武田信玄は長野を占領するとすぐにその善光寺を甲府へ持ち帰ったのです。
お寺を武力で持ちかえるのは感心しませんが、戦国時代はそんな時代だったのです。
それにしても善光寺には面白い歴史があるので、簡略に書いてみます。
今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいました。 ある時、善光さんが都へ帰る国司について難波へ行ったそうです。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけました。それを拾い上げ、飯田へ持ち帰ったのです。 自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝きます。それで座光寺(善光寺)を作ったという伝説が残っています。推古天皇10年(603年)の事です。
それから41年ほどして皇極天皇元年(644年)に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来ました。
移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると現在でも信じられています。
さて現在、甲府市にも立派な本堂を誇る3つ目の善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約900年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返しました。
ご本尊は返しましたが、甲府の善光寺も現在に至るまで立派に存続しています。
三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。 善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。そのような経緯で出来た甲府の善光寺の写真を示します。2010年9月28日に撮影しました。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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