後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(10)熱烈日中友好の時代」そのニ

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、日中間に非常に熱烈な友好関係があった時代があったのです。それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代のことを振り返り、その歴史的な理解を深めるために以下のような記事を書きました。
「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一
続いて「年老いて振り返る我が人生」の(10)を書きたいと思います。
それでは今日の部分をご紹介いたします。
周 恩来(1898年 - 1976年)は中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた卓越した政治家でした。賢い政策と人情溢れる性格で中国人の絶大な信頼と尊敬を得ていました。
彼は毛沢東に下で慎重な助言をして全ての政策を毛沢東の手柄となるようにしました。
しかし大失敗をした1950年代の大躍進政策は周恩来のせいではないと言われています。
周恩来の功績は文化大革命の被害を少なくし、終了するように導いたことです。その故に毛沢東の妻であった江青に憎まれ何度も暗殺されそうになります。
さて周恩来の下した英断はいろいろありますが、日本に関することは2つあると思います。
1、ベトナム戦争への支援を止め、アメリカと国交を開く。
2、日中共同宣言を発し、日中間の友好を促進する。

中国はベトナム戦争の一方である北ベトナムを支援していました。揚子江以南の農民から米を供給させ北ベトナム軍へ送り続けたのです。そのため江南の農民は飢饉になったと言われています。
10年近く続いたベトナム戦争からはアメリカも手を引きたかったのです。
1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容は今後、中国はアメリカと国交を開きたいという趣旨でした。
これを受けて、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問したのです。
そして毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換したのです。第二次世界大戦後の冷戦時代に新しい様相が加わったのです。

日米安保条約のある日本もすぐに追随します。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行いました。
9月29日には、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式があり、田中角栄、周恩来両首相が署名します。
この共同声明の内容には以下のことも含まれていました。
両政府は、どんな場合でも力又は武力による威嚇に訴えないことを確認します。
日中両国間の国交正常化後は、両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対すると明記したのです。

1981年に私は北京と瀋陽の大学から招待されます。その時、見聞した中国の実態は丁度日本の敗戦直後の荒廃した風景と全く同じだったのです。驚きました。それはさて置き、周恩来に関する2つのエピソードをご紹介します。
周恩来は1976年の1月に亡くなります。しかし政府の禁止令にもかかわらず一般の人々は秘密の部屋に周恩来の写真や書を飾り、その周囲に周恩来を讃える詩や文章を供えていたのです。私が案内された秘密の部屋は大学の深い地下室でした。4方の壁一面に周恩来の写真、周恩来を讃える詩や文章が所狭しと並んでいました。これは中國全土で行われた周恩来の追悼なのだそうです。

さて周恩来は毛沢東の妻の江青に憎まれていました。特に文化大革命の間は何度も殺されそうになったそうです。ある時はチベット出張から帰るとき乗った旅客機が江青の命令で飛び立った戦闘機に撃墜されそうになったそうです。戦闘機が2機、周恩来の乗った旅客機を挟んで接近してきます。あわや撃墜という場面です。しかし2機の戦闘機は打ちません。翼を上下に振りながら追い抜いて行っただけでした。戦闘機に乗っていた兵士が周恩来を好きだったのです。
北京に戻った周恩来は病床の毛沢東を訪問し。チベット出張の報告をします。そして最後に「あなたの妻に撃墜されそうになりました」と静かに言ったそうです。
そのせいかは分かりませんが、周恩来のガンの治療を江青一派に妨害されガンで亡くなったそうです。1981年に北京で中国人から直接聞いた話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は1972年2月の北京空港での写真です。
2番目の写真は1972年9月の北京空港での写真です。
3番目の写真は左から順に周恩来、毛沢東、田中角栄の写真です。

「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
これは古い話です。1970年代のことです。しかし忘れられない時代でした。日中関係が非常に良かった時代のことです。
正確に書くと、それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代をもう一度思い出します。
まず1949年に中国が共産国家として成立した以後の歴史をもう一度振り返ってみましょう。
周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代を考える場合に以下のような3段階に分けて考えてみたいと思います。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結
(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入

それでは上の3段階を順々に考えて行きます。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
日中戦争は昭和5年(1930年)始まりました。当時の中国は国民党の蒋介石が勢力があり日本は蒋介石を倒すために激しく攻め込みました。一方、中国共産党も支配地区を広げつつありました。その国民党と共産党が合作し団結して日本軍に立ち向かいました。
しかし第二次大戦が終わる頃には日本軍は大部分の中国を占領してしまうのです。この日中戦争で日本軍は約55万人が戦死し、中国人は民間人も含めて、約200万人から1000万人の死者が出たといいます。
一方、日本の敗戦の1945年前後から共産党軍が国民党軍を各地で打ち破り、蒋介石は台湾に退いたのです。
そうして1949年の10月、晴れ上がった天安門広場で毛沢東主席が新しい中国の成立を高らかに宣言したのです。そこまでが毛沢東の輝かしい功績でした。

その後、ソ連のスターリンが死ぬと中国はソ連と仲間割れをします。中国への唯一の大きな支援国のソ連と断交したのですから、中国は困難な状態になります。
そして毛沢東の指導による「大躍進政策」も失敗に終わり、何百万人という農民や都会の市民が餓死したのです。
「大躍進政策」の非合理性は考えただけでも一目瞭然です。これは毛沢東の犯した大きな失敗でした。
大躍進政策では稲を密植すれば大きな収穫が得られると全国で水田に苗の間隔を開けずに密植したのです。結果は大減産で農村が飢饉に襲われたのです。鉄の増産をするとして近代科学に反する土坑製鉄を全国に展開し、逆に鉄の生産が低下したのです。それは滅茶苦茶な政策でした。
この大躍進政策の失敗で毛沢東の権力は低下します。合理的な経済政策を進めようとした政治家が権力を持ち始めたのです。
そこで毛沢東はもう一度権力を自分に集中しようとして「文化大革命」という権力闘争を全国的な規模で行ったのです。文化大革命は1966年から1976年まで続きます。

この間、若い学生を紅衛兵として動員し、権力を持っている政治家を次々に襲い失脚させたのです。
紅衛兵は軍隊のように北京や上海のような大都会の政治家、知識人、などを襲ったのです。その一方で紅衛兵には食料を補給する部隊がついていません。北京や上海では一般の民家に押し入り食料を強奪し、寝泊まりを強要したのです。
一部の紅衛兵は武器を手に入れる為に共産党の支配している正規軍を襲うようになります。
こうして文化大革命の後半になると、銃を入手した紅衛兵と正規軍との間で市街戦が行われるようになったのです。まさしく内戦のような状態になってしまったのです。

文化大革命は輝かしい中国共産党の歴史のなかで最大の大失敗です。従って、その後の中国共産党はこの大失敗を隠すために文化大革命は暴力や武力を一切使用しない討論だけによる権力闘争だったと宣伝しています。

私は1981年に中国に行き、文化大革命で紅衛兵の暴力を受け、農村に放逐された人から文化革命の凄惨さをさんざん聞きました。その人は大学教授でした。農村では毎日豚の糞尿の掃除をし、わずかな食糧で飢えの毎日だったそうです。彼は怒っていました。共産党軍に参加して、天津市を解放し、新しい中国の成立に協力した自分の受けた仕打ちを怒っていました。
そんな文化革命を多くの日本人は討論だけによる権力闘争だったと信じているのです。
私は何故、文化大革命のことを詳しく書くのでしょうか?
それはその後の周恩来と田中角栄による日中国交回復の原動力になったと考えるからです。
鄧小平による市場経済路線への大転換と日本との熱烈友好関係の原動力になったと私は考えるからです。
もっともその背景には1966年から1975年まで続いたベトナム戦争が深い影響を与えていました。
キッシンジャー国務長官と周恩来の信頼関係が米中友好関係を推進し、それが日中関係へ深い影響を与えていたと考えるのが公平な歴史認識だと信じています。
少し長くなりましたので続きは次回にいたします。
今日の写真は周恩来と鄧小平と毛沢東の3人の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
周 恩来(1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
鄧 小平(1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、その後継者である華国鋒から実権を奪い、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
毛 沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。

「印象派の中心にいたピサロの油彩画」

2024年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
何故かわかりませんが、私はピサロの絵が好きです。そこでその油彩画をお送りいたします。
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830年 - 1903年)は19世紀フランスの印象派の画家で 印象派の中心的な存在でした。風景画を数多く残しています。どれも穏やかで静謐な情感に溢れています。
カリブ海のセント・トーマス島の生まれです。家業の金物屋を手伝っていましたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、島を出ました。
1855年(25歳)の時に画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合ったのです。
1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選しましましたが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し生活は困窮します。
当時はコローにならった画風でした。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれています。年長のピサロもこれに加わるようになります。
1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作をさかんに行っています。明るい色調の絵画を描いていました。
その後、ピサロは、1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズのエルミタージュ地区に住みます。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々、市場の様子など、田園の日常の姿を描きます。
ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月、パリに戻ります。そのパリで突然倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなったのです。享年73歳でした。
ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、葬儀には、モネとルノワールが参列しました。
ピサロは常に印象派の中心にいましたが生活は苦しかったのです。そんな生涯に描き続けた油彩画の幾つかをお送りいたします。絵は私の好きなものをえらびました。
1番目の写真は『ポントワーズのオワーズ川のほとり』です。1872年。油彩、キャンバス、35 × 91 cm。個人コレクション。 

2番目の写真は『ヴォワザン村の入口』です。1872年。油彩、キャンバス、46 × 55.5 cm。オルセー美術館。 
3番目の写真は『ポントワーズの眺め』です。1873年。油彩、キャンバス、55 × 81 cm。個人コレクション。 
4番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』です。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。 
5番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』で」す。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。です。
6番目の写真は『カフェ・オ・レを飲む若い農婦』です。1881年。油彩、キャンバス、65.3 × 54.8 cm。シカゴ美術館。第7回印象派展出品。 
7番目の写真は『リンゴの収穫、エラニー』です。1888年。油彩、キャンバス、61.0 × 74.0 cm。ダラス美術館 点描で描いています。」
8番目の写真は『オクターヴ・ミルボーの庭、テラス、レ・ダン』です。1892年。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。個人コレクション。
今日の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD でした。

以上、私の好きなカミーユ・ピサロ の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「年老いて振り返る我が人生(7)留学先のオハイオ州立大学のこと」

2024年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると懐かしいのは最初のアメリカ留学です。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。
その時アメリカの豊かさに驚愕する体験をしたのです。戦争で負けてひどく貧しい生活をしていた日本から豊かなアメリカに行って驚きました。それは人生で一番大きいな驚きでした。感動でした。これでは戦争に負けるとしみじみ思いました。真珠湾攻撃をした日本の愚かさに失望しました。
今日はアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書いてみたいと思います。
まずオハイオ州立大学の規模があまりにも壮大なので驚き感動しました。大学専用の飛行場を持っているのです。そして学生が格安で使える18ホールのコースを2つ揃えたゴルフ場を持っていることです。その広さは日本の大学と比べようもありません。
アメリカ全土には、同じように壮大な規模の大学が数十あると聞いて、私は度肝を抜かれました。そうしてこんなにも豊かな国と戦争をした日本民族の愚かさをしみじみ想ったのです。国力の差で戦争に負けたとさんざん聞いていましたが、その差があまりに大きいことに愕然としたのです。はるばる遠いオハイオ州まで旅をして日米の国力の決定的な相違を始めて知ったのです。
オハイオ州立大学の風景を写真に従ってご紹介します。
アメリカの大学は広大な敷地の中に建物を建てています。その様子は街の中の古い建物をそのまま校舎として使っているヨーロッパの大学とは大いに違います。
1番目の写真は校地の中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。
2番目の写真は数万人を収容する巨大なスタジアムです。写真の下方に写っている自動車と比較してみるとスタジアムの巨大さが分かります。この大学はアメリカン・フットボールが強いので有名なので、スタジアムも立派なのです。試合のある時は入場券が売れすぎて入手が困難なのです。私はフルブライト留学生だったので地元の新聞社、コロンバス・デスパッチ社がすぐに招待してくれたお陰で観戦することが出来ました。
3番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。この写真では右のほうに玄関がありますが、その右の1階には、私が作った実験措置が置いてあった部屋があり、2階には講義室がありました。
4番目の写真はこの大学の金属工学科の入っている主な建物です。玄関を入ってすぐ右に学科主任のフォンタナ教授の部屋がありました。イタリア系の人でいシシリー島のギャングの親玉の風貌でしたがとても優しい性格の教授でした。そして学科主任の秘書はヘレンという面倒見の良い上品な女性でした。学科主任にアポ無しで何時行ってもニコニコしてすぐに学科主任に会わせてくれたのです。ヘレンが引退したとき、日本に観光旅行に来ました。帝国ホテルに泊まったので昔世話になった日本人留学生が集まり歓迎会をしました。ちょっと脱線しましたが今日は1960年代のアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書きました。

茫々、あれから60年です。親切に接してくれた全ての人に感謝の気持ちがいっぱいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(6)アメリカでの質素な結婚式とレセプション」

2024年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
結婚は人生の重大なことです。私は65年間幸福な結婚生活を続けています。今日は私どもの結婚に関することです。
67年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。もう67年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。
1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。
 
2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。

3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。

4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です。レセプションはダウンタウンのディッシュラ―ヒルトンホテルで行いました。左の人が私の指導教官のセント・ピエール教授です。セント・ピエール教授の右に私の父は立っていましたがこの写真では人陰になって写っていません。

5番目の写真はデョッシュラ―ヒルトンホテルで行ったレセプションに出てくれた同級生です。

6番目の写真はレセプションに出てくれた同級生の奥さん達です。
結婚式とレセプションには内木先生夫妻や秦先生夫妻も出てくれました。内木先生と秦先生の奥さんは色鮮やか和服姿でした。
同級生の2人はレセプションの後で残った大きなウエディングケーキを私どもの家に届けてくれたのです。おかげで私どもは数日間ケーキを美味しく食べました。
7番目の写真は無事に結婚した直後の私どもと私の父の写真です。私どものアパートの駐車場でした。

今日は私どものオハイオ州のコロンバス市での結婚に関する写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(5)旧制の中学校のようだった仙台一高」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和26に宮城県立仙台第一高等学校へ入学しました。先生たちはみな旧制の仙台一中の先生でした。新制高校が出来て2年目なので旧制の中学の先生がそのまま残ったのです。自由で民主的な愛宕中学校から古い雰囲気の仙台一高に入ったのです。
印象的だったのは漢文とドイツ語の授業でした。旧制の中学の漢文の先生がいろいろな漢詩を朗々と謳います。ドイツ語の先生はリルケの詩をドイツ語で暗唱します。英語の先生はサマセット・モームの小説の原文を読ませます。
仙台第一高等学校の授業ははそういうものでした。
生徒たちは宮城県全域から集まった秀才です。旧制の教育はそういうものでした。
思い出の深いものは数々のクラブ活動でした。野蛮な応援歌の練習でした。
旧制の仙台第一中学校と仙台第二中学校の野球の試合は古くからの伝統だったのです。野蛮な応援歌の練習はそのためだったのです。
クラブ活動で海水浴場に近いある別荘に泊まり込んで毎日泳ぎました。上級生が厳しかったので辛い思いをしました。
クラブ活動として木工部に入りました。ところがそのクラブでは木工はせずに、松島湾でカッターを漕いだのです。カッターだけでなく細い艇身のスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。スライデイングやフィックスは東北大学の漕艇部から借りて来ました。東北大学の漕艇部はオリンピック出場めざしてスライデイングやフィックスを漕いだのです。
クラブ活動としての木工部では蔵王山にも登りました。中腹にテントを張り寒い夜を過ごしました。
仙台第一高等学校の校風は質実剛健でした。その質実剛健が懐かしいです。

今日は旧制の中学校のような仙台一高のいろいろな思い出を書きました。

添付の写真は松島の風景と細い艇身のスライデイングやフィックスです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「年老いて振り返る我が人生(4)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です。
仙台市には新制中学校が幾つも出来ました。私共が入学した第十中学校は昭和22年に発足しました。学校の名前はすぐ後に愛宕中学校と改称されました。我々はその二期生として昭和23年に入学したのです。
その頃の新しい中学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。今でも忘れられません。
特に忘れられないのが高橋貞明先生です。愛宕中学で我々のクラスの担任をしていた先生です。高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。
忘れられないのは踏査部の部活で一緒に仙台のすぐ西に聳える泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。
この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。
私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生のお世話になりました。
とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私たちの悪童連を何度も自宅に招んでくれました。
そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。
私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。
愛宕中学校卒業後に60年ほどたってから仙台で愛宕中学校の同期会がありました。
その時、話題になったのは高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。
当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。
終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。
ここで仙台の様子を示す写真をお送り致します。
1番目から3番目の写真は2012年10月18日に私が仙台に行き撮った片平町、お霊屋下、鹿落坂、の写真です。
1番目の写真はタクシーの窓から片平町の東北大学を撮った写真です。正面の赤レンガの建物が私が卒業した東北大学の金属工業科です。

2番目の写真は片平町と向山を結ぶお霊屋橋です。この橋を渡って毎日、片平町の東北大学に通ったのです。

3番目の写真はお霊屋下から向山に登って行く鹿落坂です。毎日、東北大学に通った坂です。
伊達政宗の廟所は経ヶ峰という山にあります。その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。
私は24歳で仙台を出るまで、鹿落坂の上の向山に住んでいました。家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺山があります。家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区なので何十年経っても昔のままの森林に覆われています。
話が仙台の愛宕中学の高橋貞明先生からそれてしまいました。高橋貞明先生の話に戻します。
先生は情熱的でした。自分の家に私達を招んでくれました。しかし24歳で仙台を離れた私は高橋貞明先生のことを忘れていました。
ところが約30年後の1993年の息子の東京での結婚式・披露宴に出席してくれたのです。息子の結婚相手の親類だったのです。私は懐かしのあまり涙が出そうでした。貞明先生は昔のまま若々しくはつらつとしていました。これぞ奇跡です。忘れられないことでした。

人生にはいろいろな事があるものです。
今日は仙台の愛宕中学で大変お世話になった高橋貞明先生の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(3)悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦直後の昭和23年に新制中学校に入学しました。仙台市立愛宕中学校です。
新制中学校とはマッカーサー総司令官の命令で出来た新しい学校制度の中学校です。
それまでの旧中学校は新制の高等学校になりました。昔の学校制度では小学校までが義務教育でしたが新制の学校制度では新制中学3年までが義務教育になりました。
したがって全国に小学校の数と同じ中学校の校舎を急遽作らねばなりません。
悲惨なことは校舎のない愛宕中学校に入学したことです。
今日は校舎のない愛宕中学校での体験を書きたいと思います。
教室も体育館もありません。そこで既存の荒町小学校の教室を借りたのです。荒町小学校は一クラスの人数を増加して教室をあけてくれたのです。しかし机と椅子はありません。間借りした我々は木の床に座ってミカン箱を机にして勉強したのです。木の床は酷いものでした。荒れ果ててザラザラして冷たいのです。その木の床に座っての勉強が1年過ぎた頃机と椅子が来ました。
そしてその頃、愛宕中学校の新しい校舎が向山地区の遠藤山の上に出来ました。我々は机や椅子を担いで荒町小学校から2㎞離れた山の上に出来た新しい中学校の校舎へ引っ越しました。途中の道を歩く私の心は嬉しさでいっぱいでした。新しい校舎は木の香りがして先生もみな嬉しそうにしていました。
新しい校舎は遠藤山の上にあったので北には愛宕山があり、その向こうに仙台の中心街が広がっていました。
南側には大年寺山が連なり八木山へとつずいています。中学校の校舎は風光明媚な場所にあったのです。新しく校歌も出来ました。その後新しくいろいろ部が出来て楽しい思い出が出来ました。

今日は「年老いて振り返る我が人生」の(3)として「悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」を書きました。

現在の愛宕中学の写真と鹿落坂と向山地区と愛宕神社の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は現在の愛宕中学の写真です。私が通っていた頃は粗末な木造校舎が2棟だけでした。
2番目の写真は霊屋下から向山地区へ登る鹿落坂xです。
3番目の写真は愛宕中学校のある向山地区です。愛宕中学校はこの写真の左端にありました。後ろの山並みは八木山です。
4番目の写真は愛宕神社の写真です。愛宕山は中学校の北にあり、その向こうに仙台の中心街が広がっています。

「年老いて振り返る我が人生(2)戦前、戦後の小学生の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年に生まれ昭和17年、かぞえで7歳の時小学校に入学し昭和23年に卒業しました。真珠湾攻撃が昭和16年12月8日でした。私の小学校の頃は戦前、戦後をまたいでいました。戦前の仙台の様子も終戦直後の仙台を覚えています。
今日は戦前、戦後の小学生の頃のいろいろを書いてみたいと思います。当時新聞やラジオで知ったことと後に知ったことです。
一番驚いたことは新聞やラジオで大々的に報道された日本航空隊の真珠湾攻撃のニュースでした。大勝利で日本中が大騒ぎしていました。
今日は写真にしたがって真珠湾攻撃とそれに続く戦前、戦後のいろいろを書いてみたいと思います。
1番目の写真は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の写真です。
アメリカの大平洋艦隊が大打撃を受け日本中が大騒ぎになりました。真珠湾攻撃の写真はその後何度も新聞や雑誌に掲載されましたので真珠湾攻撃の写真は私の心に焼き付いています。

2番目の写真は真珠湾攻撃に向かう日本の攻撃機です。
数隻の航空母艦から飛び立ちました。真珠湾攻撃の司令官は山本五十六大将でした。その後、アメリカは山本五十六大将の乗機を打ち落とし真珠湾攻撃の仇を取ったのです。
3番目の写真は南太平洋のインドネシアのスマトラ島南部 のパレンバンに降り立った日本の落下傘部隊です。空の神兵です。
これも何度も新聞や雑誌に掲載されましたので私の心に焼き付いています。
4番目の写真はB29の焼夷弾で焼野原になった仙台の光景です。
小学校の3年生だった私は焼野原になった仙台の街を歩き回り見ました。
5番目の写真は8月15日の日本の敗戦後の9月に厚木基地に降りるマッカーサー総司令官です。コーンパイプを咥えて日本占領に来たのです。
6番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官を表敬訪問した時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは正装していません。日本の屈辱です。戦争に負けるとこういうことになるのです。
7番目の写真は戦後日本を占領したアメリカ兵と日本の女性達です。
さて戦前、戦後に小学生だった私はどんな経験をしたでしょうか。
何と言って一番悲しかった記憶は食糧難の記憶です。毎日飢えていました。終いには庭に生えていた「はこべ」を茹でて食べました。アクが強くて苦いのです。そしてイワシの配給に大喜びしました。イワシの美味しさを忘れられません。

今日は「年老いて振り返る我が人生 」の(2)として「戦前、戦後の小学生の頃」を書きました。一番悲しかった記憶は食糧難の記憶でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(1)出生と幼児の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
私の邯鄲の夢も終わりに近づきました。そこで我が人生を振り返っていろいろなことを総括した連載記事を書くことにしました。
私は昭和11年1月18日に父の秀弘と母のタエの子として仙台で生まれました。男だけの3人兄弟の長男でした。
当時の父は東北帝国大学の教授で母は宮城県立女子専門学校の教師でした。父の実家は兵庫県の山里の曹洞宗のお寺で母の父は宮城県の宮戸島の小学校の校長をしていました。両親は仕事が忙しかったのか幼い頃遊んでもらった記憶があまりありません。
家には2人の女中がいて私と2人の弟は女中に育てられました。女中に動物園に連れていかれたことが幼児の頃の楽しい思い出です。
幼児の頃に住んでいたところは郊外の向山でした。広瀬川の南側の高台でした。
ここで戦前の仙台の駅前広場や育った向山地区にある経ケ峰や愛宕山の写真をお送り致します。写真とともに幼児の頃のいろいろを書きました。

1番目の写真は戦前の仙台駅の風景です。右の方に客待ちの人力車が並んでいます。女中に抱かれて人力車に乗った記憶があります。タクシーには滅多に乗りませんでした。
2番目の写真は戦前の仙台の繁華街の東一番丁の風景です。子供の頃は用もないのにブラブラ歩いたものです。
3番目の写真は高台の青葉城跡から見た経ケ峰です。伊達政宗の霊廟の瑞鳳殿と瑞鳳寺があります。経ケ峰の手前の広場に昔は仙台動物園がありました。
4番目の写真は瑞鳳寺から霊廟の瑞鳳殿に登って行く石の階段です。
5番目の写真は瑞鳳寺です。昔は幼稚園も経営していました。私が通った幼稚園です。しかし3日目に辞めた幼稚園でした。2人の女中に甘やかされて育った私には厳し過ぎたのです。人生最初の挫折でした。
6番目の写真は愛宕山です。手前は広瀬川で愛宕山の向こう側に住んでいました。山頂の愛宕神社の祭礼は楽しい思い出です。
7番目の写真は仙台の広瀬川と 評定河原から見た経ケ峰(左)と青葉城跡(右)です。

さて今日は「年老いて振り返る我が人生」の(1)として出生と幼児の頃のいろいろを書きました。戦前の仙台の写真や育った向山地区にある経ケ峰や愛宕山の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「思い出す北海道の鮭と村上の三面川などの鮭の遡上」

2024年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム
昔から私は鮭が川を遡上する光景に憧れていました。その光景を想像するとロマンティックな気になります。鮭の遡上の光景を見たいという夢は北海道への旅でかないました。北海道の東部の中標津町の「サーモン科学館」で鮭の遡上を見たのです。
今日は北海道のサーモン科学館をご紹介したいと思います。そして本州の鮭の遡上の写真も紹介致します。
北海道の東の中標津空港から国道を真っ直ぐ東へ走って、太平洋に抜けたところに標津町という町があります。その町に流れる標津川は毎年30万匹の鮭や鱒が遡上することで有名です。その量は日本一とも言われています。
標津町は鮭漁からの収入で立派な「サーモン科学館」を作り、遡上する鮭や鱒を観光客へそのまま見せる魚道を作りました。標津川から魚道を「サーモン科学館」の中へ導き、そしてその側面をガラスにした施設です。
お客はその日に海から標津川へ遡上してした鮭や鱒をガラスの向こうに見ることが出来るのです。いろいろな種類の鮭や鱒が大小混じって遡ってくるのです。
私が訪問した前日の雨で魚道を流れ下る水が濁っていました。しかし大きな鮭や鱒が勢い良く登ってくる姿は明瞭に見ることが出来ました。感動しました。
下は家内がサーモンタワーの最上階から撮った写真です。まず太平洋へ流れ下っている標津川の写真です。
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1番目の写真は鮭が遡上する標津川の写真です。
この写真の左端近辺から魚道を手前のサーモン科学館の館内へ導き入れてあるのです。河口からその日に遡って来た鮭や鱒がその魚道を通って、下の写真のように館内で見ることが出来ます
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2番目の写真はに遡って来た鮭や鱒です。
よく見ると樺太マスや青サケや鼻曲がり鮭などいろいろな種類の魚が混じっているのです。
このサーモン科学館の全景を示します。高い塔はエレベーターで展望室まで上がれます。そこから標津川がよく見えますし、分流した魚道もはっきり見えます。
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3番目の写真はサーモン科学館の全景です。
館内には巨大な水槽があり、鮭や鱒、そしてイトウやチョウザメなどが泳いでいるところを展示しています。
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4番目の写真はは北海道の湿原にいるマボロシの魚のイトウです。2メートルにもなるそうです。
庭には公園のような池もあり白鳥が遊んでいます。
そして館内には捕れたての鮭を売っていて、全国へ発送してくれます。
また館内には立派な和食処があり海鮮を中心にした食事も出来ます。
「サーモン科学館」は平成3年9月にオープンされました。

さて鮭の遡上は北海道だけでなく日本列島の北部の河川でも見られます。
(「鮭」、https://salmoneel.com/salmonidae/oncorhynchus-keta/ )
日本における主な遡上は東北以北です。しかし自然分布の南限は佐賀県の松浦川とされています。日本海側では山陰以東、太平洋側では関東の利根川以北で毎年遡上がみられます。

5番目の写真は鮭の遡上が見られる範囲を示しています。

6番目の写真は多数の鮭の遡上が見られる河川です。写真の出典は、
「サーモンミュジアム」、https://www.maruha-nichiro.co.jp/salmon/fishery/02_02.html です。
日本海側の一例として村上の三面川(みおもてがわ)での鮭の遡上を示します。鮭の町、村上ではそれぞれの家庭で塩引き鮭を作るそうです。村上市庄内町は「鮭塩引き街道」として有名です。
毎年この時期になると大きな塩引き鮭が軒先にぶら下がっている風景写真が新聞にでます。

7番目の写真は新潟県、村上の軒先に吊るされた塩引き鮭の写真です。
写真の出典は、http://www.senamiview.com/blog/log/eid196.html です。
私の故郷の仙台の広瀬川でも毎年5000匹も遡上しています。
関東地方は利根川だけでなく那珂川、桜川、鬼怒川と多くの川で鮭の遡上が見られます。
8番目の写真は仙台の広瀬川に遡上した鮭の泳ぐ姿です。
なお広瀬川に遡上した鮭の動画:http://www.youtube.com/watch?v=9yq4wj0rMNA も是非ご覧下さい。

今日は北海道のサーモン科学館をご紹介しました。そして本州の鮭の遡上の例として村上の三面川で捕った鮭の塩引きと仙台の広瀬川の鮭の遡上の写真をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「美しい雪景色を懐かしむ、そして『雪の降るまちを』」

2024年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の冬は寒い晴天の日が続き雪が降りません。北国の東北で育った私にとって雪景色の無い冬は何か物足りない淋しいものです。
しかし震災津波の災害に遭われた能登の方々の苦難はいかばかりでしょうか。
雪景色の写真を探し、その中から写真を選んでお送りします。
写真の出典は、「北陸の冬の絶景を紹介」、https://www.jre-travel.com/article/00275/ です。
1番目の写真は富山の市街地から眺める真っ白な北アルプス です。
2番目の写真は富士山(静岡県、山梨県)、立山(富山県)と並び日本三名山に選ばれている白山 です。
 
3番目の写真は相倉合掌造り集落 です。世界遺産に登録され、四季折々の表情を見られることで知られています。 

4番目の写真は立山黒部アルペンルートです。富山県と長野県にまたがる山岳観光ルートです。3,000m級の北アルプスの山々を背景にした広大な絶景ルートです。 

私は北陸と同じように雪降りの多かった東北地方に住んでいました。
その東北地方に住んでいた頃、「雪の降るまちを」という歌謡曲が流行っていました。ですから雪景色の写真を見ると「雪の降るまちを」という歌を必ず思い出すのです。

「雪の降るまちを」は1952年にヒットした内村直也作詞、中田喜直作曲の歌でした。この曲は1951年にNHKラジオで放送された連続劇「えり子とともに」と一緒に放送されていました。

「雪の降る町を」の歌詞です。

雪の降る町を 雪の降る町を
思い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る町を遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの日にか 包まん
あたたかきしあわせのほほえみ

雪の降る町を 雪の降る町を
足音だけが 追いかけてゆく
雪の降る町をひとり心に満ちてくる
この悲しみを この悲しみを
いつの日か ほぐさん
緑なす春の日の そよかぜ

雪の降る町を 雪の降る町を
息吹きと共に こみあげてくる
雪の降る町を 誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か 祈らん
新しき光ふる 鐘の音

この歌のYou Tube は以下にあります。
シャンゾン歌手の高英男、「雪のふるまちを」、https://www.youtube.com/watch?v=E3FjPLr8wMg

倍賞千恵子、「雪の降る町を」、 https://www.youtube.com/watch?v=tbk5shjbc-Q

雪の降る町を ダーク・ダックス、https://www.youtube.com/watch?v=_-53iLSJWfU

それにしても東京はめったに雪が降りません。しかし雪景色が懐かしいです。雪の積もった風景には詩情がありますね。ですから「雪の降るまちを」という歌謡曲を思い出すのでしょう。皆様はこの歌を覚えていらっしゃいますか?高齢の方は覚えていると思います。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「昔の日本の冬は貧しくて寒かった」

2024年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、東京も寒さが一段と厳しくなって来ました。毎年2月になると私が住んでいる小金井にも雪が降ります。
私は北国の仙台に生まれ育ったので雪の坂道で橇遊びや竹スキーをしました。雪が懐かしいです。そこで小金井公園の雪景色の以前の写真をお送り致します。小金井公園が雪で埋もれています。
1番目の写真は雪で覆われた「みんなの広場」の風景です。
2番目の写真は3人の若者が雪達磨を作って遊んでいる風景です。写真を撮っている家内へ自分達はカナダから来てスノウマン造りのプロだと言ったそうです。
3番目の写真は家内がジョギングしている風景です。
毎年寒くなると戦前、戦後のころに過ごした仙台の冬の日々を思い出します。
当時は日本中が貧しくて、ひもじくて冬の寒さが一層厳しく感じられたのものです。家の暖房といえば火鉢の小さな炭火と練炭コタツしか無いのです。その上、外と家の中を仕切るガラス戸の立て付けが悪くて隙間風が入って来ました。
吹雪の夜に寝ていると枕もとまで雪片が入ってきたものです。
現在の日本の家はガスストーブや電気ストーブやエアコン暖房で温められていて冬の寒さなど怖くありません。
しかし時々は昔の冬の寒さを思い出した方が良いのではないでしょうか?
その冬の寒さを考えると春の有難味が一層深くなります。四季のあることに感謝したくなります。日本に生まれた幸せをしみじみと感謝します。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出」

2024年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昔はテレビも無く娯楽と言えばハイキングや海水浴だけでした。そこで海水浴の思い出を書いてみようと思います。
戦前戦後の貧しかった時代の夏の楽しみは近くの浜で海水浴をすることだったのです。
私の幼い頃は仙台でしたので海水浴と言えば仙台から近い荒浜か菖蒲田浜でした。とにかく夏になると何度も行きました。少し遠方では松島湾の桂島や宮古島へ行ったこともあります。
足が焼けるような砂浜を歩いて波打ち際に立つと冷たい透明な海水が足を洗い、心地良いものでした。
そんな話を朝食の時にしましたら、家内は自宅から歩いて何度も海水浴に行ったと云います。鎌倉の加賀様の別荘の下に家があったので松林を抜けて由比ヶ浜に出たそうです。
夏の日の楽しい思い出は人それぞれ沢山あると思います。
裏の林に入って蝉を取ったり、近所の小川で魚を追ったりした思い出がある方も多いと思います。
あるいは夜に怪談を聞き、暗い墓地へ行く「肝試し」を懐かしく思う人もいます。
そして花火です。昔は線香花火を丁寧に持って、パチパチと火花を咲かせたものです。以前は街灯が無くて夜が暗かったので線香花火でも大きく美しく見えたのです。
そして夏の果物と言えばスイカとマクワウリです。
スイカを網に入れ、深い井戸に吊るして沈めるのです。夜になって家族がそろったらスイカを引き上げて、切り分けて食べるのです。甘い淡い香りとあのみずみずしさが忘れられません。ところで最近はマクワウリという果物がなくなってしまいました。小さい枕のようにひょろ長いウリです。これも井戸水で冷やして食べます。中心の種の部分にある綿がほのかに甘くて美味しいのです。味は現在よく売っているアンデスメロンに似ていますが甘味はもっと薄かったです。
夏は子供にとっては天国です。夏休みが長いうえに、親たちもお盆のころ休暇をとり、よく家族旅行に行きます。家族旅行といっても海外旅行ではありません。近くの山に登ったり、温泉地へのせいぜいに一泊の旅です。それが滅法楽しかったのです。田舎の祖父母の家へ帰省するのが嬉しかったものです。
夜になると、現在は無くなりましたが蚊帳というものを吊ります。蚊帳に入ったり出たりして遊んだものでした。
そして家には網戸などありませんから蚊は出入り自由です。キンチョーの渦巻き形の蚊取り線香の煙の匂いが懐かしいです。
それにしても昔は冷房装置など無かったのです。しかし暑苦しくで困ったという記憶がないのです。夏になると楽しかった子供のころをいろいろ思い出します。
しかし楽しい思い出だけではありません。夏の大空襲で仙台市が一面の火の海になった光景を思い出します。そして、じりじり照りつける太陽の下で玉音放送を聞いたことも忘れません。

年老いた現在は楽しいことを思い出します。そして想います。家庭の事情で夏も働かなければならなかった人々を。

今日の挿絵の写真は以前に海水浴に行った所の現在の写真です。みな昔海水浴に通った場所です。

さて皆様はどうのような楽しい夏の思い出をお持ちでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は宮城県宮戸島の遠景です。
2番目の写真は宮城県菖蒲田浜です。

3番目の写真は松島湾の桂島の海水浴場です。
4番目の写真はは宮城県宮戸島の月浜の写真です。

「泳ぎが上手だった祖父と宮戸島の「みのあんつあん」の思い出」

2024年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は泳ぎが上手だった祖父と宮戸島の懐かしいおじさんのことを書いてみたいと思います。松島湾の宮戸島のことです。
母方の祖父は松島の東にある宮戸島の小学校の校長をしていました。私が生まれる前に病死したので一度も会ったことがありません。昭和の初めころのことです。情に篤い人でしたが酔うと松島から泳いで宮戸島まで帰ってきたそうです。泳ぎが上手い豪の者だったそうです。弟子たちを可愛がることで島では有名な校長だったそうです。
そんな弟子の一人に「みのあんつあん」という小父さんがいました。恩義に思って私どもを何度も島に招んでくれました。
島で泊る所は決まっています。祖父が下宿していた曹洞宗のお寺です。室浜から山を隔てた小高い場所にある質素なお寺です。祖父は本堂の客殿に寝ていたそうです。
校長をしていた室浜の小学校で一杯の酒を飲んでほろ酔いで道の無い山を越えて下宿先のお寺に帰ってきたということです。
宮戸島に行くとお寺の住職や「みのあんつあん」が祖父の話をいろいろします。ですからその島は死んでしまった祖父と会う島だったのです。
特に「みのあんつあん」は我々を大歓迎してくれました。珍しい大きなアワビや茹でたシャコを大皿に山盛りにして出してくれます。そして室浜から舟を漕ぎ出して嵯峨渓を海から見せてくれるのです。風景の写真を示します。
1番目の写真は宮戸島の室浜です。こんな美しい浜が島には4つ程ありました。「みのあんつあん」は舟を漕ぎ出して嵯峨渓を海から見せてくれるのです。私が8歳の頃から見た懐かしい風景です。
2番目の写真は宮戸島への定期船が発着する港です。当時島に行くには仙台から電車で塩釜まで行って、そこからポンポン船に乗って島へ渡ったのです。
3番目の写真は宮戸島の日本三大渓の1つ「嵯峨渓(さがけい)」です。松島とはまた違う絶景です。 
4番目の写真も嵯峨渓です。宮戸島には「嵯峨渓」の他に眺望の美しい「大高森」などがあります。 大高森の頂上からは松島湾が一望出来る有名な場所です。
宮戸島には不思議な思い出があります。泊まっているお寺の庭に夜に出てみると人魂が見えるのです。向かいの山の中腹を明るく光った人魂がユラユラと漂っているのです。そのことを住職さんに話すと、「明日はお葬式がある」と言います。そしてお葬式用の衣の準備をするのです。
また本堂の脇の客殿に寝ていると夜中に太鼓の大きな「ドンドン」という音がするのです。これも住職さんに話しました。「裏山に眠っている昔の住職さんが本堂でお経を読みながら時々太鼓を叩くのだ」と言います。そしてお前さんのお祖父さんも何度も聞いたと言います。住職さんは死者の身近にいるのです。
さて一方「みのあんつあん」は何度も仙台の私の家まで来てくれました。仙台にある魚市場の幹部をしていたのです。優しくて他人の世話をよくしていたので魚市場の幹部になったのでしょう。来るたびに大きなアワビや茹でたシャコや鯨の尾の身をいっぱい持ってきました。
この優しくて大柄な「みのあんつあん」は長生きしました。私が結婚して新妻をつれて室浜の「みのあんつあん」の家に行った1963年には元気で茹でたシャコを沢山出して歓迎してくれました。シャコを知らなかった妻はその美味しさに感動したものです。
その後、家内や子供達と共に行った時は子供達は始めて見る海の幸に驚きながら手づかみで美味しそうに食べていました。小金井の家にも海の幸をたびたび贈ってくれました。家内はお礼と手紙を送り、今も桃生郡宮戸島・・・と番地を憶えていて折に触れて大柄で優しかった彼の噂をしています。

嗚呼。「みのあんつあん」が死んでからもう何十年の月日が流れました。
しかし宮戸島や「みのあんつあん」の思い出は私の夢の中でいつまでも輝いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)