575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「抵抗の新聞人 桐生悠々」を読んで  竹中敬一

2021年09月28日 | Weblog
この度、桐生悠々のお孫さん旧姓、桐生郁子さんから岩波文庫「抵抗の新聞人 桐生悠々」の復刻版を送っていただきました。

私が名古屋の民放局の制作部にいた昭和50年代、かっての上司で当時、報道部長だった下島光男氏(故人)から
ある雑誌に載せた桐生悠々の評伝のコピーを頂いたのを思い出します。
これを読んで初めて悠々のことを知りました。下島部長は信州の出身で、悠々の生き様に共鳴していたのでしょう。
しばらくして、下島部長は私のところへ来て”オィ、桐生悠々のお孫さんが女性アナに採用されたゾ”とやや興奮気味に言ったのを覚えています。
      
            ※

昭和55年に刊行された岩波新書「抵抗の新聞人 桐生悠々」は
作家の井手孫六が緻密な調査、取材によって「言論の自由」を訴えた評伝で、感銘を受けました。
今回の復刻版では、新たに桐生悠々の五男、昭男氏(桐生郁子さんの父)が書き残した
「私にとっての[親子関係]」と、ジャーナリスト青木理氏の解説が掲載されています。
私は特に桐生昭男氏の父親像について書かれた達意な文章に心惹かれます。
巻頭は68歳になる老父(桐生悠々)と14歳の少年(昭男)が伊勢湾に注ぐ名古屋の庄内川河口で
楽しくハゼ釣りをしているという記述からはじまります。

昭和16年8月初旬の頃、太平洋戦争が始まる3ヶ月前のことです。
その時、悠々は喉頭癌が進行して、食べるものも喉を通らないほどの状態でしたが、可愛い息子に誘われて出かけたといいます。
「父は、このハゼ釣りの日から約1か月弱の9月10日未明、波乱の生涯を閉じたのだった。」
息子の昭男氏が父のことで、おぼろげに思い出すのは6歳の頃だったそうです。
「信州のある地方紙で論説記者をしていた父親が、ある日、会社から上履(スリッパ)を風呂敷包みに忍ばせるように持ち帰った時から始まる。
そして、母親は上履を見つけて、声をあげて泣き崩れたのを、私は傍で呆然と眺めていた。」

悠々は昭和8年(1933)、信濃毎日新聞の論説記者だった時、
「関東防空大演習を嗤(わらふ)」という社説を載せて、軍関係者の反発を受けて退社。家族と名古屋に移り住みます。

この度の復刻版で大演習の記述を読んでみて、
悠々の言っていることは、至極、当然のことのように思われます。
その要旨は、
  いくら大演習を行っても、実際にはさほど役立たないだろう。
  日本の航空機を総動員しても、敵機をすべて撃ち落とすことは不可能で、
  攻撃を免れた敵機が落とす爆弾で木造家屋の多い東京は一挙に焦土と化すだろう。
  空爆したものの勝利であり、空爆されたものの負けである。
  だから、この空爆に先立って、これを迎撃すること。
  これが防空戦の第一義でなくてはいけない。
その通りです。この発言の12年後、東京大空襲で現実のもとなりました。

この発言がもとで、一家は住み慣れた信州から、かって新愛知新聞(現・中日新聞)の主筆を務めたことのある名古屋へ移りましたが、
11人の子供を抱え生活はさぞかし大変だったことでしょう。
個人雑誌「他山の石」を発行して「友人や知人に押し付けるようにスタート」。
有力な支援者に実業家の松永安左衛門、名古屋新聞(現・中日新聞)社長の与良松三郎、名古屋大学医学部教授の勝沼精蔵(文化勲章受賞者)らがいました。
最初のうちは時局批判が好評で雑誌は売れたようですが、
相次ぐ出版警察からの差し押さえや発禁にあって、桐生一家の生活は困窮を極めるようになります。
東大出身の言論人、悠々は
「不慣れな肉体労働でもって庭を耕し、鑑賞樹木を伐採して野菜を栽培した。
  そして、父は手近な蛋白源を求めて日課のように”川魚釣り”に出かけた。」
昭男さんは毎日のように学校から帰るとカバンを放り投げて、父と釣りに出かけたそうです。
親子の”ハゼ釣り”は生活のためでもあったのです。

「抵抗の新聞人 桐生悠々」の著者、井手孫六は悠々を「言いたいこと」と「言わねばならないこと」との弁別を、
論説記者たる己れにきびしく課した人と評しています。桐生悠々の思想は右でも左でもなく
「言わなければいけない」真実をどんな妨害があろうとペンで伝えた言論人だったと思います。
翻って今日、一強政権下、メディアも巧妙な言論圧力に忖度して、
「言わなければいけない」ことを伝えていないように思います。
桐生悠々に学ぶべしです。
                 竹中敬一

コメント (5)
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