の山は木曽の御嶽です。こんな風景を見に何度も開田高原に行きました。妻は馬小屋に入って行って馬を可愛がります。
写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/nihonzairaiba08/1030166.html です。
木曽馬とは長野県木曽地域(木曽郡)を中心に飼育されている日本在来種の馬です。岐阜県飛騨地方でも飼育されています。
日本在来種は他に北海道和種(俗称:道産子)、野間馬(愛媛県今治市野間)、対州馬(長崎県対馬市)、御崎馬(宮崎県都井岬)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古諸島)、与那国馬(沖縄県八重山諸島)があります。いろいろありあすが本州の在来種は木曽馬のみです。
一時絶滅寸前でしたが木曽馬保存会の活動のおかげで、木曽馬は増加しました。しかし以前のような乗馬、農耕を目的とした需要ではなく、種の保存と観光用として現在は200頭以下が飼育されています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E9%A6%AC )
さて九州には野生化した馬もいます。
4番目の写は都井岬の野生馬の写真です。宮崎県の都井岬に現在でも野生の馬が多数生息しています。この都井岬の野生馬は国の天然記念物に指定されています。
この野生馬は約300年前秋月藩主が放牧したのが始まりと明確に分かっています。
5番目の写真も都井岬の野生馬の写真です。出典は、http://www.kanko-miyazaki.jp/data/ja/smartphone-index?page-id=9265 です。
野生馬は日本の律令国家の時代に飼育され朝廷に献上された蒙古系の馬に近いと考えられています。木曽馬のような馬と言われています。
さて木曽馬は平安時代から江戸時代にかけて、武士の馬として使用されきたのです。
起源ははっきりしていませんが、元々は蒙古の大陸系の馬です。一説では紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀に、朝鮮半島経由で渡来したと言われています。この馬が木曽地域という山岳地帯で保存、飼育されたのです。
さて世界で唯一の野生馬、「モンゴルの野生の馬」の写真を示します。
6番目の写真は世界で唯一の野生馬、「蒙古野馬」、モウコノウマの群れです。(http://cgi2.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/detail.cgi?sp=p348 より。)モウコノウマは、体高140センチ。ポニーほどの大きさで、足は短くずんぐりした体型です。モウコノウマは1頭のオスと複数のメス、そしてその子どもからなる家族単位の群れで暮らします。オスは、家族のリーダーとして移動のときは常に最後尾を歩き、オオカミなどの外敵を警戒、家族を守ります。
7番目の写真は野生馬、「蒙古野馬」、モウコノウマの親子です。(http://cgi2.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/detail.cgi?sp=p348 より。)
モウコノウマは現在、モンゴルと中国にわずか数百頭しか生息していないため、絶滅危惧種に指定されています。気性が荒く人に慣れないので、家畜化は不可能だといいます。

今日は日本の在来種の馬と野生化した馬をご紹介いたしました。そして日本の馬の祖先の蒙古の野生馬もご紹介しました。

妻の影響で馬の姿を眺めるのが趣味になりました。私は馬を見るのが好きです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「趣味は人間の視野を広げ幸せにする」

2025年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事は、「南アルプス連山、甲斐駒岳、そして私の趣味の小川」でした。その中で、山林の中の小屋に通う趣味をご紹介しました。
ところで私は他にもう一つの趣味を持っていました。ヨットの趣味です。山林の中の小屋に通う趣味とヨットの趣味は私の生涯の二つの重要な趣味でした。
今日は私のヨットの趣味をご紹介したいと思います。
私は50歳の時に趣味として霞ヶ浦でヨットを始めました。写真をご紹介いたします。
1番目の写真は霞ヶ浦に浮かべた「あけび号」の姿です。
50歳の頃琵琶湖から霞ヶ浦へ陸送して来た中古のYAMAHA19です。10年間乗りました。長い舵とヤマハ5馬力の船外機がついていました。

2番目の写真はYAMAHA19を陸揚げした姿です。
ヨットの構造で一番重要なのは船底から下へ伸びているキールです。厚い鉄製で船体の重さの40%位もあります。これで船は疾走中に横倒しになるのを防いでいます。
3番目の写真は60歳の頃買った長さ26フィートのルナ3世です。
長さのわりに大きなキャビンがついていて炊事用の2口コンロ、調理台、流しがついていました。霞ヶ浦であるお医者から中古を買いました。このヨットには75歳まで乗りました。
4番目の写真はルナ3世のキャビンの中のガスコンロと流しとテーブルです。電動水洗トイレもついていました。
料理をしてよく小さなパーティをしました。小さな寝室もついていたので家内と何度も泊まったものです。
5番目の写真は霞ヶ浦の土浦港の係留地の風景です。
私のヨットは右から2番目の黄色の横線の入った船です。この写真は2020年8月2日 に撮った写真です。9年前に別れた愛艇のルナ3世に再び会ったのです。昔と寸分変わらぬ姿でした。右隣のモーターボートも左のヨットも9年前と同じです。9年という時が止まっていたのです。
ヨットの趣味は約25年続け13年前の75歳で止めました。
このヨットの趣味を25年間続けたおかげで私のものの見方が変わったのです。
それまでは金持ちそうに見える人を差別し付き合わないことにしていました。
ところがこれが大変な間違いでした。ヨットの趣味のお陰で人を見かけで差別するという私の悪い癖が完全に消えてしまったのです。
趣味は人間の視野を広げ幸せにしたのです。
まずヨットの趣味とはどのようなものかもう2枚の写真で示します。
6番目の写真は千葉県の保田魚港に係留してあったハンスクリスチャン41型のヨットです。2009年4月に初めて艇長のHootaさんとを一緒にビールを飲んだ時の写真です。Hootaさんは「Hoota's Yacht Life」、https://hoota.blog.so-net.ne.jp/ というHPを書いていました。
そして私も駿河湾のセイリングを楽しむことが出来ました。
7番目の写真は駿河湾の風を受けて疾走するハンスクリスチャン41です。
このハンスクリスチャン41の他にももう一つのヨットにも乗りました。ババリア39型のヨットでした。この船のオーナーのOkumaさんに乗せて貰ったのです。2009年の5月のことでした。
Okumaさんのヨットで三浦半島の突端の三崎港から東京の浜離宮わきの係留地までセイリングしました。

私のヨットの趣味は葉山や江の島で小型ヨットのディンギイで2年、霞が浦でYAMAHA-19での10年、Joyluck-26での13年間、合計25年間の趣味でした。

このヨットの趣味で私の視野が広がったのです。
ヨットをしている人との出会いに感謝しています。親切な人に沢山出会いました。
そのお陰で私の視野がすっかり広がり人間を見かけによって差別しないようになったのです。
他人を差別しなければ皆と仲良くなれます。それが幸せと感じるようになりました。趣味のお陰です。

今日は私のヨットの趣味をご紹介しました。昨日書いた「山林の中の小屋に通う趣味」と「ヨットの趣味」は私の生涯の二つの重要な趣味でした。この二つの趣味のおかげで幸せな生涯を送ることが出来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「山小屋のそばにある小さな清春白樺美術館」

2025年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
私の山小屋のそばに小さな美術館があります。それは本当に小さな美術館です。南には白い花崗岩が輝く甲斐駒岳が美しく見え、北には八ヶ岳連峰が見える高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると急にパリの芸術的な香りが漂ってくるのです。
エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリの雰囲気をかもしだしているのです。そしてエッフェル塔の階段が庭に展示してあります。その奥にはジョルジュ・ルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してある美術館があるのです。谷口吉生設計の小さいけれども美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。
白樺林の中にはルオー礼拝堂もあります。ステンドグラスは彼が作りました。十字架像は17世紀のものをルオーが彩色しました。
敷地の奥にはパリでルノアールに師事していた梅原龍三郎のアトリエが移築され展示されています。

この一画を清春白樺芸術村と言います。銀座の画廊の主の吉井長三が1983年に作りました。
ここは私の山小屋に近いので何十回も訪れた場所です。写真を示します。
1番目の写真は清春白樺美術館の門です。古めかしい鉄門がヨーロッパの雰囲気を出しています。この門を入るとパリの集合アトリエのラ・ルーシュがあります。
2番目の写真は敷地内にある白樺林の風景です。
3番目の写真は白樺林に隠れた静かな美術館です。ルオーの油彩画多数と、梅原龍三郎、岸田劉生、有島生馬、髙村光太郎、高村智恵子などの白樺派の作品が展示してあります。
4番目の写真は多数展示してあるルオーの作品の一例です。
5番目の写真は入り口にある案内板です。この美術展はよく企画展を開催しています。その予定表は美術館のホームページに出ています。
6番目の写真は清春芸術村にあるレストランです。ここでコーヒーをゆっくり楽しみました。後ろの丸い建物が集合アトリエのラ・ルーシュです。コーヒーを運んできた女性がヨーロッパの人でした。
7番目の写真は美術館の近所のトウキビ畑の風景です。近所は八ヶ岳高原へ続く高台になっていて畑や林の風景がヨーロッパに似ているのです。
そんな風景がお好きな方々へお薦めしたい場所です。
地図は、http://www.kiyoharu-art.com/ に出ていますので、晴天の日に是非お出掛けになっては如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「南アルプス連山、甲斐駒岳、そして私の趣味の小川」

2025年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
甲府盆地の西の端に私の山小屋があります。甲州街道の笹子トンネルの向うの甲府盆地は私が足繁く通った懐かしいところです。昨年運転免許免許を返上してからは行っていません。遥かに想うだけです。
今日は懐かしい南アルプス連山、甲斐駒岳、そして私の趣味の小川の写真をお送りし思い出を少し書きたいと思います。
まず南アルプス連山、甲斐駒岳、そして私の趣味の小川の写真をお送りします。
1番目の写真は南アルプス連山の写真です。
2番目の写真は甲斐駒岳です。
3番目の写真は私の小屋の庭を流れる小川と家内の写真です。
家内が熊手を持って熱心に小川の掃除をしている様子です。
この小川は私のものでなく下流で水田を作っている人々の大切な水源です。汚さないように、そして落ち葉を取り除いて何時も綺麗な水が流れるようにしています。
4番目の写真は私の小屋の庭に咲いている草花です。
小川が綺麗になったところで外のテーブルの上の卓上コンロでお茶を沸かし、オニギリの昼食を食べます。
この山小屋の趣味は、始めてから50年以上になります。私の趣味の中で一番長続きしたものです。そして私の人生においても非常に重要な役割をしてくれました。
小屋の西には甲斐駒がせまり、北の方には八ヶ岳が見えます。東の丘に登れば白樺林があり、その下には広い牧草地が広がっています。
森の奥深くにあるので、悪路を根気よく車で登って行きます。
空気が新鮮です。イノシシや鹿が棲んでいます。猿や兎も時々見えます。
街燈などはありませんから夜は真っ暗闇です。満月前後には木々の梢の間から明るい月が見えます。丘に登れば満天の星です。
春にはウグイスの美しい声が響き、夏の朝夕には淋しげなヒグラシゼミの声が聞こえてきます。
この趣味は1973年に始めました。趣味の小屋の写真をもう少しで示します。
5番目の写真は小屋を東から見た後姿です。右側が6畳間の寝室で左側が4畳半ほどの台所兼食堂です。
ガラス窓が南面についています。左側に、ポツンとスチール製の物置があります。スコップやクワなどの道具類が入っています。薪も入っています。
6番目の写真は焚火です。
夕方になると炉に火を焚いて、冷えたビールを飲みます。肴は持ってきたソーセージや肉を焚火で焼いて食べます。
7番目の写真は朝の窓から見える風景です。
木々の新緑をしばらく見てから卓上コンロで湯を沸かしコーヒーを淹れ、トースターでパンを焼き、それだけの質素な朝食にします。
隣の別荘は勝沼のブドウ栽培家の中村さんのものでした。バケツ一杯のブドウを発酵させて葡萄酒を作る方法を教えてくれたことを思い出します。

この山林の小屋には電気も水道もガスも一切ありませんでした。始めの頃はホンダの300W発電機で電燈をつけていました。その後、電気だけは引きました。
いろいろなことがありました。昔、一緒に遊んだ人々が一人、一人、と旅立っていきます。少しだけ淋しくなります。
つまらない趣味です。しかしこの趣味が私の人生においても非常に重要な役割をしてくれたのです。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「ポール・セザンヌの油彩画」

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ポール・セザンヌ(1839年- 1906)は、フランスの画家で当初はクロード・モネやルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求します。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く20世紀の美術に多大な影響を与えました。しばしば「近代絵画の父」と言れています。

さて私はセザンヌの絵を200枚位幾つかの部屋の壁一面に飾ってある館を訪ねたことがあります。それはニューヨークから列車で1時間くらい行った田園地帯にあった昔の金持ちの館でした。セザンヌ美術館として公開していました。
その壁一面の絵画を見ると明らかに未完成の絵が半分以上あったのです。それどころか描きかけの絵さえ数十枚あったのです。
それには吃驚しました。その館の主がセザンヌの絵なら何でも良いと買い集めたに違いありません。それだけ強くセザンヌを愛していたのです。
同時に芸術家は実に気まぐれで途中でその絵を描くのを止めてしまう人もいると知ったのです。
そんな未完成の絵画を画商が持ち出して売ってしまうのです。

それ以来、私はどんな有名な画家の絵でもその絵としての完成度を注意深く見るようになりました。
日本の有名な画家でも未完成の絵が市場に沢山出回っている人がいます。誰とは申しません。

それはさておきセザンヌの完成された絵には感動されます。
青い色を巧みに使った風景画も大好きです。リンゴの紅色も深い色合いを出しています。
人物画の人間がまるで生きているように描いてあります。
特に好きな作品はリンゴや瓶や籠をあしらった静物画です。
そこで今日はセザンヌの完成尾の良い油彩画を5点お送りします。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・セザンヌ、です。

1番目の写真は『オーヴェルの首吊りの家』1872-73年、55 × 66 cm。オルセー美術館蔵です。
2番目の写真は『アヌシー湖』1896年。コートールド・ギャラリー蔵です。
3番目の写真は『カード遊びをする人々』1890-92年、65 × 81 cm。メトロポリタン美術館蔵です。
4番目の写真は『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年作です。
5番目の写真は『リンゴの籠のある静物』1890-94年。シカゴ美術館蔵です。
 
 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「独創性に感動するゴッホの油彩画、7点」

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホの油彩画は何度眺めても感動します。その独創性に感動するのです。
そこでゴッホの油彩画、7点をご紹介したいと思います。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh/1853-1890)は、オランダに生まれ、主にフランスで活動した後期印象派の代表的画家です。37歳で夭折した天才でした。
ゴッホが画家を志したのは、27歳になった1880年のことです。ブリュッセルでデッサンの勉強を始め、1881年、28歳の時にに実家の自宅に画室を作ったのです。それまでは職を転々としていたのでした。
ですからゴッホの画家としての活動はたった約10年間と短いものでした。その10年間で描いた油彩は900点であると言われています。
しかし生前に売れた絵はたった1枚、『赤い葡萄畑』だけでした。
現在でこそ極めて高い評価を得ていますが、不遇の生涯を送り、弟テオドールの援助でなんとか生活していたのでした。そして現在有名な傑作は晩年の2年半に集中しているのです。
今日はフィンセント・ファン・ゴッホの油彩画を7点お送り致します。
1番目の写真は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。
この油彩画はかれの初期の作品で、1885に描かれました。それはキリスト者として貧しい生活の人々に寄り添った絵画でした。
しかしこの画風は続きませんでした。1886年に、ゴッホはパリの弟テオのところに同居します。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどの作品を目の当たりにしたのです。
華やかな印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に活き活きした色彩へと変貌したのです。
1番目の暗い画風から2番目以降の作品の印象派らしい明るい作風へ大きく変化したのです。
2番目の写真は1888年の「ひまわり15本」です。ゴッホ自身はひまわりが大好きでした。作成したひまわりの絵の膨大な量と、彼が兄や友人に書いた手紙の説明の両方からわかりますます。
 ニューヨークでは、 クレラーミュラー美術館 、オッテルローでは、 ゴッホ美術館(Van Gogh Museum)、 アムステルダムのベルン美術館、ロンドンのナショナルギャラリー 、 フィラデルフィア美術館、東京のSOMPO日本美術館、ミュンヘンのノイエピナコテークなどに展示してあります。 
3番目の写真は1890年の「麦畑」です。
 ゴッホは、種まき、収穫、麦束など、農民と自然のサイクルの密接な関連に特に関心を持っています。 耕すこと、種をまくこと、収穫することは人間の努力の象徴と考えたそうです。
4番目の写真は1888年の「ローヌ河の星月夜」です。この絵は、1888年にゴッホの油彩画です。ゴッホがアルル滞在時に、夜のローヌ川の堤防の一角の風景を描いたものです。 
5番目の写真は1888年の「黄色い家」です。 この家は、1888年5月1日にゴッホが借りたフランスのアルルにあるラマルティーヌ広場2丁目の右角にあった4フロアの家屋のことです。 
6番目の写真は1888年の「アルルの跳ね橋」です。小さな馬車が通っている跳橋です。青い川と、草がオレンジ色の土手に多様な色彩服や帽子の洗濯女がかたまって描きこんでいます。
7番目の写真は1888年の「ファン・ゴッホの寝室」です。
この作品は、1888年にゴッホによって制作された油彩画です。ゴッホ自身が付けたタイトルは「寝室」でした。 
「黄色い家」として知られる、フランス、ブーシュ・デュ・ローヌ県アルルのラマルティーヌ広場2番地のゴッホの寝室を描いたものです。

ゴッホの絵画について解説は不要です。見れば何故か心が揺さぶられるのです。
最後に一つだけ私の体験的な感動を書かせて下さい。
それは中年の頃、アメリカの中西部のある町で研究の仕事をしていた時のことです。そこの市立美術館にゴッホの絵が2枚だけあったのです。
仕事に行きづまり、落ち込んでだことが何度かありました。そのたびにゴッホの絵を見に行ったのです。感動しました。胸が熱くなります。勇気が湧いてきます。また研究に対する情熱が燃えたのです。
ゴッホの傑作は何点も以前にフランスの美術館で見ていました。アメリカのその町の市立美術館の2点は決して良い出来ではありませんでした。しかしその筆使いと部分的な色彩が、以前に見た感動的な作品を瞬時に眼前に再現してくれたのです。
絵画から勇気を貰い研究に対する情熱を貰った経験は生涯一度だけでした。
マネーもモネーもルノアールも美しい絵を残しました。シスレーもセザンヌの絵画も感動的です。
しかしゴッホの絵から受けた魂を揺さぶるような影響はありません。ゴッホの絵は私の体を振り動かしたのです。
そして生きていることへの歓喜を与えてくれます。ふたたび仕事へ対する情熱に火をつけてくれたのです。
現在89歳になった私は仕事を止めて久しいのです。もう仕事のことはすっかり忘れました。しかしゴッホの絵から貰った歓喜と情熱を今でも憶えています。

今朝、彼の絵を沢山みながら自分の好きな7点の絵を見て、その説明をゆっくり読みました。それは実に楽しい時間でした。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の藝術に何故独創性が無いか?フランスとイギリスと比較して」

2025年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「何故日本の藝術に独創性が無いのか?」という問題を考えてみます。その原因はいろいろですが、今日は特に小学校の教育が日本人の独創性を殺してしまうということを具体的に書いてみたいと思います。記述を分かり易く個条書きにしますのでお気軽にお読み下さい。

(1)運動会のような集団行動が子供の独創性を弱くする
まず小学校では国語、算数、理科、歴史、地理以外の科目は教えない方が良いという提案です。
そして学芸会や修学旅行や運動会などといった集団で行う学校行事は一切止めるべきだという問題提起なのです。
日本の学校は協調主義を強要するあまり発達障害を持つ子供の人権を踏みにじっている恐れがあるのです。発達障害を持つ子供だけではありません。いろいろな意味でのマイノリティの人権が軽視されているのです。学校が地獄になっているのです。

以下にある母親から頂いたフランスの小学校の実態を示します。

1、小学校では、遠足や運動会、学芸会と言った集団で行う学校行事はなく、親の参観日も無いのが普通のようです。

2、そもそも、体育とか、音楽、図工、家庭科と言った授業は無いのです。第一そのための設備もありません。
スポーツ、芸術などは、フランスでは各家庭で楽しむことで、学校の集団教育の中で教えることではないらしいのです。

3、水曜日には各地区の学校とは別の施設で、“スポーツやレジャー”という自由な活動があり、スポーツや絵画、焼き物、工作、手芸などの図工から好きなものを選んで、学校の外の指導者もついて、楽しんだり、技術を磨いたりする。参加は全く自由だが、学校ではできない体育、図工の経験がここで補っている。

以上のようにフランスの公的な小学校では余計な学校行事はしないが普通です。日本のように全体主義的な雰囲気がありません。個人の人権を大切にしているようです。

(2)日本の小学校では人権意識が低い教育をしている
日本人には人権意識があまり無いように私は感じています。戦後、マッカーサーのくれた憲法には「基本的人権の尊重」が格調高く謳われていいましたが、日本人は重要視しませんでした。現在でも人権が軽ろんじられています。

その原因の一つに日本の学校教育があると考えられます。
学校では協調性のない子供は差別され冷遇されます。特に発達障害の子供は差別されます。いじめの対象にもなりがちです。
このような教育で成人した人は、他人の苦しみや悲しみが分らない人になります。職場でも、いじめや差別をする人になってしまいます。

イギリスの小学校で子供さんを育てたMionFさんという女性の方から頂いたコメントをご紹介します。
・・・学校と言うのは不思議な場所です。不登校や引きこもりをする子はもちろん少数ですから、そんな子達こそ異常だ、何か問題がある、と言う見方もありますが、そもそも毎日ハッピーに問題なく学校に通う子供の方がおかしいんじゃない?と言う考え方もできませんか? 
発達障害があってもなくても学校と言う集団生活にうまくはまれない子達の方が、感情面では成長が早くて大人だったりすることもあります。知能指数(IQ)が高い場合もありますよね。
そんな事実があるにもかかわらず、日本の学校の集団教育にはまらない子ども達は恐ろしく不幸で混迷した学校生活を送ることになります。・・・

(3)発達障碍者の人権軽視の風潮
日本の学校は集団行動の重要性を教えます。それが出来ない生徒を先生は叱ります。先生は自分の言うことに従わない生徒を憎みます。それを見た同級生がその生徒を虐めます。
当然、その生徒の個人的な人権は蹂躙されます。これが現在、日本の学校の虐めや不登校の原因の一つになっています。
ところが発達障害の生徒は先生の言うことに従いたいのですが体が動かないのです。同級生と集団行動をしたいのですが体は別の動きをします。先生は感情的になるばかりで発達障害の生徒の苦しみにまったく無理解なのです。同情の片鱗もありません。
欧米の学校で飛び級をした日本人の生徒が帰国すると、日本では虐めの対象になり潰れされてしまいます。

(4)個性を消し独創性を抹殺す教育とは?
日本人は先天的に独創性が無いのでしょうか?
結論を先に書けば、日本人にも本来は独創性があったが明治維新以後の富国強兵を目的にした集団行動重視の教育が独創性を抹殺したというのが私の主張なのです。そして西洋の科学技術を導入して軍事技術を強化していった社会体制が個人の独創性を必要としなかったのです。
学校教育では先生が協調の重要性を教え生徒の集団行動を訓練します。
勿論、協調性は人間の社会生活を円滑にする大変重要なものです。ですからこそ入社面接では協調性を厳しく評価されるのです。
しかし小学校からあまりにも協調性を押し付ける教育をすると生徒は自分でものを考えないようになります。先生の言う事に従ってさえいれば先生が喜びます。会社に入社しても上司の言うことをよく聞き、同僚と協調する人は出世が早いのです。
しかしこれでは個人の独創性は邪魔になります。こんな教育や社会なので日本人の独創性は育たないのです。

この様子を分かり易く書いた小文を以下に示します。イギリスに長年住んでいる石山 望さんが2017年02月18日にコメントとして送って下さったものです。
・・・基本的に、日本人は、「自分の考え」を持つように教育されていないと思います。
学校でも(高校までならば)、先生の言われることを、金科玉条みたいに信じて、生徒は、質問すらしません。少なくとも私の行った公立学校ではそうでした。
為政者には、こういう国民、実に御し易い。
尤も、あくまで一般論ですが、こういう日本人のあり方にも、勿論、いいところはあります。
極端に、「とんでもない」人が出てこないということです。
私が住む英国では、大抵の子供が、まるで小さな大人みたいに、はっきりと自分の意見を述べる代りに、中には「とんでもない」のがいます。・・・

このようなイギリスの教育は日本に導入されにくいものです。
何故ならイギリスの教育はその社会と密接に関係しているからです。それは日本と同様です。

今日は「日本の藝術や学問に何故独創性が無いか?」という問題にかんして私の考えの一端を書きました。今日は学校における集団教育や協調性の過度な教育が原因ではないかという主張です。

今日の挿絵代わりの写真は岡山県の奈義の菜の花畑です。
詳しくは、、https://www.jalan.net/kankou/spt_33623cb3512096741/ をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリックとプロテスタントの違い、マリア信仰の有無」

2025年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なのでカトリックとプロテスタントの違いの一つのマリア信仰の有無について気軽に書いてみます。
気軽にご覧下さい。
キリスト教はカトリックとプロテスタントとに別れます。1517年のルターの宗教改革の後で生まれたキリスト教のいろいろな宗派をプロテスタントと言います。そしてその以前から連綿と続くのがカトリックです。
この2つの分類は大まか過ぎます。この2分類の他に私が好きな宗派のロシア正教や日本正教もあります。これらもカトリックに非常に近いものです。
イギリスの聖公会はカトリック的な典礼を用いますが信仰の内容はプロテスタント的です。ようするに中間的です。
それではカトリックとプロテスタントの違いは何でしょうか?
神学的には難しい説明がありますが、カトリックの一信者として簡単に言えば、カトリックではマリア様への信仰が重要ですが、プロテスタントにはそれがありません。
1番目の写真はカトリック小金井教会のマリア像です。幼いイエスを抱いています。
2番目の写真は他の教会のマリア様の写真です。カトリックの教会の中にな必ずこのようなマリア像があります。

くどくど書かない方が良いのかも知れませんが、凡俗な一信者としてのマリア様への祈りについて少し説明いたします。
マリア様への祈りは「甘えた祈り」なのです。病気が直りますようにとか、家内安全を祈ります。イエス様には恥ずかしくて出来ないような利己的なお祈りをします。
しかしイエス様へは東日本大震災で被害にあった方々のために祈ります。イエス様の慈しみが豊かにありますようにと祈ります。世界の平和も祈ります。イエス様へは利己的な身勝手なお祈りはしません。それを引き受けてくれるのがマリア様です。
マリア様は仏教の観音さまのような方です。
このようなことを書いてましたら、山梨県の韮崎市にある巨大な観音像を思い出しました。
3番目の写真は韮崎市にある巨大な観音像の写真です。
観音さまはお釈迦様の知恵や慈悲のシンボルなのです。男性でも女性でもありません。中性です。韮崎の観音像は間違っているという人もいますが、作った人の気持ちを考えるとほほえましいですね。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の神道、仏教、キリスト教の混淆の風景」

2025年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
私は日本という国を愛しています。かなり熱烈な愛国者です。
さてキリスト教と神道と仏教の混淆の様子を示す写真を掲載いたします。
これらの写真は五島列島生まれの写真家、峰脇 英樹さんが Face Book に掲載したものです。
1番目の写真は 長崎市下黒崎町枯松頭にある枯松神社です。
枯松神社は禁教時代に外海地方で活動した日本人伝道士バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀っています。この珍しいキリシタン神社は外海のかくれキリシタンの聖地のひとつです。
神社といっても鳥居はなく、小さな社殿がひっそりとあるだけです。厳しい弾圧の中、信仰がばれないように神社としてカムフラージュしたなごりなのです。
2番目の写真はこの神社での合同慰霊祭の写真です。
この合同慰霊祭では、2000年より毎年11月3日に行われています。
サン・ジワンとその信仰を守り続けた先祖たちの霊を慰める祈りの行事です。特徴的なのは、現在のカトリック信者と仏教徒、そして旧キリシタン(かくれキリシタン)が一堂に会して祭りを行うことです。
カトリック教会による慰霊ミサやかくれキリシタンの代表によるオラショ奉納など、緑深い山林の小さな神社を前に行われる儀式はとても神聖で神秘的な雰囲気が漂うそうです。
3番目の写真は「﨑津三宗派御朱印帳」を出している熊本県天草市の 普應軒です。
このお寺は元禄年間(江戸時代中期)に創建された曹洞宗のお寺で釈迦如来が祀られています。
ここで最近、有名になっているのが「﨑津三宗派御朱印帳」です。キリスト教と仏教と神道という3つの異なる宗教の御朱印を一冊の御朱印帳として発行しているのです。キリスト教に御朱印制度はありませんから非常に珍しいものです。
4番目の写真はこの「﨑津三宗派御朱印帳」です。
キリスト教の御朱印は世界遺産のカトリック崎津教会の神父さまが墨書しています。神道の御朱印は﨑津諏訪神社の神主さまが墨書しています。

これらの写真はキリスト教と神道と仏教の混淆の様子を示しています。

日本には本当にいろいろな宗教があるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「世界遺産の五島列島の教会の写真」

2025年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
以前に訪れた五島列島の教会の写真をお送り致します。懐かしい風景です。
 五島列島の教会は 2018年7月に世界遺産に登録された長崎県の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の教会群の一部です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「東京の春の菜の花畑、そして菜の花の追憶」

2025年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

何故か私は春の菜の花が好きです。最近その理由を考えていたら2つの理由を思いつきました。

幼少の頃、庭の花壇に父が植えた菜の花に蝶が飛んでいました。春の暖い陽射しが蝶の白い羽根にあたり、キラキラしていました。そんな風景が心に焼き付いています。

短気で厳しかった父でしたが、草花へは根気が続き、庭には毎年、四季折々花が絶えませんでした。春になると一番先に菜の花と水仙が咲いていた庭を思い出します。戦争中でしたが、我が家の庭だけは平和でした。楽しい追憶です。

そしてそれからずうっと後になって、1974年にドイツを独り旅をしていた時の思い出です。薄暗い列車のコンパートメントの窓から、低い雲に覆われた野や林を見て居ました。

春先でまだ冬の様な光景が淋しく延々と広がっているのです。列車が憂鬱な林を抜けると、突然一面に菜の花畑が広がっていたのです。アッと息を呑んでしまいました。その花畑は明るい黄色で輝いています。中空に浮いているようにも見えます。

菜の花畑が暗い憂鬱な北国の冬を一気に吹き飛ばしているのです。感動しました。あの一面の菜の花畑の光景はこうしてキーボードを叩いている私の心に鮮烈に蘇っているのです。春の到来を告げる感動的な情景でした。当時のドイツでの仕事の苦しさと混じって何か悲しいような追憶です。

毎年、浜離宮の菜の花畑が咲きます。2011年にその写真を撮るために隅田川の川下りの船を浜離宮で降りました。下にその時撮った写真をお送り致します。これも菜の花にまつわる追憶です。094096 092

今日は東京の春の菜の花畑の写真をご紹介致しました。、そして菜の花に
にまつわる思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「海とある孤独な男の姿」

2025年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
海が好きな人は多いようです。海釣りを楽しんだり、シーカヤックを楽しむ人もいます。あるいはヨットの単独航海を続け南極まで行く人もいます。広く深い海には巨大なクジラが棲んでいます。マグロやカツオの群れが回遊しています。サンマやイワシやニシンも沢山獲れます。しかしある時は怒り狂ったように大津波で家々を流し去ります。
人間と海は大古から深い関係があります。
気持ちが高揚している時に海を見ると心が落ち着きます。そして悲しい時に海を眺めていると慰められます。海は人間にとって親しい友人のようです。
そんなことを考えさせる光景を鎌倉の七里ガ浜で見ました。堤防に独り座った男がうなだれて海を眺めていました。
いつまでも眺めていました。初めは悲しそうにしていました。涙をそっと拭いていました。でも海に慰められて次第に明るい顔になってきました。そして静かな豊かな表情になりました。きっと故郷を遠く離れ異郷の地の日本に独り住んでいるのでしょう。私も若い時、独りでオハイオ州に住んでいたのです。悲しかったです。苦しかったです。孤独感に襲われました。
堤防の上に独り座っている男の気持ちが分かるのです。セネガルから来た人だと家内が言っていました。故郷のこと、母のことを思っているのでしょう。海は遥か彼方、どこまでも繋がっているのです。
彼は何時までも、何時までも海を眺めているのです。たぶん夕日が空を染め、夜のとばりが下りるまでそこに座っているに違いありません。ソッと私は去りました。それは鎌倉の七里ガ浜で見た光景です。その写真を示します。
1番目の写真は七里ガ浜の堤防の上に座っている男の姿です。
2番目の写真はその男の目の前に秋の陽がキラキラ輝く広い海です。
3番目の写真は足元の砂浜には繰り返し、繰り返し白波が寄せている風景です。目を上げてみると緑豊かな江の島が悠然と横たわっています。
4番目の写真は夕方の海辺です。長い間、海を見ていると次第に陽が傾き、夕方が近づいたように海や砂浜の色が少しずつ変わっていきます。

私は静かに海辺を去りました。海と静かに過ごした一日でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「農家の復元展示と太平洋戦争下の小作争議」

2025年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」にある江戸時代の農家の復元、展示の写真を5枚ご覧下さい。
1番目の写真は三鷹市の野崎村の名主の吉野家の江戸時代後期の家です。
2番目の写真は東京都世田谷区岡本三丁目にあった江戸時代中期の綱島家の農家です。
3番目のの写真は綱島家の農家の入り口です。余談ながら恐しそうに、中をうかがっている人は私の妻です。
4番目の写真は綱島家の囲炉裏のそばで「昔語り」を聞くイベントの様子を示しています。
このような江戸時代の農家を復元し展示しているところは全国に沢山あると思います。
しかしそれらの裕福な農家の作りから、江戸時代から昭和20年までの農村の様子を想像したら大きな間違いをすることになります。あるいは自給自足に憧れて昔の農村を美化して夢見るとしたら、それは実態とはあまりにもかけ離れています。
日本を占領したマッカーサーが農地解放を断行するまで農村には過酷な地主・小作制度が存在していたのです。江戸時代そのままの地主と小作人の制度が続いていたのです。
ところが全国にある農家の展示はほとんど全て地主階級の農家なのです。小作人が住んでいた小屋のような家は展示されていないのです。
下記は私が昭和37年に妻の実家で実際に見た光景です。
マッカーサーの農地解放までは地主だった妻の祖父が廊下に座り、昔その小作人だった人が下の庭に膝まついて話をしているのです。その地主だった妻の祖父に恩義を感じ、農地解放後も毎年、野菜や収穫物を少し届けに来ていたのです。その光景を見た私は吃驚しました。
そこで少しだけ調べてみました。
そうしたら、「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動」
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-071.html)に驚くべきことが書いてあったのです。
あの一億総動員の戦争中に全国で小作騒動が蔓延していたのです。
戦前の農林省の官庁統計によれば、1935年の争議件数は6824件に達し、史上最高を記録したのです。その後、年を追って減少し1939年には3578件となったのです。この年以後も減少しつづけた争議件数は1941年には3308件と減り、翌年には2000件台に落ち、1944年には2160件となったのです。
農林省の官庁統計にいう「争議」にまで発展せず、紛議、紛争という形で地主と小作人との問に生起したトラブル(争い)の類を考慮にいれると、この争議の規模は官庁統計の示す数字から想像されるより、もっと深刻で大きかったと推定しても誤りではないでしょう。
贅沢は敵だ!とか勝つまでは欲しがりません!と叫んで大戦争をしていた日本の農村では小作人と地主の抗争と騒動がこんなにも起きていたのです。
勿論、この小作人騒動は共産主義者の扇動もあったのかも知れません。しかし共産主義者を特高が厳しく取り締まっていた時代です。共産主義の影響はかなり限定されたものだったと思います。
マッカーサーの占領政策には功罪もありますが、この農地解放は封建的な農村の地主制度を撤廃し、小作人を解放した大変評価すべき政策だったと思います。
小金井公園の江戸時代の農家の展示を見て廻りながら考えたことの一端を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
そうしたら、「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動」
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-071.html)

第一節 小作争議の概況
一 小作争議の件数と規模
 日中戦争開始以後、ことに太平洋戦争開始以後になると、農民が小作料を減免せよとか、小作地の引き上げ反対とかを要求して地主と争うことは、「社会主義者の煽動」による反国家的行為として官憲のきびしい弾圧をうけることを覚悟せねばならぬ情勢となった。
 しかし、以下に記すように、きびしい官憲のファッショ的弾圧と、小作調停や小作料適正化等の小作対策といえども、小作争議の息の根を完全に止めることはできなかった。太平洋戦争勃発の年、すなわち一九四一年における小作争議総件数三、三〇八件、参加小作人数三万二〇〇〇余人という農林省の公式発表数字は、このことをハッキリ示している。官庁統計にいう「争議」にまで発展せず、紛議、紛争という形で地主と小作人との問に生起したトラブル(争い)の類を考慮にいれると、この争議の規模は官庁統計の示す数字から想像されるより、もっと深刻で大きかったと推定しても誤りではないであろう。
 そこでまず、太平洋戦争下に、小作争議は全国的にみてどの程度の展開を示したかをみよう。官庁統計によれば、一九三五年の争議件数は六、八二四件に達し、史上最高を記録したのであるが、その後、年を追って減少し一九三九年には三、五七八件となった(第5表参照)。この年以後も減少しつづけた争議件数は四一年三、三〇八件から翌年には二千件台に落ち、四四年には二、一六〇件となった(注1)。これらの小作争議に参加した人員をみると(第6表)、一九四〇年には地主一万一、〇八二人に対し小作人は三万八、六一四人、翌四一年には前者の一万一、〇三七人に対し後者は三万二、二八九人となった。それ以後は参加人員は減少し、四四年になると地主三、七七八入、小作人八、二一三人となった。争議の関係土地面積をみると、四〇年には二万七、六二四町であったものが四四年には五、〇九五町に減少している。要するに総件数にしろ、参加人員または土地面積にしろ、太平洋戦争下に小作争議の規模は縮小しつづけたことがわかる。
二 小作争議の多発地域
 一九四〇年における小作争議の件数を府県別にみるとつぎのとおりである。すなわち、山形(二七五)、秋田(二一〇)福島(二一〇)、北海道(二〇〇)、山梨(一七八)、福岡(一四八)、青森(一三三)、富山(一二三)、宮城(一一四)、広島(九三)。翌四一年においては、山梨(二一三)が最も多く、ついで北海道(一九八)、秋田(一九三)、福島(一八四)、宮城(一七八)、福岡(一四四)、山形(一三一)、富山(一三〇)である(昭和一五・一六年「農地年報」による)。これによってわれわれは、小作争議は山形・秋田・福島・宮城など東日本、ことに東北地方に多発しており、大正中期から昭和初期にかけて争議多発地帯として記録された近畿・中国地方など西日本では、福岡など一部をのぞき、多発地の地位から退いたことを知るのである。もっともこのことは、太平洋戦争が開始された以後の新しい傾向というわけではなく、大正中期に小作争議が本格的に展開しはじめたころは、岐阜・愛知・大阪・兵庫・奈良など中部地方、近畿地方と岡山・香川・福岡などの地方がその多発地帯として聞こえたのであり、昭和初期にはいるとそれが東北・北陸・北海道の諸地方に拡大し、やがて後者の地方に小作争議の主戦場が移るようになったのである。
 また小作争議の規模を地域別に観察すると、一九四〇年においては、福井・山梨・愛知・大阪・兵庫・島根・広島・熊本等の府県では関係人員多く、その関係土地面積も比較的広いが、件数の多い東北地方では反対に関係人員・土地面積からみてその規模は小さい。翌四一年においても、東北地方は争議は多発しているがその規模は岐阜・奈良・山梨・愛知などに比べると小さく、小土地をめぐる少数の地主・小作人間の個人的争いの性格が濃い。以下省略

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所

「秘境の苦しい生活と離れ島の生活」

2025年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は偶然生まれた場所により、その後の人生が大きく変わるものです。この世の不条理です。
老境にいる私はいろいろな所に旅をして楽しんでいます。しかし訪問先の地方地方の生活があまりにも違うことに驚かされます。
場所によって自然が与えてくれる食べ物にあまりにも大きな差があるのです。
常に飢えを心配している山奥と、海に出れば四季折々、必ず漁のある小島の生活とはあまりにも違いがあるのです。
今日はその一例として山奥の秘境、秋山郷と熱海の沖にある初島の生活を比較してみます。
2012年の秋に長野と新潟の県境の、「秘境、秋山郷」の旅に行きました。
1番目の写真にあるような小型バスがやっと通れるような山道を根気よく分け入ると益々紅葉が綺麗になっていきました。
そして山の奥には昔、13もの村落が存在していたのです。
バスのガイドさんが、「江戸時代の飢饉で村落全員が死に絶えたところもありました」 と悲しげに説明してくれます。
衝撃を受けました。食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。改めて見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
そこで帰宅してから江戸時代の秋山郷の生活ぶりを記述した「北越雪譜」を丁寧に読み直してみました。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵もあります。
そして鈴木牧之は山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
その鈴木牧之の実地調査によると、家々では大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。
フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
飢饉で一村が全滅した時もあったのです。その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
考えてみると険しい山々の連なる山奥には人間の食べられる野生の植物や木の実は非常に限られた量しか生育しません。わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年もあります。その時には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。そしてそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
山の幸とよく言いますが、わずかな春先の山菜や秋のキノコや栃の実だけです。それも冷害で、取れない年が何年に一回巡りくるのが山奥の秘境なのです。
私はいろいろ考えています。何故、ヤギやウサギを飼育し、夏に太らせて冬に食べないのだろうかと考えます。ヤギやウサギは草食なので山の木々の若葉や下草で育つはずです。それを食べなかったのは江戸時代までの仏教の戒律だったのかも知れません。四足の動物は殺して食べてはいけないのです。場所によってはイノシシをや山クジラと称して、コッソリ食べていた地方もあったのに秋山郷ではそんな話も聞きませんでした。
秋山郷のこの悲惨な生活条件と対称的な場所は静岡県の熱海の沖にある初島という離島です。四季折々、回りの海から魚介や海藻がとれるのです。食糧に困ることはあっても秋山郷のような悲惨な飢饉は起きなかったのです。
2番目の写真は熱海と初島の間の客船の上から撮った初島の写真です。
初島は温暖な海に囲まれた島で、四季折々、魚貝が手に入ったはずです。
それでも生活は厳しいいので江戸時代から島全体の家の数を41家に厳密に制限した歴史があったのです。
熱海から船で30分の初島には2012年当時でも41家族しか住んでいませんでした。
長男が跡を継ぎ、娘だけの家では長女が婿をとり、家の数を一定にする伝統が現在でも生きていたのです。長男以外の子供は島を出ます。
近海漁業と畑作だけの島では41家族しか生きて行けないからです。
島に上陸してみると火山灰のような保水力の無い土が島を覆っているのに気がつきます。作物が出来にくく、真水に困る土地と分かります。これでは生活が苦しい筈と心が痛みます。しかし海の幸が飢饉を防いできたのです。
島はあくまでも平和です。明るい雰囲気なのです。立派な家も貧しげな家も混在していません。41家族に貧富の差が無いようです。漁港に引き上げられ、並んでいる41隻の小型漁船は下の写真が示すように、みな同じ大きさです。
3番目の写真は初島に並んでいる41隻の小型漁船です。
漁期の申し合わせによって平等に魚や貝や海藻が行き渡るようにしているそうです。
苦しいとはいえ秋山郷の村落の生活の悲惨さに比較すると天国のような生活です。
下にこの初島の春の光景を示します。2012年の春に撮った写真です。
4番目の写真は初島の春の光景です。2012年の春に撮った写真です。

こんなにも狭い日本でも場所によっては生活条件が非常に違うのです。
「海の幸」の対句として「山の幸」という言葉があります。しかし海の幸が圧倒的に多くて、山の幸は僅かばかりです。
これがこの世の現実です。一体神様は何故このような不平等を作るのでしょうか?不可解です。
人間は偶然生まれた場所により、その後の人生が大きく変わるものです。この世の不条理です。

何故か心が静まり自然に頭が下がります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)