後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

『雪の降るまちを思い出だけが 通りすぎてゆく』

2025年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
私が東北地方に住んでいた頃、「雪の降るまちを」という歌謡曲が流行っていました。ですから雪景色の写真を見ると「雪の降るまちを」という歌を必ず思い出すのです。

「雪の降るまちを」は1952年にヒットした内村直也作詞、中田喜直作曲の歌でした。この曲は1951年にNHKラジオで放送された連続劇「えり子とともに」と一緒に放送されていました。

「雪の降る町を」の歌詞です。

雪の降る町を 雪の降る町を
思い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る町を遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの日にか 包まん
あたたかきしあわせのほほえみ

雪の降る町を 雪の降る町を
足音だけが 追いかけてゆく
雪の降る町をひとり心に満ちてくる
この悲しみを この悲しみを
いつの日か ほぐさん
緑なす春の日の そよかぜ

雪の降る町を 雪の降る町を
息吹きと共に こみあげてくる
雪の降る町を 誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か 祈らん
新しき光ふる 鐘の音

この歌のYou Tube は以下にあります。
シャンゾン歌手の高英男、「雪のふるまちを」、https://www.youtube.com/watch?v=E3FjPLr8wMg

倍賞千恵子、「雪の降る町を」、 https://www.youtube.com/watch?v=tbk5shjbc-Q

雪の降る町を ダーク・ダックス、https://www.youtube.com/watch?v=_-53iLSJWfU

それにしても東京はめったに雪が降りません。しかし雪景色が懐かしいです。雪の積もった風景には詩情がありますね。ですから「雪の降るまちを」という歌謡曲を思い出すのでしょう。皆様はこの歌を覚えていらっしゃいますか?高齢の方は覚えていると思います。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は富山の市街地から眺める真っ白な北アルプス です。
写真の出典は、「北陸の冬の絶景を紹介」、https://www.jre-travel.com/article/00275/ です。

「心を震わせる雪景色と雪女の恐ろしい物語」

2025年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
冬は寒いから嫌と言う人が多いと思います。しかしそんな冬でも美しいものがあります。それは心を震わせるように美し雪景色です。今日はまず雪景色の写真をお送り致します。
この3枚の写真はインターネットにある多数の雪景色の写真から特に心震わせるような3枚を選びました。
雪景色は美しいのですがその寒さは怖ろしいものです。私は東北地方に生まれ育ったので雪の夜の凍えるような寝床の冷めたさを知っています。吹雪の夜は雪片が家の中まで舞い込んできたものです。
そして怖い雪女の話をよく聞いていました。東北地方の話では必ず最後に雪女が男へ冷たい息を吹きかけて凍らせ、殺すのです。
雪女の伝承は日本各地にあります。村がが雪女に会ういきさつは地方、地方で違いますが、最後は息を吹きかけられ殺されます。
この写真は鳥取県境港市の水木しげるロードに設置されている「雪女」のブロンズ像です。
その例として以下に小泉八雲の「雪女」をご紹介したいと思います。『怪談』の中で雪女伝説です。

・・・この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである。
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。

ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。

女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「お前もあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、お前はまだ若く美しいから、助けてやることにした。だが、お前は今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。

それから数年後、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出逢う。二人は恋に落ちて結婚し、二人の間には子供が十人も生まれた。しかし、不思議なことに、お雪は十人の子供の母親になっても全く老いる様子がなく、巳之吉と初めて出逢った時と同じように若く美しいままであった。

ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉が言った。「こうしてお前を見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、お前にそっくりな美しい女に出逢ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」

巳之吉がそう言うと、お雪は突然立ち上り、叫んだ。「お前が見た雪女はこの私だ。あの時のことを誰かに言ったら殺すと、私はお前に言った。だが、ここで寝ている子供達のことを思えば、どうしてお前を殺すことができようか。この上は、せめて子供達を立派に育てておくれ。この先、お前が子供達を悲しませるようなことがあれば、その時こそ私はお前を殺しに来るから……」

そう言い終えると、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙出しから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。・・・・
(上記は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%A5%B3 より)

この話は多摩川の上流の現在の青梅市のそばにあった調布村に伝わる話です。
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い)出身の親子から聞いた話がもとになっていることがわかっています。

2002年には、秋川街道が多摩川をまたぐ青梅市千ヶ瀬町の「調布橋」のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が立てられました。表側には碑文が刻まれ、裏側には「雪女」の和英両方の序文と小泉の肖像が刻まれた銘板が嵌め込まれています。

私は奥多摩へドライブに行く時この雪おんな縁の碑を何度も見ました。

今日はまず雪景色の写真をお送り致し、続いて小泉八雲の「雪女」をご紹介致しました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「節分で豆をまく風習の歴史」

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の伝統的な行事はほとんど全てが中国から伝承されたものです。
豆まき や七夕も中国の道教から伝えてられ、初めは宮中での行事でした。
節分や豆まきは中国の宮中の風習でした。
日本では江戸時代になると将軍家や 一般庶民も 節分行事をやりはじめたのです。
豆まきは邪気を追い払うために、古くから行われていたのです、
文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年(1425年)正月8日(節分)を記した文書があるそうです。
宮中の『看聞日記』には鬼を打ち払う為に豆をまいたと書かれているそうです。このことから室町時代には既に都の公家や武家で豆まきが習わしになっていたことがわかります。
その20年後に編纂された辞典『壒嚢鈔』(1445年または1446年成立)巻一の八十三には、宇多天皇の時代(867年-931年)、鞍馬山の僧正が鬼が出て来て都を荒らすので、炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れた伝説が記されているそうです。
豆には生命力と魔除けの呪力が備わっているという信仰があったのです。
豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べるという習わしもあります。
府中市の大國魂神社では毎年節分祭がありあす。以前に大相撲の横綱稀勢の里が来たこともありました。
稀勢の里はこの神社に、2006年から毎年姿を見せておりました。
一方、関脇の玉鷲は調布市の深大寺に来て豆まきをしてくれました。
約1万5千人の人出でにぎわったそうです。
 約1300年の歴史がある深大寺で、豆まき式は江戸時代に始まったと言われています。
大國魂神社と深大寺の写真をお送りします。
1番目の写真は豆まきが始まる前の大國魂神社の拝殿です。沢山の人が集まって始まるのを待っています、
2番目の写真は大國魂神社に来た横綱、稀勢の里の姿です。
3番目の写真は大國魂神社で豆をまいている稀勢の里です。

4番目の写真は調布市の深大寺です。

5番目の写真は深大寺で豆を手に持った玉鷲です。

日本には春の七草に始まって、節分と豆まき、雛祭り、春のお彼岸と墓参り、端午の節句、七夕と星祭り、お盆の灯篭流し、秋のお彼岸と墓参り、秋の七草、除夜の鐘、年越しソバなどなどの伝統行事があります。
このような伝統行事を大切にする女性と全然関心の無い女性とがいます。
私個人の好みを書けば伝統行事を大切にする女性が好きです。なにか奥ゆかしい女性のように感じるのです。

今日は節分の豆まきについて書いみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「2月2日は恵方巻きを食べる日」

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

恵方の方角は年によって変わります。今年は「西南西」で西から少し南に傾いた方向です。恵方とは、その年の福徳を司る歳徳神がいる方角です。その方角に向かって願い事をしながら太巻き寿司を食べると一年の福を呼び寄せられるのです。 

15年以上まえにコンビニと海苔業界が組んで、「恵方巻き」を売り出して関西から全国に広がったとのことです。この節分の日に恵方巻きを丸かぶりして恵方の方角を見て黙って食べるのだそうです。

食べている間に家族の健康や幸福を祈るのです。あるいは今年こそ結婚できますように祈る人がいるかも知れません。安産を祈る人もいます。

祈るという行為は美しいものです。そして恵方という方角が重要な様子なので陰陽道に関係があると思いました。いろいろ調べました。

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1番目の写真は恵方巻です。写真の出典は、http://www.ueman.co.jp/masususiblog/2011/01/post-63.htmlです。

恵方巻きは寿司店、食料品店、スーパー、コンビニで売り出します。かなり高額です。高級な具材を使っているのです。

恵方の方角のはるかかなたに歳徳神という陰陽道の姫神様がいて、人々の願いをかなえてくれるのです。その神さまの絵を下に示します。


2番目の写真は歳徳神という陰陽道の姫神様です。絵の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%BE%B3%E7%A5%9E です。

「恵方巻き」という名前はコンビニ業界の商品名ですが、巻き寿司を節分の日にかぶりつき、歳徳神へ祈るという風習は大阪地方で江戸時代から連綿として行われてきたそうです。

以前、道教の庚申塔信仰の紹介をしましたが、恵方巻きも道教に関係が深い陰陽道の信仰形態です。

道教は日本へ浸みこんでいるのです。知らず知らずのうちに日本へ入って来た宗教なのです。

仏教もそうですが、いろいろな宗教が日本へ入ってきているのです。キリスト教の影響も深いのです。

日本人の70%は無宗教ですと自称します。しかし私はそれを信じません。本当に無宗教なら、恵方巻きがそんな多数に売れるはずがありません。

毎年節分には家内が孫たちにために10本も恵方巻きを作っていました。皆巣立ってしまいましたので、今年は買ってみようと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=========参考資料=ーーーー=============

近年、関西を中心として立春の前日の節分の日に恵方を向いて「太巻きの丸かぶり」が行われる事がある。これを恵方巻きの風習として2000年頃から日本各地で宣伝やキャンペーンを開始するにあたり、日常的な16方位による簡便な説明をしており、甲とすべき所を「東北東」、丙とすべき所を「南南東」と言い換える例が多くなっている。甲・丙などといった方角表記になじみがなくなってきたためともされるが、これでは方角が正しくない。たとえば甲は東から北よりに15°だが、これは東北東(同じく22.5°)より7.5°右である。なお32方位で表した東微北(同じく11.25°)よりは3.75°左である。しかし、巻き寿司にこだわらない人がいるように、正確な恵方にこだわらない人や正しい方角を知らない人もいる。












「月山、羽黒山、湯殿山などの出羽三山の写真」

2025年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
出羽三山は、山形県の中央にそびえる月山(1984m)、羽黒山(414m)、湯殿山(1500m)の総称です。三山といっても独立した三つの山があるわけでなく、月山を主峰に、峰続きの北の端に羽黒山があり、月山の西方に湯殿山があります。
 最近は寒い日々が続いています。特に夜はひどく冷え込みます。そんんな夜には森敦の「月山」という小説をを思い出します。
東北地方に生まれ育った私は「月山」に描かれた冬の寒さが身にしみてわかるのです。

冬を迎えると月山は吹雪や霧により下界と遮断されてしまう異世界なのです。

写真は月山、羽黒山、湯殿山などの出羽三山の雪景色の写真です。一番目の写真の中央の峯が月山です。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「森敦の月山」

2025年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
森敦の「月山」は今も読み継がれる、芥川賞の名高い小説です。
出羽の霊山・月山の山ふところにある破れ寺に、ひとりの男がたどりつく。炉ばたでひたすら割り箸を作り続ける寺の男、女たちによる念仏のあつまり、庭を見せようと豪雪にもかかわらず雪かきにはげむ老人……。雪に閉ざされた山間のむらで、不思議な村人たちと暮しをともにするこの男が知った此の世ならぬ幽明の世界を描いています。

さて、この作品を私なりに解釈すると、これは森敦が自ら生まれ変わろうとするその姿を描いた作品である。
 この作品では、月山を「死者の行くあの世の山」として描いている。即ち、現世とは隔離された異世界として、月山を、そして「山ふところ」にある七五三掛(しめかけ)というを捉えているのである。実際冬を迎えることで、この山中の地は雪や吹雪や霧により、下界と遮断されてしまうのだ。
 そして、「わたし」はその異世界の中で数々の奇妙な体験をする。その中でも最たるものが、冬になってこの地にやって来た押売りたちが、吹雪の中で行き倒れになってしまうと、その死体をミイラにして観光の呼び物にする、という風習である(実際、注連寺では即身仏で有名な寺である)。・・・・以下省略。

写真は月山です。
山形県のほぼ中央にあり、羽黒町、立川町、西川町とに境を接しています。
 

「私の大好きな富士山と清貧の思想」

2025年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に生まれ育った人々は日本人として誇りに思っていることが沢山あります。富士山もその一つです。それから「清貧の思想」も日本人は好きです。憧れています。
新春にあたり富士山の風景をご紹介して、続けて「清貧の思想」について小文を書いてみたいと思います。この2つは清らかさという点で深いところで関連があります。
さて富士山は世界文化遺産に認定されているのです。それは2013年のことでした。
認定された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」には、それを証明する構成資産が全部で25箇所もあるのです。それらは富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などです。
私も家内も富士山が好きなので何度も写真を撮りに行きました。そこで世界文化遺産の富士山の写真と北口富士浅間神社の写をお送りします。北口富士浅間神社は数年前に撮ったものです。

1番目の写真は山中湖の北岸から見上げた富士山です。広い駐車場があり、湖岸に沿って自転車道路があります。写真をゆっくり撮れる場所なので必ずここから富士山の写真を撮ります。
雪に覆われた富士山は神々しく見えます。自然に祈りたくなります。古来から、この山は信仰の対象だったということが納得されます。
2番目の写真はヨットのある富士山の風景です。このヨットはいつも沖に係留されています。富士山と沖に停泊しているヨットの風景が好きで何回も写真に撮りました。そのヨットも冬にはこうして陸揚げされているのです。
3番目の写真は北口富士浅間神社の本殿です。元和元年(1615)に鳥居土佐守に創建されました。一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式で 昭和28年、国指定重要文化財に指定されました。
4番目の写真は修験者と僧侶に導かれた富士講の行列です。富士山信仰の修験道の山行きの出発前の行列なのです。
「六根清浄、・・・」と唱和する声が杉並木に神秘的にこだましていました。

さて清貧が人生で重要なことは日本の古くからの文化です。
この世の一切の欲望を捨て、心の充実を求めるのが清貧の道です。仏教の教えでもあり、昔から西行,吉田兼好,松尾芭蕉などの書によって日本人の心に沁み込んでいます。
最近では中野孝次(1925年 - 2004年)の著書、『清貧の思想』がベストセラーになって1990年代に再び「清貧」という考えかたが脚光を浴びたものです。
中野孝次の著書の内容は,西行や芭蕉 など,いわば世捨て人の風雅の暮しを論じたもので、日本の伝統で、目新しいことではありません。しかし,ちょうどバブルがはじけた時期と重なり「清貧」の語が新鮮な響きをもって復活したのです。そのせいか驚くほどの反響があり、私も愛読したのです。
振り返ってみると、私は戦後の貧しい頃、新制中学校で金儲けは悪で、清く正しく生きなさいとさんざん教わりました。
金儲けは悪ということは間違いですが、清く正しく生きることは現在でも非常に重要だと信じています。
しかし人間は弱いもので清く正しく生きることほど難しいものはありません。実行出来ないのです。
しかし「清貧の思想」と合致する私の趣味をご紹介いたします。
それは山林の中の貧乏くさい粗末な小屋に通い樹林を眺める趣味です。贅沢な別荘の対極にある貧相な小屋です。
1974年に甲斐駒岳の麓に作りました。深い、深い森の中です。長い間、電気・水道・ガスの無い小屋でした。
山林の中の小屋に行くたびに私は清貧の思想を思い出し、すがすがしい気分になったものです。厳寒の夜に一番頼りになる有難いものは薪ストーブです。窓の外には小川の水音が響き天上には満天の星が輝いています。
この小屋を作った頃、森敦の「月山」いう小説が第70回芥川賞を受賞しました。
話は月山のふもとにある厳寒のお寺で冬を越すという話です。自分の冬の小屋の体験と同じなのです。
読むと寒さが一層身に沁みます。「月山」は深い内容の美しい作品として忘れられない小説でした。
私は富士山を誇りに思っています。清貧の思想は実行は出来ませんが、一生憬れの対象になっています。日本人の美しい精神のバックボーンとして誇りに思っています。

今日は富士山の風景をご紹介して、続けて「清貧の思想」について小文を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「早春の花々の写真を見ながら春到来を待つ」

2025年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
「季節の花」という楽しいHPを見つけました。
そのアドレスは、http://www.hana300.com/aasyasin03.html です。
このHPから早春の花々の写真を5枚お送りいたします。
一番目の写真から順々に、クロッカス、梅、ウチワノキ、ジンチョウゲ、カタクリの花々です。

花々の写真を見ているとこれらの花は縄文時代から山野に咲いていたのか調べてみようと思いました。縄文時代は無理ですが文字の使われ始めた奈良、平安時代からの日本に咲いていた花の一覧表がありました。
http://nihon-rekishi.com/hana/index.html から転載致します。
1、桜
農業開始の指標とされた。
2、躑躅・皐月
「万葉集」でも詠まれるなど、とても長い栽培の歴史を持つ。江戸時代に栽培が大流行し、多くの園芸品種が生まれました。
3、藤
日本最古の歴史書「古事記(712年)」にもその名が登場しているため、かなり古くから親しまれてたようです。
室町将軍・足利義詮や太閤・豊臣秀吉も観藤会を催したことが知られています。江戸時代までは藤から取った繊維を使った「藤衣」と呼ばれる仕事着が作られていました。日本で植物分類学が確立する前は、野田藤(ノダフジ)と呼ばれていました。
4、薔薇
その容姿から外来種と思われがちですが、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシなどの立派な日本固有種もあります。
「万葉集」のも名前が出てきています。
現代のように「花の女王」として親しまれるのは明治時代になってからでした。
5、睡蓮
ヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生。
6、花菖蒲
平安時代から栽培されており、特に江戸時代に江戸系、肥後系、伊勢系、長井古種など多くの園芸品種が生まれました。
7、紫陽花
「万葉集(759年)」などにも名前が出てくる事から、長らく親しまれてきたようです。
8、百合
国内には15種類の固有種が自生しており、「古事記」にも『神武天皇が百合の花を摘んでいる娘に惚れて嫁にした』という記述があります。
江戸時代に観賞用としても多くが栽培されるようになりました。
8、萩
「秋の七草」の一つで古くから親しまれてきました。「万葉集」で最もよく読まれる花です。
9、山茶花
「冬の華」として各地に伝播し、幾度か盛衰を繰り返しながら今日に受けつがれています。
http://www.flower-photo.info/products/detail.php…
10、椿
「古事記」にも名前が出てきます。赤く山茶花によく似た花を冬から春に咲かせます。
花弁が散らず、花が丸ごとボトッと落ち、その姿が人の生首を連想させる事から、見舞いの贈り物にはタブーとされます。
11、薄
かつては「尾花」と呼ばれ「万葉集」でもその名が詠まれています。茅葺屋根の材料や家畜の餌として古くから利用されてきました。
「秋の七草」の一つ。

さて、人々と花の関係についても以下のような説明がありました。
日本では古来よりお墓に花を供えたり、花を愛でる習慣がありました。
・・・中略・・・・・
「源氏物語」によると男女が愛の告白を行う際に花を贈るなどの習慣があるようですので、平安時代ごろに一般の人々も花と接するようになったと思われます。
生け花を追求した「華道」は室町時代に広まりました。・・・

そして人々は山や野に咲く花々を見て楽しんだに違いありません。
ところで写真にあるジンチョウゲ(沈丁花)は、常緑低木で、漢名は瑞香、別名輪丁花です。 原産地は中国南部で、日本では室町時代頃にはすでに栽培されていたと言われています。
そして団扇の木(ウチワノキ)は、朝鮮半島の中北部が原産です。わが国へは昭和時代のはじめに渡来しました。葉は卵形で、先端が尖り対生します。
3月から4月ごろ、葉の展開する前に白色または淡い紅色の「れんぎょう」に似た花を咲かせます。名前は、果のかたちが扁平な円形で、これを団扇に喩えたもの。別名で「しろれんぎょう(白連翹)」とも呼ばれます。

このように花々が日本へ移り住んだ歴史を調べると興味がつきません。花々は静かに日本へやって来ます。そして奥ゆかしく咲いています。想像しただけで楽しいですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「春の瀬戸内海のイカナゴの釘煮の思い出と文学作品」

2025年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
イカナゴ漁は早春の瀬戸内海の風物詩です。そのイカナゴの釘煮を数年前に何度かよく頂きました。春になるとイカナゴの釘煮を懐かしく思い出します。
旧友の鈴木 裕さんの母上が精魂込めて煮たものを何度か送って下さいました。
山椒入りのものとショウガ入りのものと2種類がハランの葉で分けてパックに丁寧に詰めてありました。漁の解禁早々のまだ幼魚の高級なイカナゴのクギ煮でした。懐かしく思い出します。
これを食べると、「ああ、今年も春が来た」という温かい気持ちになり、春の陽に輝く瀬戸内の海の風景が眼前に広がったものです。早春の季節の風物詩で
した。
瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴという小魚を大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化です。瀬戸内海地方の伝統的な輝かしい『地方文化』です。

今日は美味しいイカナゴのあれやこれやを書いてみたと思います。
イカナゴは日本各地の沿岸で漁獲される魚です。しかし瀬戸内海のイカナゴは特別に美味しいのです。生育中に食べている餌が違うのです。
毎年、瀬戸内海でのイカナゴの解禁日は年によって違いますが、大体2月下旬に解禁になります。
稚魚を瀬戸内沿岸部ではイカナゴ(玉筋魚)、関東ではコウナゴ(小女子)、大阪ではシンコまたはカナギと呼ばれています。
イカナゴは暑さに弱く、6月から晩秋過ぎまで砂に潜って夏眠する珍しい魚です。
関東ではコウナゴの佃煮と同じものが瀬戸内海沿岸ではイカナゴのクギ煮と呼ばれています。

イカナゴのクギ煮と同じものを東京ではコウナゴの佃煮と言います。味がどのように違うのか食べ比べてみると歴然と違いが分かります。
同じ魚ですが全く味が違うのです。
瀬戸内海沿岸の須磨のイカナゴのクギ煮はかすかにフォアグラのような肝臓の風味がするのです。そして骨を感じさせない柔らかい小魚の食感です。魚の肝臓ではアンコウの肝やカワハギの肝が美味ですが、それらと一脈通じる味がかすかにするのです。これこそイカナゴのクギ煮が絶賛される原因なのです。
東京で売っているコウナゴの佃煮とイカナゴの釘煮を食べ比べてみると明快に分かるのです。コウナゴは身が固すぎます。魚としての旨さは充分ありますが固すぎるのです。
この違いは餌の違いなのでしょう。
イカナゴの釘煮こそ瀬戸内海地方の『地方文化』なのです。

イカナゴの釘煮がローカル文化であることは、それにまつわる和歌や俳句や随筆をみるとよく分かります。
毎年、いかなごくぎ煮振興協会が主催してイカナゴの釘煮にまつわる和歌や俳句や随筆を募集しています。
そして優秀な作品へ『いかなごのくぎ煮文学賞』を与えているのです。(http://kugini.jp/contest/index_b2016.html )
第5回目を迎えた文学賞では、過去最多の1410作品が全国43都道府県から寄せられました。
その中から主な作品をご紹介いたします。
第五回 いかなごのくぎ煮文学賞 グランプリ作品

≪ 短歌 ≫
「春暁(しゅんぎょう)の 海に漁火 煌(きら)めきて 茅渟(ちぬ)の浦曲(うらわ)に ●子(いかなご)のくる」 ( ●は魚へんに白)    
                大濱義弘 さん  72歳 (神戸市垂水区)

三田 完 先生 講評
さながら万葉の一首のような風格を持つ作品です。「茅渟」は大阪府南部の古称で、黒鯛のことを「チヌ」と呼ぶのも、この地名にちなんだものととか。「浦曲」は入江のこと。こうした古語をすんなりと用いた技量に感服しました。

≪短歌≫  くぎ煮炊く 母との会話 味わって 顔知らぬ祖母へ 想いをはせる              川野沙綺 さん  高1 ( 神戸市垂水区)

三田 完 先生 講評
くぎ煮を炊く香りを鼻孔で味わいながら、作者はくぎ煮を炊くお母さんとの会話も耳で味わっています。会話の内容は、くぎ煮の炊き方を教えてくれたお祖母ちゃんのこと。この会話のおかげで、炊き上がったくぎ煮の味がふっくらと豊かになります。味がそれぞれの家庭で受け継がれていく-そのことについて書いた投稿は毎年たくさんあります。この短歌もそうした一篇なのですが、未知の祖母に寄せる孫の思いが、くぎ煮の味わいを数段引き立ててくれました。

≪ 俳句 ≫ 「 いかなごを ふくふく育てる 春の波 」     
              マコッチャン さん  58歳 (神戸市西区)
三田 完 先生 講評
「ふくふく育てる」が、瀬戸内の海の豊かさをみごとに伝えてくれます。春風駘蕩の海原を詠んだ句なのに、口の中にはくぎ煮の味が沸きあがる-まさしくくぎ煮文芸の神髄といえるでしょう。

≪ 俳句特選 ≫ 「 春を告ぐ ほのかに香る いかなごよ 」   
                  りい さん  高2 (神戸市長田区)
三田 完 先生 講評
温かいご飯の上にくぎ煮を載せたとき、ほのかに香りがたちのぼる。その淡い香りに春を実感する…。これこそ、まさに俳句-日々の暮しのなにげない一瞬に季節を感じ取ることです。

この他にイカナゴに関する随筆もありますが、長くなるので割愛いたします。
瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴを大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化ではないでしょうか?瀬戸内海地方の『地方文化』です。

イカナゴ漁の関連の写真をお送り致します。

今日は春の瀬戸内海のイカナゴの釘煮をご紹介致しました。そしてイカナゴの釘煮にまつわる文学作品もご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はイカナゴ漁をしている漁船の写真です。
2番目の写真は目の細かい網にイカナゴがビッシリ獲れて、それを船の上に引き上げようとしている光景です。
3番目の写真はとれたイカナゴです。イカナゴは人間の指の半分くらいしかない小さな魚です。
4番目の写真は大量にとれたイカナゴの写真です。
5番目の写真はイカナゴを丁寧に煮て作った釘煮の写真です。

「茫々60年、あのアメリカ留学は一朝邯鄲の夢」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

1961年に私どもはオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たち、みんな消えてしまいました。

茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。しかし間もなくあの世で会えるのです。

われわれ人間の本当の家は天国なのです。わたしも其処へ帰る日がまもなくやって来ます。お世話になったアメリカ人たちへ感謝するために60年前の写真を掲載します。0044
1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。008_21
2番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・ヒルトン・ホテルで開いたレセプション風景です。右端が私の恩師のセント・ピエール教授でその左が物理を教えてくれたラドルフ・スパイサー教授です。セント・ピエール教授夫妻がホスト役をしてくれました。0076
3番目の写真はマックリーン牧師とフォンタナ教授です。
左端は結婚式を司式してくれたマックリーン牧師で、中央が金属工学科の主任のフォンタナ教授です。右端は一生お付き合いをした故ジョージ・オートンさんです。以下、詳細は省略しますが関連の写真を示します。

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1960年から1962年までのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。

セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためには同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。

激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友ののような感じでした。

その中でジム・バテル夫妻ととジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジムはまだ健在で、アラスカ州に釣りを楽しみながら悠々自適です。ジョージは数年前に亡くなりましいた。

恩師のセント・ピエール教授には生涯お世話になり、私が54歳の時、オハイオ州立大学の客員教授として2年間招んでくれました。その折りにゴードン・パウエル教授夫妻には家に招んでくれましたが他の先生方は皆他の大学に行ってしまっていました。同級生とも一別以来会っていません。皆ちりじりになってしまいました。

ジェリー・ワースだけがアメリカの鉄鋼会社から出張で日本に来たとき家に招んで一緒に高尾山へ登りました。

人生は夢のようにはかないものです。最近、高齢のせいかよくそんな感じがします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「戦後の焼野原と現在の全国にある花園の風景」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
これは戦後の焼野原をこの目で見た私の感慨です。現在の全国の花園の風景を見て隔世の感です。日本がこんなにも変わったことに驚いています。この驚きは若い人には理解出来ないかも知れませんが書いて置きたいと思います。
写真に従って説明いたします。
1番目の写真はB29の編隊が焼夷弾で東京を焼きつくしている光景です。
当時住んでいた仙台でも同じような光景を私は見ました。
1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。当時9歳であった私は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。
2番目の写真は空襲があった翌日の東京の風景です。
仙台の空襲の翌日、私は鹿落坂をくだって中心街の焼け跡を見に行きました。この写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇っていたのを鮮明に思い出します。
1番目の写真と2番目の写真の光景は全国にあったのです。全国の200以上の市町村がB29で焼け野原になったのです。
3番目の写真は兵庫県の「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
写真の出典は、https://www.hyogo-tourism.jp/review/101 です。
焼け野原になった日本には現在この写真のような広い花園が沢山あるのです。
終戦の頃は花園はありませんでした。皆無でした。現在花園になっている畑にはジャガイモやサツマイモやカボチャが植えられてきたのです。食糧難でお米のご飯が無くてジャガイモやサツマイモやカボチャで命をつないでいたのです。
4番目の写真も「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
場所は、舞鶴若狭道「福知山」ICまたは播但自動車道「和田山」ICのどちらからも40kmほど。たんとう花公園は、4月のチューリップと8月ひまわりの見ごろの時期だけオープンする公園です。
5番目の写真も「豊岡市たんとう花公園」の風景です。
のどなか里山の一角に咲き競う300品種・100万本のチューリップ。赤、黄、ピンク、紫と濃淡を交えた鮮やかな色であたり一面を染め上げる様は、春の日差しの下で波打つ花の海を思わせ、まさに圧巻の光景です。
終戦の頃、こんな綺麗な花園が日本に出来るとは想像も出来ませんでした。
全く隔世の感です。日本が復興してこんなんにも豊かな国にになったのです。
人々の心も豊かになったのです。幸福感につつまれます。

それにつけてもウクライナの苦難に心が乱れます。ロシアの暴虐に衝撃を受けています。ウクライナの歴史に無い最大の悲劇です。ウクライナは何もしなかったのにロシアが突然一方的に武力侵攻したのです。
ウクライナのために祈らざる得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「遥かなオハイオ、友人たちの思い出」

2025年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
個人的な思い出を書くのは恐縮ですが、今日は懐かしい遥かなオハイオの思い出を書きます。そしてオハイオの友人たちのことも懐かしく思い出しています。
1960年にオハイオの大学へ留学しました。24歳の時でした。茫々あれから63年です。
遥かなオハイオは時々思い出します。私のアメリカはオハイオ州コロンバスの思い出です。
感動したことは先生方と同級生がとても親切だったことです。
老人になった私は今更ながらアメリカ留学の影響の深さを感じています。私は無意識のうちに留学の体験が自分の判断を左右しているのです。
もう少し正確に書くと、フルブライト留学生として1960年から1962年までオハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。

1番目の写真はオハイイオ州立大学です。

2番目の写真もオハイオ州立大学の写真です。
キャンパスには広大な芝生の広場があり、それを囲むようにいろいろな学部の建物が並んでいます。

3番目の写真はオハイオ州立大学のフットボール競技場です。
オハイオ州立大学は屈指のアメリカン・フットボールの強豪校だったので立派なフットボール専用の競技場を持っていました。
私は 妻を日本から呼び寄せ、オハイオ州のコロンバスで結婚式を挙げたのです。1961年のことでした。
結婚式は大学付属の質素な教会でして披露宴はコロンバスの中心街のディッシュラー・ヒルトンホテルでしました。

4番目の写真は披露宴のレセプションラインです。
アメリカ人は敗戦国の日本人を尊敬していました。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったからです。
ですからオハイオ州立大学のアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
指導教授のセント・ピエール先生や学科主任のフォンタナ教授が「頑張っているね」「良い成果をあげた!」などと励ましてくれたのです。

老境に到ると悪いことは忘れます。良いことだけが記憶に残ります。これを一般には「老人ボケ」と言います。

私も正真正銘の「老人ボケ」です。今日の文章がその確たる証拠です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「超大国アメリカの人々の宗教観と巨大な軍備」

2025年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカは今や世界の超大国として君臨しています。
航空空母艦を10隻以上も保有し軍事力では中国、ロシアを圧倒しています。
世界中に軍事基地を保有しています。こんな超大国は人類史の中で初めてのことです。アメリカは軍事的に全世界を占領しようとすれば可能な勢いです。
戦後80年間にわたって日本はこのアメリカを手本にして来ました。アメリカの民主主義を理想として導入してきたのです。アメリカは日本にとって理想社会でした。
しかしここで深く考えてみると日米間の文化、特に宗教観はあまりにも違い過ぎます。
ですからアメリカと日本が宗教に関して共通の価値感を持つことは難しいのです。

今日はアメリカ人の考え方や宗教観が日本人と違う点を強調して書いてみたいと思います。そしてアメリカの巨大な軍備について書いてみたいと思います。
さて日米の考え方の違いはペリー提督による日米修好条約以来続いている事実なのです。
まず日本が受け入れた便利なアメリカ文明の例を書きます。
コンビニが全国の津々浦々にあります。その数、7万店舗以上になると言います。スーパーもマックやケンタやスタバのようなファストフードの店もきめ細かく普及しています。
郊外の大型量販店もアメリカ発祥です。この狭い日本の国内旅行に飛行機を使うのもアメリカの風習です。その上、その旅客機はほとんど全てがアメリカ製なのです。 こうしてキーボードを叩いているパソコンもアメリカ発祥のアメリカ文明の産物です。アメリカ文明が押し寄せて来て日本を飲み込んでいるのです。
しかしアメリカの特徴といえば「キリスト教」に対する強い信仰があることです。アメリカ人の80%がキリスト教を信じています。
アメリカ社会における人間関係にはその下敷きにキリスト教への信仰があるのです。アメリカは弱肉強食の社会で、貧富の差が大きいので人間関係は殺伐としていると日本人は誤解しがちです。
しかしアメリカに暮らしてみると助け合いの精神が溢れていて、実に暖かい人間関係があるのです。殺伐とした社会というより人間的で温かい社会なのです。
ですからアメリカ人の精神文化を万遍無く公平に理解しようとしたら彼らのキリスト教への帰依を理解しなければなりません。
勿論、アメリカにはイスラム教徒もユダヤ教徒も仏教徒も数多くいます。しかし話を簡明にするために今日はキリスト教だけを取り上げます。
それではアメリカのキリスト教はどのようなものでしょうか?
カトリック教徒も多いのですが、アメリカの特徴はいろいろなプロテスタント宗派が乱立していることです。
しかしその宗派の多くは新約聖書の福音書を大切にしている福音主義なのです。
ですからアメリカ人は以下のことを単純に信じ切っていて疑いません。
1、聖書の無謬性(旧約聖書も新約聖書も間違っていない)
2、キリストの処女降誕(キリストは処女マリア様から生まれた)
3、キリストの贖罪(キリストは全ての人間の罪の解消のために十字架につけられ死んだ)
4、体の復活(キリストも全ての死者も何時かは生き返ってくる)
5、数々の奇蹟物語(水上歩行、水を葡萄酒に変えたなど数々の奇蹟話)
日本人は上にかいた5つのことを信じられません。日本人の3%だけのキリスト教徒が信じているだけです。
ですからアメリカ人の精神文化のうち、宗教観だけが日本に導入されていないのです。
よくアメリカには物質文明はあるが精神文化が無いといいます。これは大変な間違いです。
正しくは「日本人の理解出来ない精神文化がある」と言い直すべきです。
私自身はカトリックです。しかし般若心経や大悲心陀羅尼経が大好きです。キリスト教と仏教のバイリンガルのようなものです。ですからアメリカの宗教観もある程度理解出来ます。
楽観的な人は日米には共通の価値感があるとよく言います。共通の価値感があるから強固な日米安保条約があると言います。しかしこれは楽観的な理解に過ぎません。国際間の国々の間に共通の価値感があるというのは幻想なのかも知れません。
それにしてもトランプ大統領はキリスト教の信者なのでしょうか?
以前、ローマ法王のフランシスコ教皇はトランプ大統領はキリスト教の信者ではないと言明しました。心あるアメリカ人は困ったことでしょう。
キリスト教の隣人を愛せとは具体的にどういうことでしょうか。
例え話でご説明します。
日本人は韓国人を愛せということです。中国人を愛せということです。
この愛せという人造語がいけません。何のことか分かりません。
そこで日本人は韓国人を大切に思いなさい。中国人を大切に思いなさい。という言い方に変えると判然とします。
そんなこと出来ないという方は次のようにすればよいのです。
韓国人も中国人も春になり花々が咲くと嬉しくなります。梅、桜、桃、サンシュユ、モクレンなどが咲くと日本人と同じように嬉しくなり花見に行くのです。
家では家族が仲良く食卓を囲むのです。職場では理不尽な上役に苦労するのです。親や友人のお葬式では日本人と同じように悲しむのです。
そのように具体的に想うことが「隣人を愛す」という事です。決して難しい事ではありません。
「隣人を愛す」にはもっと広い、深い意味があります。しかし分かり易い幾つかの具体的な例を考えて行くことが深い意味へと繋がるのです。私はそのように考えています。
上記のような精神文化を持っていうのがメリカ人です。しかしその一方でアメリカは巨大な軍備を持っているのです。矛盾しています。人間の性(さが)です。

写真はアメリカ軍の巨大な装備の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は離陸しようとしている攻撃用の爆弾やミサイルを満載した戦闘爆撃機です。

2番目の写真は戦闘爆撃機の訓練中の写真です。戦闘爆撃機は不吉な色合いです。さらにもう少しアメリカ軍の装備の写真をお送り致します。

「日本に咲き誇る花の大部分は外国から渡って来た花々」

2025年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
1番目の写真は奈良県宇陀市室生滝谷にある「花の郷 滝谷」の春の風景です。(http://www.kintetsu.co.jp/spot/spot_info/spot0000022.html)。
私は昔から歴史に興味がありました。特に地方、地方の歴史や少数民族の歴史を調べて、独りで楽しんでいます。その延長で動物や植物の進化にも興味があります。そして日本で現在見られる花々の歴史、渡来の歴史にも興味があります。
調べてみると、慶応大学、磯野直秀名誉教授の発表している「明治前園芸植物渡来年表」を見つけました。それは、http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=13125 です。
下のにその一部をご紹介いたしますが、是非原文をご覧下さい。植物学の素人にも簡単に理解出来る素晴らしい文章で書いてあります。
(1)奈良、平安期
梅、菊、ボタン、シャクヤク、アサガオ、シモクレン、ケイトウ、ジュズダマだどなど。
(2)鎌倉期
ナンテン、フヨウ、ムクゲなど。
(3)室町期から安土桃山期
スイセン、ホーセンカ、ジンチョウゲ、ヒガンバナ、ローバイ、ソテツなどなど。
(4)江戸時代(17世紀)
シュウカイドウ、サルスベリ、レンギョウ、ハクモクレン、オシロイバナ、エニシダ、ヒマワリ、などなそ。
(5)江戸時代(18世紀)
キョーチクトウ、ハボタン、ニチニチソウ、など。
(6)江戸時代(19世紀)
ノボタン、ダリア、オジギソウ、コスモス、カンナ、キンギョソウ、スイートピー、パンジー、ラベンダーチューリップ、ゼラニュームなどなど。
この研究論文の圧巻は30ページから39ページにわたる数百種の渡来園芸植物の年号別の一覧表にあります。
慶雲2年(705年)から始まって、明治1年(1968年)のそれぞれの年号に渡来した園芸植物の名前が明記してあるのです。
驚くことにわれわれが普通日本古来の植物と思っていた梅も柿も皆渡来植物なのです。
日本の昔からの文学作品に登場する植物や花も一覧表になっています。
その文学作品は以下の通りです。
出雲風土記、古事記、日本書紀、萬葉集、古今集、竹取物語、伊勢物語、今昔物語、源氏物語、枕草子、土佐日記、更級日記 などなどです。
登場する植物や花が一覧表になっているのです。是非、http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/plant/bungakusakuhin/index.html をご覧下さい。
その一例として源氏物語に出て来る植物の一覧表の一部だけを抜粋して下に示します。
「空蝉」 藍  アイ タデ科 渡来植物
「行幸」 あかね  アカネ アカネ科
「朝顔」「野分」 朝顔  アサガオ ヒルガオ科 渡来植物 
あさつき  アサツキ ユリ科 渡来植物 
「須磨」「梅枝」「浮舟」 葦  ヨシ イネ科
「花宴」 あづさ  梓ミズメ カバノキ科
「蛍」 あふち  楝センダン センダン科
「若菜下」「幻」 あふひ草 葵 フタバアオイ ウマノスズクサ科 加茂葵
「帚木」「乙女」 あやめ 菖蒲 ショウブ サトイモ科
「須磨」「夕霧」 稲  イネ イネ科 渡来植物
「乙女」 卯の花  ウツギ ユキノシタ科
「末摘花」「乙女」「初音」「幻」など22巻に所出 梅  ウメ バラ科 渡来植物
「紅葉賀」 瓜  マクワウリ ウリ科 渡来植物・・・以下省略します。

上に書いたように多くの植物は海を渡って日本に来たのです。 そのことは世界中同じで、植物たちは国々の間を行ったり来たりしたのです。
渡り鳥が運んだり、人間が運んだのです。特に美しい花々はその種子や苗を人間が大切に運んだのです。運んだ人の名前は分かりません。しかし外国から運んで来た種や苗が日本の土で花を咲かせたときの感動は大きかったに違いありません。そのようなことを想像すると楽しいのです。
植物や花のことを調べるのは、世の中の政治や国際紛争や経済問題を調べるよりずっと楽しいのです。
関東に住んでいる人々が週末に家族で旅をする場合には、とかく富士・箱根・伊豆半島へ行くことが多いようです。
しかし房総半島の南岸には黒潮ラインという自動車道路があります。青い海と花畑の景観を楽しみながらゆっくり走れます。フラワーラインは館山から和田まで46キロメートル続いています。
車窓から見ているとカラフルな花畑の間に懐かしい菜の花畑が点在しています。写真は、https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama に掲載されています。ここでは1番目、2番目、3番目の写真だけを示します。 
ここ以下にお送りする写真は白浜房総ホテルに一泊して撮った写真です。
特に千倉では花畑に入って好きなだけ花摘みが出来るのです。自分の気に入った色彩の花を切って大きな花束が作れるのです。
春の陽光が射し、生暖かい潮風が公園の向こうの海から吹きこんでいました。沖を黒潮が流れているので一足早く春が来るのです。
南房総の花々の栽培は遠く明治時代に間宮七郎兵衛という栽培家の努力によって始まったと伝えられています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「都井岬の野生馬、そして日本の馬の歴史」

2025年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
馬という動物に特に興味がある人はそう多くないと思います。私は馬が怖いでし。
しかし結婚したら妻がさかんに馬の話をします。大学時代に馬術クラブに入っていたのです。馬と友人になるにはその馬の小屋の掃除を毎日すると良いという話が印象深かったのです。
観光旅行に行けば妻は乗馬クラブを見つけては馬に乗っています。私は外から眺めるだけです。北海道や八ヶ岳の麓には乗馬クラブがたくさんあるのです。
その上、九州の都井岬の野生馬や木曽の木曽馬を見たいと言うので見に行ったものです。
今日は現在の西洋系の馬とは違う日本独特の在来種の馬の話をしようと思います。日本の馬の歴史を書いてみようと思います。
まず日本の古来の馬の話です。弥生時代に稲作が始まり、その末期から馬が飼われていたのです。農耕や産物の運搬に人々に役にたっていたのです。
次の古墳時代になると馬具や馬の埴輪が沢山出土することから古墳時代の少し前から馬が大々的に活躍していたのです。
そして奈良時代の律令国家の時代になるると全国各地で馬牧場が出来て朝廷に軍馬として献上されたのです。
それでは古墳時代や律令国家時代の馬はどのような馬だったのでしょうか?
簡単に結論を言えば小型ながら頑健な蒙古馬が中國や朝鮮半島を経由して入ってきたと考えられてます。
この古代の日本の馬の姿は宮崎県の都井岬の野生の馬や木曽馬の姿に似ていると言います。その写真を示します。

1番目の写真は宮崎県の都井岬の野生の馬です。以前にはるばる見に行きました。この宮崎県の都井岬の野生馬は国の天然記念物に指定されています。

2番目の写真も宮崎県の都井岬の野生の馬です。都井岬の野生の馬の体形は小型で首が長くズングリした体形でした。
この都井岬の野生馬の写真の出典は、http://www.kanko-miyazaki.jp/data/ja/smartphone-index?page-id=9265とhttp://meito.knt.co.jp/1/ca/11106005/1/です。

3番目の写真は岐阜県の木曽地方に飼われている木曽馬です。これも行って見ると小型で首が長く脚は短くズングリした体形でした。開田高原の後ろの山は木曽の御嶽山です。
写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/nihonzairaiba08/1030166.html です。

しかし写真で示した都井岬の野生の馬も木曽駒も正確な意味では野生馬ではないのです。
日本の現在の野生馬は旧石器時代以前の野生馬の原種ではなく、体形から蒙古系の馬と考えられています。
特に宮崎県の都井岬の野生馬は約300年前に秋月藩主が放牧したのが始まりと明確に分かっています。
日本の律令国家の時代に飼育され朝廷に献上された蒙古系の馬に近いと考えられているのはむしろ木曽馬のような馬と言われています。

4番目の写真は蒙古の野生馬です。世界で唯一の野生馬でモンゴルの大草原に棲んでいます。体高140センチ。ポニーほどの大きさで、足は短くずんぐりした体型をしています。(http://cgi2.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/detail.cgi?sp=p348 )

5番目の写真も蒙古の野生馬です。現在、モンゴルと中国にわずか数百頭しか生息していないため、絶滅危惧種に指定されています。気性が荒く人に慣れないので、家畜化は不可能だといいます。

さて木曽馬とは長野県木曽地域(木曽郡)を中心に飼育されている日本在来種の馬です。岐阜県飛騨地方でも飼育されています。
木曽馬は一時絶滅寸前でしたが木曽馬保存会が活動した結果、飼育数は増加しました。観光用として現在は200頭以下が飼育されています。
この木曽馬は平安時代から江戸時代にかけて、武士の馬として使用されきたのです。
元々は蒙古の大陸系の馬です。紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀に、朝鮮半島経由で渡来したと言われています。この馬が木曽地域という山岳地帯で飼育されたので木曽馬と呼ばれているのです。

日本の馬の話は止めにして妻の馬の話に戻ります。妻は大学に入学するとすぐに馬術部の入りました。毎日馬屋掃除をします。
そして「馬は賢くて馬屋掃除をしてくれる人になつく」と確信したのです。
結婚後も住んでいる小金井市の「さくら乗馬会」の馬場で乗り回していました。
旅行をすると必ず馬に乗れるところを探し乗っていました。
60歳で乗馬は止めましたが馬を見つけると餌をやって何やら話し合っています。私は馬が妻と仲良くしている光景が好きです。

今日は現在の西洋系の馬とは違う日本独特の在来種の馬の話を詳しく書きました。日本の馬の歴史を書きました。
皆様は馬がお好きでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)