後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「アメリカでの質素な結婚式とレセプションの思い出」

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
結婚は人生の重大なことです。私は67間幸福な結婚生活を続けています。
今日は私どもの結婚式とレセプションの思い出を書きたいと思います。
64年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。
とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。
もう64年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。
1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。
 
2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。

3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。

4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です。
レセプションはダウンタウンのディッシュラ―ヒルトンホテルで行いました。左の人が私の指導教官のセント・ピエール教授です。セント・ピエール教授の右に私の父は立っていましたがこの写真では人陰になって写っていません。
結婚式とレセプションには内木先生夫妻や秦先生夫妻も出てくれました。内木先生と秦先生の奥さんは色鮮やか和服姿でした。
同級生の2人はレセプションの後で残った大きなウエディングケーキを私どもの家に届けてくれたのです。おかげで私どもは数日間ケーキを美味しく食べました。
5番目の写真は無事に結婚した直後の私どもと私の父の写真です。私どものアパートの駐車場でした。

今日は私どものオハイオ州のコロンバス市での結婚に関する写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「遥かなスエーデン王国への旅の思い出」

2025年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
スエーデン王国はヨーロッパの北にあり日本からは遥かに遠い国です。
今日は1974年に旅したスエーデン王国への旅の思い出を書きたいと思います。私を招待してくれたエケトルプ教授の思い出も書きたいと思います。
スエーデン王国は北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島にある立憲君主制国で、首都はストックホルムです。北欧諸国のひとつであり西にノルウェー、東がフィンランド、南はデンマークと国境を接しております。バルト海を挟む形でバルト三国やポーランドとも近い国です。
人口は1045万人で北欧諸国では最大の人口です。住民の大半は北方ゲルマン系のスウェーデン人ですが北部には少数のサーミ人とフィン人が暮らしています。
宗教は国教であるルーテル教会が大多数を占めています。
言語はスウェーデン語が公用語であり他にサーミ語やフィンランド語などが存在します。
民主主義の成熟性が高く、エコノミスト・インテリジェンス・ユニットの評価による民主主義指数は、ノルウェーとニュージーランド、アイスランドに次ぐ世界4位で「完全な民主主義」に分類されています。
1番目の写真はスエーデン王国の首都ストックホルムの夜景です。

2番目の写真は農村地帯の風景です。森林が多いので木造の農家が多いのです。
私は1974年にストックホルムに4ケ月滞在しました。
私を招待してくれたのはエケトルプ教授でした。
教授は古民家を復元する趣味を持っていたのです。中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。
ストックホルムの郊外に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。
建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。
窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。
当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで似ている古民家の写真を見つけましたので示します。
3番目の写真はスウェーデンの古民家です。写真の出典は、http://fuucaarchi.exblog.jp/tags/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3/ です。
4番目の写真は馬を放牧している牧場の風景です。エケトルプ先生の家の裏の風景と似ています。写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.html です。
エケトルプ先生は私の北極圏のキルナにあるウッドホルムという鉄鋼会社の見学もさせてくれました。またノルウェーの工科大学やヘルシンキの工科大学の訪問をアレンジしてくれたのです。
スウェーデンの草原に咲く花の写真も2枚お送り致します。写真の出典は次の通りです。https://www.istockphoto.com/.../%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83...

エケトルプ先生には公私ともに大変お世話になりました。その恩人も亡くなって随分年月が経ちました。亡くなったとき花束を贈っただけでした。

テレビでは時々古民家を復元して住んでいる人を紹介する番組があります。それを見るたびにスウェーデンの古民家に泊めてくれたエケトルプ先生をしみじみ懐かしく思い出します。お顔や姿が思い出されるのです。

今日はスエーデン王国をご紹介し、続けて大変お世話になったエケトルプ先生のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしいドイツ人のシュパチーレンの趣味」

2025年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は近所を散歩なさいますか?公園を散歩しますか?
昔ドイツに住んでいたとき驚きの光景を見ました。ドイツ人は襟の小さい背広にネクタイを締めた姿で森の中を真面目な顔をして歩くのです。これをドイツ語でシュパチーレンと言ってドイツ人が誇りに思っている趣味なのです。郊外の森や葡萄畑の中にシュパチーレン専用の道が続いています。正装した男たちや夫婦が無言で歩くので静かです。

今日は平凡な散歩の趣味について書いてみようと思います。
さてその前に散歩以外の趣味のいろいろを見回してみましょう。本当に色々あります。
海を帆走するヨットの趣味や、登山などの趣味は厳しさがあり克己心を必要とします。
猟犬とともに銃を担ぎ人跡まれな山に入り彷徨する趣味もあります。
日本ではシュパチーレン専用の道は広い公園の中にあります。
その趣味では人生の平凡な時間のうつろいを大切にして、自然を愛し周囲の人の幸せを想います。
そんなドイツの森の写真を示します。

樹々の下に散歩道がえんえんと続いています。空気が新鮮で空が高く広いのです。樹木の中を歩いていると自然に人生のあれこれを想います。邯鄲の夢と思います。そして人生で一番大切なことは何かと考えます。
そうして自然を愛し周囲の人の幸せを想うことが非常に重要なことだと思うのです。
老境に至って初めて散歩の趣味の楽しさが分かりました。しみじみと分かったのです。
以前は仕事に打ち込むこと、仕事の上で素晴らしい成果を上げることが重要だと思っていたのです。自然の美しさを深く理解していませんでした。家族や友人を大切にするのを怠って自分の専門分野に埋没していたのです。それは恥ずかしい生き方でした。歩きながら樹木の姿を見ているとしみじみそう思います。
「散歩」も趣味として味わい深いと感じたのです。これも体力も知力も衰えたおかげで理解出来たことです。
昔見たドイツのシュットガルト市の郊外を妻や子供たちとよく歩いたことを思い出します。それはシュパチーレンの趣味です。懐かしいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツの冬の暗さと『30年戦争』」

2025年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツは日本の同盟国として第二次世界大戦をともに戦った国でした。当時日本の新聞や雑誌にはドイツの良いことが沢山書かれていました。戦前は日本人の憧れの国だったのです。昭和11年生まれの私にとっても理想の国に思えたのです。
しかし日本よりも早く降伏したのでドイツの見方が少し変わりました。それでもドイツに留学したいと思い続けていました。
それが実現したのは1969年から1970年でした。1960年から1962年のアメリカ留学の後でした。
1969年の8月にドイツに到着しました。それから家族をよんで1970年の11月までシュツットガルトに住みました。娘はドイツの小学校に、息子は幼稚園に通いました。家内は教会の旅行や買物等の日常生活を楽しんでいました。南ドイツに住んでいたのでスイスやフランスにも旅しました。
ドイツに住んでみると知らなかった事が多くドイツを興味深く感じました。

今日は日本人があまり知らないドイツで重要な2つのことを書きたいと思います。寒さが厳しい冬の暗さと、『30年戦争』の2つのことです。
まずドイツの冬の風景の写真をご覧ください。


ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに寒い冬の暗さを書きます。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。

もう一つドイツで重要なことは『30年戦争』です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。歴史は権力者に都合良く書かれているのです。
歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
アメリカでビールを飲んだ時の話題は野球やアメリカン・フットボール、バスケットボール等スポーツに関することが多いのです。あるいは趣味の話です。ところがドイツでは歴史が話題になるのです。
これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。

ドイツにはもっといろいろなことがありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツ留学で理解できたハプスブルグ家の絶大な影響」

2025年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで一年4ケ月住んでいました。そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化が非常に違うということでした。
日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。
ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツではグリュースゴットと言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。
シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバーベン出身の人以外には貸さない家主が多いのです。シュツットガルト地方は昔、シュバーベン王国だったのです。要するに地元の人にしか貸さないのです。新聞広告にはっきり「 シュバーベン人に限るに」と明記してあります。
理由を聞くとシュバーベン人は家を綺麗にし、清潔に暮らすからだと言います。
仕方なく研究所にいるシュバーベン人に同行してもらい保証人になって頂きアパートを借りました。
この経験から私は文化は地域によって違うということを身に沁みて実感したのです。文化と地域を結びつけて考えるようになったのです。これはドイツ留学で私の受けた影響の一つです。
そういう目でヨーロッパ文化を眺めるとハプスブルグ家の影響が大きかったことに気がつきます。
ハプスブルグ家がヨーロッパのあちこちに広大な領土を所有し、各地の文化を発展していったのです。
ハプスブルグ家は軍隊も持っていましたが、日本人が考えるような「近代国家」ではなかったのです。ですから日本人には理解しにくいのです。しかしこれが判らないとヨーロッパというものの本質が理解出来ないのではないでしょうか。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの文明を熱心に取り入れて富国強兵を実行し幾つもの戦争をしました。そして敗戦です。戦後もアメリカの工業技術を熱心に取り入れて経済の復興と高度成長に成功しました。
従って産業革命より古いヨーロッパの文化をとかく軽視する風潮があります。それは仕方の無いことです。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみるとヨーロッパのある側面が見えて来るのです。そして現在のヨーロッパの通貨の統合やEUの考え方が少し理解出来ると思います。
さて前置きが長くなりましたが、ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。メジチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっています。
しかしハプスブルグ家も中世以来、ルネッサンス期も通して芸術家を支援し音楽や絵画を育てていたのです。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力以上の権力を握っていたからです。
ハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があったのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり学校では丁寧には教えません。日本ではフランス革命の原因になったマリー・アントワネットだけは有名ですが。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを一番目の写真の地図で示します。

1番目の写真の図は、1547年時点でのハプスブルク家の領土です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。二番目の写真で示します。

2番目の写真はがシェーンブルン宮殿です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)です。
そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。
その歴史は複雑ですが、ご興味のある方は末尾に付けた参考資料をご覧ください。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、ある意味でのヨーロッパ統合の実態が自然に生まれたのです。
現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があると考えるとヨーロッパ文化の奥深さが少し理解出来るのではないかと思います。
現在、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログを発表しています。そして良質のヨーロッパの芸術の日本への紹介活動をしています。ハプスブルグ家がこのように日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。
ハプスブルゲ家の詳細は末尾の参考資料にあります。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

===========参考資料=================
ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系でした。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)

ハプスブルク君主国(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルク君主国は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)が君主として統治した国家の歴史学上の呼称である。
正確には「帝国」ではない時代もあるがハプスブルク帝国とも呼ばれる。成立年はハプスブルク家がオーストリア大公領に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリア(ハプスブルク家をオーストリア家ということから)と呼称していた。1804年から1867年はオーストリア帝国(「オーストリア家の帝国」という意味)、1867年から1918年はオーストリア=ハンガリー帝国(「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」)を総称とした。

ハプスブルク君主国の領域は、大きく分けて以下の3つから形成されていた。
ハプスブルク家世襲領ハプスブルク家の所領とされたのは、現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(1797年まで)である。ナポレオン戦争の過程でこれらの領土の多くが一旦は失われたが、ウィーン会議(1814年)によって多くを回復し、さらにザルツブルク大司教領を加えた。ベーメン王冠領ベーメン王国領はベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ラウジッツは1620年にザクセン公国へ割譲され、シュレージエンはオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)の結果プロイセン王国に奪われた。ハンガリー王冠領ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)。オスマン帝国の衰退とともに、1699年のカルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国の領域の大部分がハプスブルク家へ割譲された。ハンガリー王国領とされた地域は、現在のハンガリー、スロバキア、クロアチア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニア、ルテニアのカルパチア地方が含まれていた。オスマン帝国と接する最前線は、軍事上の必要性からウィーン政府による直轄支配とされた。

これら以外に歴史上、以下の地域がハプスブルク君主国の領域となった。
南ネーデルラント (現在のベルギーとルクセンブルク、1713年 - 1792年)
ミラノ公国(ロンバルディア、1713年 - 1797年)
ナポリ王国(1713年 - 1735年)
サルデーニャ王国 (1713年 - 1720年)
トスカーナ大公国 (1737年- 1860年)バナト・テメスヴァル (1718年 - 1778年)
セルビア (1718年 - 1739年)
ボスニア (1718年 - 1739年)
オルテニア (1718年 - 1737年)
シチリア王国 (1720年 - 1735年)
パルマ公国(1735年 - 1748年)
ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドとウクライナの一部、1772年 - 1918年)
ブコビナ (1774年 - 1918年)
ヴェネツィア(1797年 - 1805年, 1814年 - 1866年)
ダルマチア(1797年- 1805年, 1814年 - 1918年)
ロンバルディア (1814年 - 1858年)
ホルシュタイン (1865年 - 1866年)
ボスニア・ヘルツェゴビナ (1908年 - 1918年)

「思い出すスイスの恐怖の民宿とフランケンシュタインのこと」

2025年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツでの生活は1969年の夏から始まりました。シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年3ケ月の研究生活をしました。
シュツットガルトはスイスとフランス南東に近い所です。ですから週末にはスイスのアイガー山麓やレマン湖によく行きました。インターラーケン、ボーデンゼー、シャッハハウゼンなどスイスへ何度も訪ねました。フランス南東部のストラスブルグ市にも旅しました。すべてオペル・レコルトという車で家族旅行をしました。住んでいたシュツットガルト市からここまで車で4時間弱かかりました。

1番目の写真はアイガーの麓の町のグリンデルヴァルトです。ここに泊りました。ケーブルカーで更に高台に登りアイガーやアルプスの山稜の眺望を楽しみました。グリンデルヴァルトへは下のインターラーケンから登山電車で行ったこともあります。この写真はインターネットからお借りした写真です。

2番目の写真は美しいレマン湖です。住んでいたシュツットガルト市からここまで車で3時間ですので度々訪ねました。
さてスイスへの旅のエピソードを一つだけ書きたいと思います。フランケンシュタインの住んでいそうな民宿に泊まった怖い話です。1970年、夏、チューリッヒのそばの田舎の民宿に泊まったのです。少し遊びすぎてトップリと日が暮れました。田舎道には街灯も無く漆黒の闇。遠方の農家の明かりがかすかに見えるだけです。行けども、行けども民家が無い。やがて貧しげな古風な一軒の民宿があったのです。

3番目の写真は民宿の写真です。
案内を乞うと、ドアが開いて中年の大男が無言で現れる。顔がフランケンシュタインにそっくりなのです。ドイツ語で一泊したいが、と言う。無言で頷き、入れという身振りをする。2階の部屋へ泊まれという。薄暗い部屋には高さ3mもあるような古い洋服ダンスと堅ぎわにベットがある。何か出て来そうな気がしてタンスの方に眼が行ってしまう。フランケンシュタイン一族の子孫は、現在でもスイスに住んでいるとかいう。

4番目の写真はフランケンシュタインです。
フランケンシュタインを思い出しながら廊下を見ると、そこにも古風な扉の付いた大きなタンスがある。そっとタンスの扉を開けてみると分厚い本が積んである。表紙を開いてみると人体解剖の図が、色彩鮮やかに多数印刷してある。怖ろしい髑髏や骨格の解説図もあるのです。怖くて眠れない。ウトウトしていたら真夜中になってしまった。民宿は寝静まり物音一つしない。と、廊下の方でギ、ギーと扉が開く音がするではないか。家内も聞いたらしく、起きて見てきてという。意を決して見に行くと重い木のタンスの戸が半分開いている。誰も居ない。うず高く積んだ解剖書があるだけである。力いっぱい戸を閉めてくる。

朝、目が覚め窓から見下ろすと、民宿の娘が向かいのパン屋から棒状のパンを抱えて帰ってくる。朝食は、パン、バター、ジャム、に大きなポットの熱い牛乳とコーヒーだけ。怖い顔の主人が座り、やはり怖い雰囲気の妻と娘が無言で給仕してくれる。ところが給仕の所作が実に丁寧で親切である。いかにも遠方から来た客人をもてなそうとしている気持ちがあふれている。暖かい雰囲気に包まれて質素な食事を楽しみながら、ゆっくりと食べる。朝食後、美味しかった。有難う。と主人へ言うとニャっとして「何処からですか?」、「シュツットガルトから来ました。日本人です。週末にはチューリッヒやボーデンゼーによく来ます」、「また是非ここに泊まって下さい」本当にまた泊まってくださいと心から言ってくれる。何故、昨夜、彼らと話もせず部屋に上がったのが悔やまれる。フランケンシュタインの亡霊を怖がったのがウソのように思う。

今日は美しいスイスの風景写真を示し、フランケンシュタインの住んでいそうな民宿に泊まった怖い話を書きました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「時代の空気、都電の隆盛と消滅のものがたり」

2025年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
時代の空気とは何でしょう?
日本の社会にある時代に流れていた空気のことです。その時代の社会の雰囲気です。それは煙のようにはかないものですが独特の香りや臭いを持っていました。
その時代の空気のことを考えると楽しい思い出、悲しい思い出が心に浮かんできます。

今日はそんな儚い時代の空気、そして都電の隆盛と消滅のものがたりを書いてみたいと思います。
昭和11年生まれの私は大学卒業まで仙台に育ちました。仙台市の市電に良く乗りました。乗り物が好きだった私は、運転席の後ろに立って、風景が変わるのを楽しみました。それは楽しい思い出として心に残っています。
1962年にアメリカ留学から帰って東京に住むようになりました。
当時は都電の全盛時代のなごりで、都電が都区内の全域に走っていました。
仙台の楽しかった市電を思い出しながら都電にもしょっちゅう乗ったものです。
その時、感じたのですが都電がその時代の東京の空気を作っていると思いました。
武骨な形をした都電にはいろいろな人が乗っていました。楽しそうな顔、悲しそうな顔、その顔顔が時代の雰囲気をかもし出しています。東京の1960年代の時代の空気です。
その都電のある東京の風景の写真をお送りします。
1番目の写真は38系統、砂町方面行きの都電です。1番目から3番目の写真の出典は、http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html です。
2番目の写真は13系統、新宿行きの都電です。
3番目の写真は19系統、王子行きの都電が須田町の停留所に停まっている風景です。

皆様はもう忘れたかも知れませんが当時は車が普及してなく都電だけが庶民の頼りでした。
まだ生活が苦しくて人々は生きるために精一杯働いていたのです。社会には緊張した、しかし希望に満ちた空気が流れていました。
私の楽しい思い出は新婚の家庭生活でした。家内も若々しく2人の小さな子供がいました。
それはさておき、都電の最盛期は1955年頃だったそうです。その頃の営業キロは約213kmもあり、40の運転系統があったそうです。そして毎日、約175万人が利用する日本最大の路面電車だったそうです。
しかし1960年代の終わり頃、都電は少しずつ消えて行きました。
東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年まで都電が廃止されることになったのです。時代の空気が大きく変わり始めたのです。
唯一つ荒川線だけが存続しましたが時代の変化は止めることは出来ません。
都電が消えた原因は地下鉄網の完備と自家用車の普及です。
日本国中で高速道路が建設され日本全体が車社会になってしまったのです。
しかし、地方に行くとまだ路面電車を大切に使っている都市も幾つか残っています。函館市、富山市、広島市、熊本市などです。しかしそれらの都市も車社会になっています。時代の空気が車社会の空気になっているのです。
それでは東京が車社会になった後の風景を示します。
4番目の写真は車が充満している道路の風景写真です。
5番目の写真は都電が撤去され美しく整備された新宿の風景です。

さて日本から市電や都電などの路面電車が消え、車社会になって日本の空気は大きく変わりました。
ついでに、そのずっと前の戦前、戦争中はどんな雰囲気だったのか考えてみましょう。
戦前、戦争中に都電に馴染んでいたある人の回想をお送りいたします。
(1)昔日の池之端七軒町界隈の思い出
市電(その後の都電)は、確か大正7年に、計画が持ち上がったと聞いています。それで、市電の軌道が不忍通りをこの池之端で曲がって、不忍池 の方へ通るようになったんです。私はそのだいぶ後に生まれたわけですが、私の小さい頃は、市電のレール沿いにずーっとドブ川が流れていて、そこでエビガニだとか、オタマジャクシを捕ったりしたものです。
(2)間一髪 !! アメリカの爆撃機に狙われて
戦争中の昭和20年3月の東京大空襲の後、5月だったか、私は都立工芸の夜学に通っていたのですが、授業中に空襲警報が発せられました。皆、家に帰るようにっていうので、水道橋からきて須田町で乗り換えて、こちらに帰ってくる時に末広町で爆弾が落っこったんですよね。
それがねえ、乗っていた電車が当時は「ポール集電」だったでしょう。電車を走らせていると、時々、ポールと架線が離れたりまたくっついたりして、そのときに電流が「バチッ!」とスパークして火花が散るんですよ。灯火管制で町中が真っ暗のなか、アメリカの爆撃機はその一瞬の、火花の光をめがけて爆弾を落っことしてくるんですよね。
そのスパークした場所に正確に爆弾が落とされて、その後続の電車が被害を受けた、というわけです。
(以上は、都電網研究会、
http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html からの抜粋です。)
以上は何気ない都電に関する思い出です。
都電が走っていた戦前の空気が感じられます。人々の感情が描かれています。それは戦前の義理人情の生きていた社会の空気でした。
時代が大きく変わって車社会になって古い義理人情の空気も消えました。
しかし車社会では人々が他人に優しくなりました。ボランティアの精神が行き渡り、見ず知らずの誰にでも優しくなったのです。これが現在の社会の空気なのです。
これも良い時代です。私はそのように楽観的に考えることにしています。

今日は時代の空気、そして都電の隆盛と消滅のものがたりを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「角谷まゆみ、「詩集 光の春』のご紹介」

2025年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
「この本に集められた詩は、2009年から2011年にかけての、およそ3年間の間に書いたものであり、30余年にわたる厳しい冬の後に訪れた春の喜びを歌ったものである。・・・・・・読者の皆様が、私に訪れた春を、共に楽しみ、寿いで頂ければ著者として、それに優る喜びはない。」
(「あとがき」より)
【目 次】
第1章  光の春
第2章  順境の川
第3章  自由の大洋
第4章  何故はない
第5章  輝くためにこそ
第6章  神は陶工
第7章  穏やかな風景

【詩の抜粋】
永久の春(1)
主の臨在の光が 私の眼前を照らし、
主の御心の愛が 私の内で炎と燃えるとき、
光と暖の内に、
闇と冷たく凍る冬は
終わりを告げるのだ。
奇跡のように、
永久の春が来た。



「光の春、鎌倉の海と砂浜の輝き」

2025年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
最近は毎日寒いのに太陽が明るく輝いています。光の春なのです。
去年運転免許を返上したので車で遠方へは行けなくなりました。以前は八ヶ岳や伊豆の海岸へは何度も行ったものです。そう云えば鎌倉へもよく行きました。
今日は鎌倉の海岸に出てのんびりと海を眺めて過ごしたことを思い出しました。鎌倉は家内が生まれ育った地です。砂浜は由比ヶ浜と材木座の浜が続いていて相模湾へ向かって大きく広がっています。
真冬の鎌倉ですが波が陽の光に輝いています。時折、沖の方をウインド・サーフィンを楽しむ若者がゆっくり横切って行きます。陽光が射す昼間は鎌倉の海は意外に暖かいのです。時間がゆっくり流れ、老境の静かな一日が過ごせます。その浜辺の風景を撮った写真を示します。

鎌倉には砂浜だけでなく鎌倉仏教という言葉があるとうり鎌倉時代からのお寺が沢山あります。
建長寺、円覚寺、長谷寺、高徳寺、極楽寺、明月院、瑞泉寺、光明寺、九品寺などです。それはそれとしてもう一枚の写真に砂浜を眺めをお送り致します。後ろ姿は走っている家内です。

昔は鎌倉から江の島までは文字通り白砂青松だけの砂浜が続いていたそうです。

そんなことを思い出しながら今日も老境の一日が静かに流れて行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「大学卒業後58年目のクラス会」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
私たちは67年前の1958年に東北大学の工学部金属工学科を卒業しました。クラスは32名でした。そのうち物故者は数名です。
2013年の5月12日の午後5時から東京のアジュール竹芝というホテルで17名の出席で卒業後58年目のクラス会がありました。
卒業後58年目の5月12日のクラス会に出席した人の集合写真を示します。

紅顔の若い青年たちも58年年経つとこうなるのです。中に1人だけご婦人がいますが、竹内君の奥さんです。

この会合は大体2年ごとに幹事2名が交代で開催してきました。仙台のそばの松島や盛岡のそばの温泉でもしましたが、その他は箱根や熱海、湯河原でしました。
今回の幹事は管野君と香坂君でした。遠方から新幹線で来る人の便利を考えて東京浜松町に近いアジュール竹芝に設定してくれました。
会場に行ってみて吃驚しました。こんなに景色の良い会場が都内にあったのです。
その会場の眼下には、美しい船が出入りしていて、その先には夕陽に染まるレインボーブリッジが見えるのです。一枚だけその写真を示します。豪華客船、日本丸の出港風景です。

こんな船を見ると今宵の宴を豪華客船のレストランでしているような錯覚にとらわれるから不思議です。
そらはそれとして、クラス会の内容です。
大学卒業以来、2、3年毎にクラス会を開催してきました。その会合の内容を振り返って見ると大体、三つの期間に分けられるような気がします。
それぞれが会社で技師として活躍中の現役の間のクラス会。
おおよそ60歳で引退したあと10年くらいの間のクラス会。
そして、引退して15年以上経ってからのクラス会。
どのクラス会も、まず2人の幹事が開会挨拶をして、一番年上の今泉さんか及川さんが乾杯の音頭をとって始まります。
乾杯の後はしばらく傍の人々と雑談をしながら飲みます。そして酔いが回ったころ出席者が一人、一人と立って近況を報告します。
最後に乾杯をして終りです。
その後の二次会は任意参加で、泊まる宿の一室で行います。今回も夜の10時頃までしました。原子力研究者だった近藤君の、原発は人類にとって必要なものだという静かな説明を聴きました。水戸まで帰る彼が席を立ってからからは、気楽なお遊びの話をして散会しました。
この宴会は席順も勝手で、幹事の挨拶も短く、カラオケも下手な余興も無いので気に入っています。要するに皆平等で気楽に話が出来る宴なのです。

不平不満を言う人は皆無です。
今までのクラス会で一番楽しい会になりました。

その本当の理由は全員が間もなくやってくる旅立ちの準備が終わっているからだと思います。私はそのすがすがしさに感動し、会合がまた一段と楽しくなってのです。

我々の同級生が就職した富士鉄も八幡も日本鋼管も川崎製鉄も石川重工もみんな名前が変わって消えてしまったのです。隆盛をきわめた三菱重工も日本製鋼所もラサ工業もプログレスダイキャストもみんなみんな衰退してしまったのです。
これらの工業が再び隆盛することは日本ではないのです。

大学卒業後58年目のクラス会をご紹介いたしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「少年の頃の思い出、消えてしまった沼と亜炭の煙」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生れの私は戦前、戦後に仙台市で少年時代を過ごしました。その頃日中戦争が起きやがて真珠湾攻撃があり悲惨な大戦争のあった時代です。
今日は仙台の戦前、戦後の暮らしぶりの思い出を書いてみたいと思います。
さて皆様が子供の頃に釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?
皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?
今日の私の話は昔、釣りをしていた三つの沼と燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったという話です。完全に消えてしまったのです。これは小さな出来事ですが私にとっては大きなショックでした。
それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その向山からは仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。料亭や温泉旅館のあるささやかな仙台の観光地だったのです。
その高台には東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが散在していました。長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
その向山の谷地に沿って3つの沼が並んでいました。そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って、蛙に育てたりして遊んだものでした。この3つの沼は少年時代の大切な遊び場だったのです。毎日この沼の岸辺で遊んでいました。
昔に向山を流れていた川が涸れて無くなり、湿地や幾つかの沼になっていたのです。
それが東京オリンピック後の経済成長にしたがって、湿地も3つの沼も完全に埋め立てられ消えてしまったのです。
フナ釣りをした沼はガソリンスタンドになってしまいました。そして他の沼もみな新しい住宅地になってしまったのです。
昔の風景は想像も出来なくなりました。この世から完全に消えてしまったのです。
この様な風景の変化は東京オリンピック後の経済成長の時代に全国で起きたのです。全国の都市部の郊外の風景が一変したのです。
さて完全に消えてしまったものといえば亜炭という不思議な燃料があります。仙台に漂っていた亜炭の独特な煙の臭いが消えて無くなったのです。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が向山に3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も向山から完全に消えてしまいました。
2枚の写真を示します。

1番目の写真が現在の鹿落ち坂(ししおちざか)の様子です。左の白い車の上の平地が昔、鹿落温泉(ししおちおんせん)の建物があった場所です。左上の大きな建物は料亭の東洋館です。坂の右下には広瀬川が流れています。東洋館と鹿落温泉からは仙台の中心街が見下ろせるのです。

2番目の写真は 戦後に新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

今日は少年の頃の思い出と消えてしまった沼と亜炭という燃料について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて懐かしく想うのは遥かなる我が故郷、仙台の風景」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
年老いて懐かしく想うのは遥かなる我が故郷、仙台の風景です。
今日は私が通った学校や仙台の風景をご紹介したいと思います。
私は昭和11年に仙台で生まれ、昭和35年に仙台を出るまで24年間住んでいました。
18年程前に中学校の同期会があった秋に訪れてから行っていません。
その2007年に仙台を車で訪ねる小さな旅をしました。
東京外環道路から川口JCで東北自動車道路に入り、北へ北へとひたすら走ります。約400Kmを5時間半で到着しました。
仙台ではホテル・モントレ仙台に2泊しました。まず老人ホームにいる96歳の叔母を訪ねました。
2人の弟が仙台在住でそれぞれ夫婦とも健在です。私共夫婦と6人で両親の墓、母方の祖父母の墓、叔父の墓をお参りしました。お寺の住職をしている次男がそれぞれのお墓に般若心経と大悲心陀羅尼というお経をあげました。
久しぶりに6人そろっての昼食会は大変愉快でした。
2日目の午後に懐かしい場所を巡りました。仙台で通っていた学校を見に行ったり、昔住んでいた場所を見に行ったのです。
写真にしたがってご説明いたします。
1番目の写真は昭和17年から23年まで通っていた向山小学校です。戦争中は向山国民学校という看板が石の門柱にかけてありました。
その門柱は昔のままの石です。日本軍が昭南島を占領した戦勝祝いに生徒全員がゴムマリを貰ったのを思い出しました。
昭和20年の7月10日の夜にB29が百機来襲し、仙台の街が一面火の海になりました。高台の向山から夜が明けるまで見下ろしていました。
こんなことを思い出しながら向山小学校の坂道をゆっくり下りて来ました。
2番目の写真は私が卒業した東北大学の金属工学科の昔の建物です。現在は青葉山のキャンパスに引っ越して使っていませんが、赤レンガの建物が77年前と同じように残っていました。
現在は仙台にも高層ビルが立ち並んでいてこの赤レンガの建物がみすぼらしく見えます。しかし空襲でも残ったこのビルは当時は非常に立派に見えたものです。私の実験室の窓もそのままありました。
3番目の写真は青葉城の石垣です。城の建物はすべて戊辰戦争のおりに焼かれてしまいこの石垣だけが残ったのです。この石垣の下を右方向に車で登ると見晴らしの良い城跡に上がれます。
4番目の写真は城跡にある伊達政宗の騎馬像です。
5番目の写真は城跡から見下ろした現在の中心街の風景です。昭和20年の大空襲で一面の焼け野原になった町がこのような風景になったのです。夢を見ている心地でした。
6番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。写真の左の小高い山に伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。
それで評定河原橋を渡った地域を「霊屋(おたまや)下」とい地名になっています。
この霊屋下には友人達が幾人か住んでいたのでしょっちゅう遊びに行った場所でした。今回も霊屋下を車で回りましたが家々がすっかり変わってしまって友人達も消えてしまいました。茫々あれから70年もたっているのです。
7番目の写真は伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿のある経京ヶ峰の広瀬川に面した断崖の風景です。この写真の右手に家内が若い時に少しの間住んでいた公務員住宅があります。父親が東北大学で働いていたので仙台に少しの間住んでいました。この時見合いをして結婚した思い出の場所です。妻は鎌倉生まれ東京育ちですが偶然にもこの場所に住んでいたの結婚したのです。運命とは不思議なものです。

以上が私の故郷の仙台の思い出の風景でした。
皆様の故郷はどこでしょうか?遠方にある故郷は懐かしいものですね。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「時が止まったような奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿の風景」

2025年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
時が止まったような村や町の風景を見るといろいろなことを思い浮かべます。人々が活き活きと生き、そして死んで行きます。
しかし古い農家とその周囲の風景は変わりません。古い宿場町の家並みの風景はシーンとして静かに時を刻んでいるだけです。
以前の奈良井宿への旅で、その家並みの中を歩きながら人の生き死にの儚さを考えていました。
写真をお送りします。
1番目と2番目の写真はその時撮った中山道の奈良井の宿です。江戸時代の宿場町がそのまま保存してあります。

3番目と4番目の写真は中山道の奈良井宿から南に行った場所にある妻籠の宿場町の風景です。数年前に3度ほど行きました。
3番目と4番目の写真の出典は、「自分を探す旅 見つめ直す旅 」というブログです。素晴らしい旅行記のブログです。
5番目と6番目の写真は中山道をさらに南に行った所にある馬籠の宿場町です。馬籠の宿場町へも3度ほど行きました。
5番目と6番目の写真の出典は、http://www.livedo.net/tabi/276.html です。
7番目の写真は庄屋をしていた馬籠の島崎藤村の生家です。

以上のような奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿は全て険しい山の谷に沿った危険な道でした。ここには11の宿場町がつらなっていました。
木曽福島の厳重な関所の先の峠までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井の峠を越すと日本海へ注ぐ川に沿っています。

その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。
・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降くだって来た。道の狭いところには、木を伐きって並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷けいこくの最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
 東山道とも言い、木曾街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否でも応でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
馬籠まごめは木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。・・・

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。

昔の中山道は現在は奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の真ん中に残っているだけなのです。嗚呼、時はどんどん流れ行きますが、そこだけは時が止まっているのです。此処で生活し、古い建物を維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入りながらの旅でした。
新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の宿は頓着しません。人間は何故そんなにいそぐのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「江戸時代そのままの風景の亀山市の関宿」

2025年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
昔の風景を見ると胸がかきむすられるような気分になります。懐かしさで胸がいっぱいになります。そんな訳で古い宿場町も訪問してきました。
私が何度も訪れた宿場町は大内宿、妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿、海野宿などです。これらの宿場町については詳しいしい紹介記事を掲載いたしました。
今日は江戸時代そのままの風景の三重県亀山市の関宿をご紹介したいと思います。
関宿(せきじゅく)があるのは三重県北中部の亀山市です。
江戸時代に整備された53ある宿場のうち、東海道五十三次の江戸から数えて47番目がこの東海道の関宿です。
参勤交代や、お伊勢参りの人々で賑わったこの宿場町は、昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されました。江戸時代の建物が今も大事に保存されています。
その風景写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.kankomie.or.jp/report/252 です。


今日は江戸時代そのままの風景が残る亀山市の関宿をご紹介したしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「山梨の満開の桃畑と中国の桃源郷の話」

2025年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県へは以前に何度も出かけて行きました。甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋を持っていたのでよく行きました。その甲府盆地の周囲の山沿いの傾斜地はブドウ栽培や桃の栽培に使われています。

春になると桃畑は文字通り「桃色」の花が一斉に咲きます。

特に東部の一宮や南部の南アルプス市、そして西部の新府には桃畑が広大に斜面を覆っています。

毎年4月になり花が咲くと夢のような風景になります。あちこちに「桃源郷」という看板が出ています。

甲府盆地の東の一宮には「日本一の桃の里一宮」という大きな看板が中央高速道に出ています。

そして夜叉人峠の入り口の南アルプス市、そして西の新府などの桃の産地には随分と通ったものです。

桃の花は開花すると間引きのため摘花(てきか)します。摘花したあとの桃の枝には花がまばらにしか残っていないので淋しい風景になってしまいます。そこで摘花する前の桃畑を探してあちこちへ動き回ります。

摘花する前の桃畑に行くとピンクの雲の中に入ったようで、甘い桃の香りがして別世界に来たような気分になります。

自分で、「これが桃源郷だ!」と言いながら、何故かとてもロマンチックな気分に浸ります。

下の写真は2011年の4月に撮った山梨県の西の新府の桃源郷です。

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桃源郷の初出は六朝時代東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人・陶淵明365年 - 427年)が著した『桃花源記 ならびに詩』です。(詩集では、『桃花源詩 ならびに序』という名前で,採録されることが多い。)

現在では『桃花源紀』()よりは、その序文のほうがよく読まれている。

太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に川漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡ったとき、どこまで行ったか分からないくらい上流で、突如、の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香ばしさ、美しさ、花びらや花粉の舞い落ちる様に心を魅かれた男は、その源を探ろうとしてさらに桃の花の中を遡り、ついに水源に行き当たった。そこは山になっており、山腹に人が一人通り抜けられるだけの穴があったが、奥から光が見えたので男は穴の中に入っていった。

穴を抜けると、驚いたことに山の反対側は広い平野になっていたのだった。そこは立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しいところだった。行き交う人々はみな微笑みを絶やさず働いていた。

男を見た村人たちは驚き話しかけてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみなびっくりして、家に迎え入れてたいそうなご馳走を振舞った。村人たちは男にあれこれと「外の世界」の事を尋ねた。そして村人たちが言うには、彼らはの時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、この山奥の誰も来ない地を探し当て、以来そこを開拓し、その一方、決して外に出ず、当時の風俗のまま一切の外界との関わりを絶って暮らしていると言う。彼らは「今は誰の時代なのですか」と質問してきた。驚いたことに、ここの人たちは秦が滅んでができたことすら知らなかったのだ。ましてやその後の三国時代の戦乱や晋のことも知らなかった。

数日間にわたって村の家々を回り、ご馳走になりながら外の世界のあれこれ知る限りを話し、感嘆された男だったが、いよいよ自分の家に帰ることにして暇を告げた。村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って男を見送った。穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、村人を裏切ってこの話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡らせたが、ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかった。(終り)

今日は山梨の満開の桃畑の写真を示し、続けて中国の桃源郷の話をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)