阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

横浜の日本郵船歴史博物館を観て氷川丸に乗った!   その2/全5回

2019年03月23日 | 関東あちこち
関内駅北口に2時前に集合し一行は「日本郵船歴史博物館」に向かいました。日本郵船はほぼ60年来の付き合いがある友人が勤め上げた会社でもあり、
あいかたの祖父が造船機関科を出て勤めた会社でもあるので興味津々で入場しました。

内部の展示は撮影禁止なので画像では紹介できませんが、明治開国以来日本の欧米への貨客物流活動をになってきた「NYKー日本郵船」
という組織と、日本国家の強い関係性が伺える内容でした。展示物を見て、それにしてもよくぞここまで貴重な資料を保持してきたと感嘆しました。
博物館を出て山下公園と氷川丸の係留場所に向かいました。横浜税関に向かうと何となく神戸港のあたりを歩いているような気分になりました。



神奈川県庁 屋上には「キングの塔」が。

税関には「クイーンの塔」。「ジャックの塔」は『横浜開港記念会館』にあるそうです。





おだやかないい天気で埠頭にはたくさんの人が歩いていました。















神戸港と同じように水先案内人を乗せるパイロット船の溜りがありました。



氷川丸が見えてきました。

沢山の外国人も日を浴びてベンチでゆっくり寛いでいました。
前回あいかたと横浜にきたとき泊まったホテルニューグランドが見えてきましたが、その時の観光の事はあまり記憶に残っていません。



山下公園には来たことがありますがこんなに広くて、よく整備されているとは知りませんでした。









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横浜の日本郵船歴史博物館を観て氷川丸に乗った!   その1/全5回

2019年03月21日 | 関東あちこち

JR関内駅に2時の集合時間だったが12時半に着いてあたりを見て回った。三人会の3月例会は2回目の横浜だった。
関内駅は駅員はじめ沢山のガイドが出ていてサッカーの試合でもあるのかと思ったら、この日プロ野球の開幕日で
横浜スタジアムに行く沢山の人の整理に当たっていたのだった。


 関内駅南口  最寄り駅から65分で関内駅に来れるので思ったより横浜は近い。








マップを持たずに来たが昼食を食べる場所を探していたら地下街に巡り合った。

JR神戸駅近くにも、いま昭和雰囲気の地下街が広がっていて、横浜のここも同じ空気が流れていて何となく落ち着いた気分になった。



関東では「神戸の靴」という表示をよく見かけるが、やはり長年のケミカルシューズ神戸のブランド力は今も衰えていないようだ。



賑やかなところに出たと思ったら伊勢佐木町だった。








寿司屋、中華、丼などいろんな店もあったが、どこもランチメニューは1000円近辺の値付けで入ったのは
もう身に着いた年金族ランチ希望価格ゾーンに入る富士そばの550円の蕎麦だった(笑)。



 

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1月26日 富士山には雲がかかっていた

2019年02月06日 | 関東あちこち







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武蔵小金井に「中村研一記念はけの森美術館」を訪ねた     その2

2018年12月04日 | 関東あちこち
美術館は校外学習の小学4年生たちが特別展の東京芸大の「学生による敦煌石窟の仏像壁画」の模写の説明を受けていた。

2階に中村研一の模写作品や焼き物などが展示されていた。美術館を出た後、武蔵野公園に向かった。

はけの道は今は住宅が立ち並んでいて判りにくいが、わずかにああこういう場所のことを言うのかという場所を教えてもらった。





台地からの坂が多くて江戸川区とは全く違う風景だが、往時の武蔵野は亀戸や小松川を東の境界としていたらしいからとてつもなく広い概念だ。





かなり歩いて喉も乾き恒例の飲み会へ。駅前ビルの居酒屋「赤札屋」は阿智胡地亭が昼飯にホッケ焼き定食を食べた店だ。

あとでネットで見ると赤札屋は大森などにもある小さなチエーン店らしい。







この日歩いた歩数:10580歩:







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武蔵小金井に「中村研一記念はけの森美術館」を訪ねた  わずかに武蔵野の面影が・・・   その1

2018年12月03日 | 関東あちこち
中村研一という画家は九州の出身で、後半生を小金井市で過ごした。彼の自宅がいま小金井市立の美術館になっている。
11月某日三人会のメンバーは武蔵小金井の駅に午後2時前に集合して歩き出した。中村研一の高校後輩にあたる新居浜のTMさんの示唆を受けての美術館だ。
そして「はけ」という地形も美術館への道の途中で見ることが出来るというのも楽しみだった。
「はけ」Wikipediaから部分引用。
はけは、「まま」、「はば」、「のげ」等と共に、崖地形、丘陵、山地の片岸を指す日本の地形名、日本の古語、現在の方言であり、その地形を持つ日本の地名の読みである[1]。国分寺崖線や立川崖線など武蔵野台地の崖線を解説する際によく聞かれるほか、地名や道路名などに見ることができ、北海道・東北地方、関東地方にみられる[1]が特に武蔵野地域に多い[2]。地名・町丁名としては、「羽毛」「岾」「坫」「𡋽」「額」「端気」「端下」等を当てる。
大岡昇平が1950年(昭和25年)に発表した小説『武蔵野夫人』は、国分寺崖線周辺を舞台とした恋愛小説であり、主人公は「はけの家」に住み、小説の書き出しは「はけ」に関する解説から始まる。「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」[1]。 「まま」や「のげ」のほか、「岨」あるいは「稜」の字を当てる「はば」や「そわ」「そば」という音韻をもつ地名も、「崖」の字を当てる「ほき」も、崖や絶壁等の険阻な地形を表している[3]。
「はけ」の語は縄文時代に起源をもつ古い言葉であるという[4]説がある。 また、アイヌ語のパケ(端を意味する)を語源とする柳田国男説がある。
ハケによって雨水や地下水が隔てられるため、水の多いハケ下では稲作が、水の少ないハケ上では畑作が多く営まれるなど、ハケは生活に大きな影響を与えてきた。ハケ上各所には集落が出来、それらを結ぶ道は「ハケ道」などと呼ばれる。


少し早くついて武蔵小金井駅の周辺を歩いたが、商店街もなく何となく町の雰囲気に無機質な感じをうけた。あとで同行のte・Mさんから
「この駅はもともと主に多磨霊園に行く人が乗り降りする駅だった」と伺って納得した。駅周辺はある種新興都市の佇まいなのかも知れない






















武蔵野の範囲はウィキペディアにこう記されています。ネットから引用。
 武蔵野台地(むさしのだいち)とは、関東平野西部の荒川と多摩川に挟まれた地域に広がる台地である。その範囲は東京都の特別区の西半分と北多摩地域および西多摩郡の一部、そして埼玉県南部の所沢市や狭山市などの地域を含み、川越市は武蔵野台地の北端に位置する。
これによりますとかなり広範囲にわたっていると考えられます。また国木田独歩氏は小説「武蔵野」のなかで、その範囲をこう言っています。
・・・そこで僕は武蔵野はまず雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで丸く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである。
 これらの中村研一の作品はネットから引用。訪ねた美術館のものではありません。



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川崎市向ヶ丘遊園の生田緑地に「岡本太郎美術館」を訪ねた。 生田は庄野潤三さんゆかりの地

2018年11月09日 | 関東あちこち
午後1時半から小田急沿線・新百合ヶ丘の「梅の花」で学生時代の友人たち7人との稲穂会の集まりがあった。
学生時代をみんな神戸で過ごしたが定年後関東で暮らしている6人と神戸からの一人が集まった。
 この日も孫を幼稚園に送ったあと、そのまま駅に向かい新宿経由小田急線の向ヶ丘遊園駅で下車した。
昼食会の前に「岡本太郎美術館」を訪ねるのがちょうどいいと計画した。



駅の南出口に緑地や美術館へいくマップが掲示されていた。緑地までは約15分、中に入ってそこから5分ほどで美術館の入り口に着く。











生田という地名は小説家の庄野潤三さんの本を50年来読んできた自分には聖地のような感触がある。



大阪出身の彼は昭和30年代から当地に住み森の中に作った家に暮らす家族や隣人のことをずっと書き続けてきた。
彼と彼の一家が呼吸した空気を今自分も吸っているというと感じながら歩くのは嬉しかった。























美術館の企画展は面白い観点からの2人展をやっていた。

何故美術館が川崎市岡本太郎美術館となっているのか行ってみてわかった。彼の母親岡本かの子さんが川崎出身で岡本太郎は
母親の実家で産まれているのだった。



 膨大な作品群を見ていると岡本一平と岡本かの子という異才の取り合わせから天才が生まれたのだと思った。世界で誰も真似できない
作品を描いたアーチスト岡本太郎。しかも彼は日本人だ。彼のキャリアの形成には確かにパリの生活が影響しているかもしれぬが
その色使いや絵の構成には日本の伝統的な息遣いも感じた。それにしても岡本太郎の絵や彫刻が放つエネルギーにはいつも圧倒される。
個人美術館としての常設会場の充実ぶりはちょっと例を見ないと思った。
「稲穂会」の会合が新百合ヶ丘であったおかげで小田急線の生田という長年の懐かしさを感じる場所を訪ねる機会があってありがたかった。


小説家「庄野潤三」さんの奥様千壽子さんが亡くなられていた。⇒こちら。

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鏑木清方記念美術館には知った人がひっそりと佇んでいた。

2018年10月31日 | 関東あちこち
今月の三人会の個人美術館巡りシリーズの訪問先は鎌倉市にある鏑木清方記念美術館でした。



集合時間が2時だったので鎌倉駅構内の蕎麦屋で腹ごなししてから改札を出ました。

















面影があって思わずこれらの絵ハガキを購入してしまいました・・・。


今回の企画展には挿絵画家から出発して日本画家として名を成し93歳までの多くの作品が掲示されていました。
清冽から妖艶までの女性たち(ネットからコレクト)








美術鑑賞は従で鑑賞後の飲み会が主のような気がしないでもないが毎回の恒例の大きな楽しみだ(笑)。








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横浜の日本新聞博物館の企画展と中華街での一杯会。  その2

2018年09月28日 | 関東あちこち
博物館を出て中華街に向かい東門から10年ぶりの中華街にはいりました。東門の写真はネットから借用。

関帝廟のある通りを歩き一軒の料理店に入りました。☝の店の表の写真もネットから。
 店の小姐からいろいろお勧めがあったが、こちらの食べたい空芯菜炒めと麻婆豆腐など4品を所望。
結果的に中国人家族が経営がするオーナーシェフの店に入って旨い中華を食べることが出来ました。



中国のお酒に詳しいMさんが希望した「紅星 二鍋頭白酒 」の度数は56度だったか?で、そのまま生(き)で頂いたが何とも言えないうまみがありました。
もちろん紹興酒も一本空きました(笑)。










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横浜の日本新聞博物館の企画展と中華街での一杯会。  その1

2018年09月27日 | 関東あちこち
「新聞が伝えた明治」展 横浜 (サイトから引用)
「明治元年からことしで150年となるのにあわせ、当時の新聞が明治時代をどう伝えたかを振り返る企画展が横浜市で開かれています。
横浜市中区のニュースパーク・日本新聞博物館の会場には、明治時代の新聞の紙面や付録など、およそ300点の資料が展示されています。
このうち「明治維新と近代新聞の誕生」を伝えるコーナーでは、明治10年の西南戦争を新聞各社が競うように報じた様子が、当時の記事や錦絵などで紹介されています。
また、福沢諭吉が創刊した「時事新報」の25周年の記念号は224ページもあり、紙面のほとんどを広告が占め、言論機関として独立した経営を目指す姿勢が強くうかがえます。
日本新聞博物館の学芸員の赤木孝次さんは「当時の最新メディアだった新聞が近代日本の歩みを記録し、人々の記憶を形作ったという歴史を楽しんでほしいです」と話していました。
この企画展は今月末まで開かれています。」

 横浜には過去何回も来ているが、今回は10年ぶりくらいだった。三人会のメンバーは関内駅南口に集合。日本で最初に新聞が発行された土地にできた「日本新聞博物館」に向った。





























写真撮影は禁止されていたが、掲示物の中に陸羯南の肖像写真と彼が発行した新聞「日本」の資料があった。
ちょうどいま読んでいるドナルドキーンの「正岡子規」という本の中で、子規が世に出たには陸羯南という人の存在が大きいと知ったばかりだった。
 当時同じく新聞人となった夏目漱石もそうだが陸羯南も50歳くらいで亡くなっている。それにしては当時の50歳前後の人物の顔に現れた
人間像には今の世に見ることのない厚みと深みがあるように思った。









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JR国分寺駅は人の多いジャンクション駅だった。  小平市「平櫛田中彫刻美術館」シリーズ 3/3

2018年08月02日 | 関東あちこち
国分寺という地名は奈良時代の律令体制の下で出来た日本の各地の国立のお寺に由来するということは、知識として知っていたが駅を降りたのは初めてだった。
西武電鉄の二つの支線のターミナルでもあり人の往来の賑やかな駅だった。







午後2時の集合だったが早くついて駅ビルで焼肉定食を食べた。美術館を参観した後のホンセンの飲み会に備えて腹ごしらえをしっかりした(笑)。

帰りは美術館から歩いて国分寺駅まで戻った。陸橋からみた国分寺駅。駅前の居酒屋で飲んだ生ビールの旨さは暑い中のロング歩きの成果もあって格別だった。

国分寺という地名が東京にあることは昭和50年代に椎名誠の小説「さらば国分寺書店のオババ」で知った。そう言えば椎名誠さんの書き物との付き合いも40年以上になる。
その国分寺には個人的にも何かとご縁があることがそののちわかってきた。全国をあちこちすると犬も棒に当たるというようなことがちょくちょくあるもんだ


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平櫛田中が暮らした屋敷はモダンと伝統が共に在る日本家屋で庭園も美しかった。 小平市「平櫛田中彫刻美術館」シリーズ 2/3

2018年08月01日 | 関東あちこち
平櫛田中は岡山県井原市の出身で107歳まで長寿を保った・・と今回初めて知った。晩年暮らした家と作品をそのまま小平市が寄贈を受け
現在「平櫛田中彫刻美術館」として公開されている。右の生け垣の中が美術館。







作品の老人たちの表情が実にいい。残念ながら現代日本人の老人でこんな笑顔で暮らしている人はほとんどいないのでは? なぜ?












あと30年分の材料をキープしていたそうだ。このクスノキの大木もその一つ。



谷根千めぐりで出会った六角堂の岡倉天心像は平櫛の作品だった。台東区谷中(旧谷中初音町)の天心の邸宅跡は、日本美術院跡として「岡倉天心記念公園」になっていて六角堂がある。

 静かな静かな訪れる人も少ない美術館で四季おりおりの庭の佇まいもよさそうだった。
Mさん、素敵な場所を教えて頂きありがとうございました。また時々行きたくなりました。




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玉川上水を歩いたら上水の主、青大将が歓迎してくれた。 小平市「平櫛田中彫刻美術館」シリーズ 1/3

2018年07月31日 | 関東あちこち
JR国分寺駅で西武国分寺線に乗り換えて鷹の台駅で降りた。
7月の「仮称 なして会」の九州に縁のある3人の行先は「小平市平櫛田中彫刻美術館」だった。メンバーの一人Mさんは先日 
中国四川省から12日間の旅を終えられて元気を回復されていた。

駅の近くにこんな店名の薬局があった(笑)。

駅のすぐそばから玉川上水が流れる森の小径に入れる。

国分寺駅の次は恋ヶ窪駅だが昭和59年ごろ近くの小平のブリジストンさんの研究所に仕事でよく通ったとき「恋ヶ窪」とは
粋な地名だなと思ったのでこの地名がしっかり頭に残っていた。

駅から気持ちのいい緑に囲まれた小径を歩いて美術館に20分ほど歩いた。







青大将は速い川の流れの中をすいすいと泳いでいた。











国分寺で乗った西武線の行先は東村山になっていた。志村けんの東村山音頭の東村山はここからもいけるんだと思った。
志村けんの先祖が赤備えの甲州武田軍の一員で、その後 八王子千人同心の頭の一人になったとファミリーヒストリーの番組で知ってから
東村山の文字によく出会うのは不思議だ。

玉川上水 Wikipediaより
玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである
。多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた。また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。
羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと
分配されていた。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。
羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている[1]。
1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、野火止用水、千川上水)。
本文

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学生時代の仲間8人と2時間半お喋り   初めての新百合ヶ丘駅  「梅の花」で。

2018年07月13日 | 関東あちこち
神戸の学生時代に稲葉先生についた11人。そのうち6人がいま関東に居住している。某日この6人に加えて下関からと神戸からの二人も集まりに参加した。
前回は阿智胡地亭の歓迎会で丸の内に集まったが、今回は会員の二人が住んでいる新百合ヶ丘の「梅の花」が会場になった。今後は年2回この集まりをやることになった。
阿智胡地亭は御茶ノ水駅で中央特別快速に乗り換え新宿で小田急に乗り換えた。都心から離れると車窓の風景は阪急やJRの神戸線と似ていた。



新百合ヶ丘駅構内

駅そばのホテルの中にある会場の「梅の花」へ向かう

 「梅の花」 ネットから引用




町田には昔から叔父一家が長く住んでいるので小田急線には何度も乗っているが新百合ヶ丘駅で降りたのは初めてだった。












現役を離れて長くなり話題は体の調子や一日の過ごし方そして終活の話まで出てきた(笑)。
それにしても55年前に初めて出会った人たちと今もこうして遠慮なく喋る機会があり、それをこれからも継続しようというのは本当にありがたいことだ。







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新選組の近藤勇、土方歳三らが生まれ育った「日野」の地を訪ねた。    その2  日野宿本陣跡 

2018年07月09日 | 関東あちこち
ふるさと館ではこの日野の里から幕末の歴史の一翼を担った若い一団がなぜ出現したのかを考えるヒントをもらった。宿場であったので江戸や薩長の動きの情報は入りやすく、
新選組組員募集に剣術道場の若人たちが勇躍応募した。土方歳三は京都から最後は函館で砲弾に斃れるまで転戦し、日野に戻ることはなかった。司馬流に言えば「この日野の若者たちが明治の御代を作るのに関与したのはあの時代の奇貨ともいうべきであろう・・」







建築の主材はけやき。築150年の建物





町に歴史ありの感深し。江戸時代冬の出稼ぎに信州者が多数江戸に働きに出たという。彼らは江戸人から軽んじて「おしな」と呼ばれていたらしい。阿智胡地亭の先祖の中にはこの甲州道中を往還して上諏訪から江戸に働きに出たものもいるかもしれない。脇本陣を出て昼食をとる場所をさがしたが駅周辺はファーストフードの店ばかりだった。ふと横町を見るとインド料理の店があったのでIKさんに聞くと阿智胡地亭のブログを見ているのでインド料理には興味があるとのこと。

入ってみるとテーブルが3卓しかない小さな小さな店だった。若い外国人二組が先客だった。本日の定食を頼んだ。定食のカレーはほうれん草とチキンのミックスカレーだった。

サラダと飲み物(ラッシーを頼んだ)とアイスクリームがついて780円也。カレーは普通の定食の2倍ほどの量でなんとも旨かった。IKさんもナンは完食は無理だったがカレーはおいしいと完食された。日野にきて近藤勇や土方歳三に思いをはせた後ネパール人がやっているインド料理店で昼食というのも今の時代の面白さだろう。IKさん楽しい時間をご一緒していただきありがとうございました。60年ほど前に三重県四日市の中学校で同じクラスになったとき、まさか将来都下日野市で会う日があるだろうとはお互い夢にも思いませんでしたね。こういう想定外の事に出会うのも生きる楽しみの一つかも。どうぞお元気でお過ごしください。
 今回の日野行きでまた面白い探求心の対象が出てきた。それは「八王子千人同心」だ。甲州の武田遺臣軍を徳川が江戸城下の西の守りのために起用したのが八王子千人同心の由縁だという。甲州武田軍の赤備えで知られる精強な将兵は後に真田や井伊にも召し抱えられたが、郷士として「八王子千人同心」にもなっているようだ。先日のNHK「ファミリーヒストリー」で志村けん一家のルーツが甲州武田軍にあり、江戸時代は八王子千人同心の家だったと放送されていた。






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新選組の近藤勇、土方歳三そして沖田総司らが生まれ育った「日野」の地を訪ねた。     その1

2018年07月08日 | 関東あちこち
東京都の一番東の千葉県に接した江戸川区から東京都の西の山梨県に接する八王子市の隣の日野市を訪ねた。
50年ほど前、司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んで以来いつか必ず訪れたいと思っていた場所だ。



御茶ノ水駅のホームで中央特快の電車に乗り換えると最寄駅から日野駅まで57分でつく。





日野駅のホームから



駅のロータリー



駅で迎えてくれたのは当地に住む三重県四日市市の港中学当時の同級生、IKさんだ。年賀状の住所に日野市とあるのを見るたびに
いつも新選組の日野にお住まいなんだと思っていた。日野は江戸から信州の諏訪まで結ぶ甲州道中(甲州街道)の宿場の一つだった。

 次回は東京都文化財の日野脇本陣に続く



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