暑いさ中、月に一度の新宿訪問。西口風景です。卓戦の前のニギリ定食が効いたのか、新宿戦では、はじめての笑顔の結果となりました。
長く空白の時が流れ、また再び牌に触れることだけでも嬉しくて、思わず全ツッパでやっていたが、ここに来てようやくマイペースに戻ってきたようです。
船橋社中の友人とのもう一つの、二ケ月に一度開催の八重洲の雀戦と合わせて連勝になりました。
暑いさ中、月に一度の新宿訪問。西口風景です。卓戦の前のニギリ定食が効いたのか、新宿戦では、はじめての笑顔の結果となりました。
長く空白の時が流れ、また再び牌に触れることだけでも嬉しくて、思わず全ツッパでやっていたが、ここに来てようやくマイペースに戻ってきたようです。
船橋社中の友人とのもう一つの、二ケ月に一度開催の八重洲の雀戦と合わせて連勝になりました。
Kさんが岩ガキを買って帰ろうと言って魚屋さんに車を向けたが、牡蠣貝から身を取り出すには道具もコツもあってそれをやってくれるオーナーが一時間ほど不在だった。
時間をおいて再訪したらオーナーが戻っていた。店で食べるのと比較にならないほどお得な価格だった。
阿智胡地亭はシラスを買って帰ったが、とびきりおいしくて家族が喜んで食べた。
これが岩ガキです!
汽水域でとれただろうはまぐりも売っていた。
ここまで伊能忠敬が来ている。全国を歩いて日本地図をつくったこの人も凄い日本人だ。
ドローンで撮影された犬吠埼燈台の夜明けと屏風ヶ浦
動画をスタートしたら右下の拡大アイコンをクリックして大型画面で見てください。
千葉県印旛郡栄町に住む旧友Kさんの発案で銚子の屛風ヶ浦に「岩ガキ(磯ガキ)」を食べにいくことになり、7月某日の午前10時にJR成田駅前でピックアップしてもらった。
Kさんからは「屏風ケ浦の最南端、刑部岬の高台に海辺里(つべり)という民宿兼食堂があります。
名物料理は磯がき(岩がき)で6,7月がシーズンです。
岬の南は九十九里浜の始まりで飯岡漁港がありますが、東日本大震災で津波の被害を受けました。
また漁港近くには飯岡助五郎の墓があります。
シーズンになったら磯がきを食べに行きませんか?」というメールを3月にもらっていた。
同じく栄町にはもう一人の旧友Hさんも住んでおり、いつものトリオで出かけた。Hさんは奈良の出身だが現役時代から栄町に住み着き、
退職した今は「房総の村」で生きものや植物の紹介など積極的にボランティア活動をされている。
用事で実家のある奈良との間を往復するときは LCCを活用して成田空港と関空を使うので、千葉県印旛郡と奈良はもはや遠い場所どうしではなくなったそうだ。
岩ガキのことだが、広島で勤務したときは鳥取県にもよく出張でいった。泊りの夜 同行者が連れて行ってくれた町の小料理屋で初めて食べた「岩ガキ」には心底おどろいた。
世の中にこんな旨いもがあるんだと。
岩ガキは日本海と東北にしかないと思っていたら千葉県でも食べられるとKさんからのメールをもらって、この日は欣喜雀躍して出かけた。
道中の道の駅で多古というのがあったが、多古米は江戸幕府に献上されていたほどうまいコメだったそうだ。
一時間20分ほどで刑部岬についた。
久しぶりの太平洋だった。
周辺は公園になっている。
ドローンで撮影された犬吠埼燈台の夜明けと屏風ヶ浦
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湘南国際村のちょっと寂しいつつじを見た後、逗子駅近くの町の中華店でいつもの長時間の昼食会をして本日の解散になった。時刻は15時半過ぎだったと思う。
阿智胡地亭は思い立って横須賀に行くことにした。次はいつこちら方面に来るかわからないからだ。 ☝レンタサイクルの観光パンフレットから。
横須賀は日本海軍の軍港の歴史とアメリカ海軍の基地という今も続く現代史を持ち、山口百恵さんが育った故郷
として(笑)一度は訪ねたかった都市だ。
横須賀駅に着いた
海上自衛艦が駅を出るとすぐ見える
JRの駅前は特に何もなくバスターミナルになっていたの適当なバスに乗り、カンで繁華街の入り口らしいバス停名で降りて歩き出した。
いつの間にか、何となく神戸の元町のような感じがする通りを歩いていた。
横須賀にも諏訪神社があって驚いたが、帰ってから調べると1380年に諏訪から勧請されたとある。
境内掲示による諏訪大神社の由緒
諏訪大神社
神社の伝承によると、康暦二年(一三八〇)にこの地の領主であった三浦貞宗(横須賀貞宗とも言う)が、信濃国(現在の長野県)諏訪から上下諏訪明神の霊を迎えて建てたとあります。また、徳川家康が、江戸に幕府を開いた三年後の慶長十一年(一六〇六)二月二十七日、代官長谷川三郎兵衛の発起で、社殿と境内地の大改修が行われたことも伝えられています。
祭神は、健御名方命と事代主命の二柱です。健御名方命は、武勇に勝れた神で、東国の守り神と言われています。事代主命は、えびすさまとも言われ、開運の神として広く信仰されています。
神社前の坂道は、横須賀村と言われた頃まで、浦賀に通じる主要道路でした。八幡山の名で親しまれている裏山は、古谷山がもとの名称です。明治初期、大津にあった佐倉藩の陣屋を解体して横須賀製鉄所(後の海軍工廠)に移したとき、陣屋内にあった八幡宮を横須賀製鉄所の鎮守として古谷山に祭ったところから八幡山と呼ばれるようになりました。
頂上近くから神社の裏手に接する区域は、諏訪公園になっています。明治三十三年、当時皇太子であった大正天皇の御成婚を祝って公園化事業がすすめられ、明治四十五年に完成しました。かつては、熊や猿などの小動物が飼われていたほか、小栗上野介忠順とレオンス・ヴェルニーの胸像や海軍工廠殉職職工の招魂塔が建っていました。
明治四十年の市制施工直後には、山頂に八幡山小学校が、聖ヨゼフ病院のところに諏訪小学校と市役所があり、まさに文教地区の観がありました。(境内掲示より)
OMAKE
昼食の店を探して京急新逗子駅近くでバスを降りて、JR逗子駅まで歩きました。
途中に亀ヶ岡神社という神社がありました。
JR逗子駅まで来ました。
さすがに逗子には売り場がこんなに広い鮮魚店がまだ日本にあるんだと驚きました。
ネットから引用
神奈川県横須賀市と三浦郡葉山町にまたがる湘南国際村へつつじを見に行ってきました。「oh散歩かい」の面々5人は定刻前に集合していましたが、阿智胡地亭が一人
横須賀線の朝の人身事故で錦糸町で乗る総武線快速の横須賀線乗り入れがストップしたため少し遅れて逗子駅でおりました。
つつじの盛りを過ぎていましたが、三浦半島の高みから相模湾を越えてはるかに富士山の雄姿を見ることが出来て満足でした。
これまで見た青大将の中では一番大きいサイズの青大将がいました
こんな大学法人がありました。
相模湾がきれいでした。
花盛りのつつじはこんな具合だそうです。
府中市美術館は森の中にあるなかなかリッチな美術館だった。同行のMさんのお話では美術館が立派なのは競馬場からの上りが関係しているのではと(笑)。
三人は2時前に京王線東府中駅の改札口に集合。美術館へはほぼ真っすぐに17分ほど歩く。
航空自衛隊の府中基地の前を通り
芸術劇場の中を通り抜けて公園の中へ
緑がとても美しい 武蔵野原野はこんな感じだったのかな
桜のシーズンにはこの道は大勢の方々が通るそうだ
藤の花もきれいだった
美術館の外観
美術館に着いた
続く
氷川丸を下船したあと、元町通に向った。
横浜には神戸とおなじ大倉山や元町という地名があって、明治開国史の「旧居留地の共通性」の哀しみも感じる。
アメリカ合衆国の首都ワシントンにあるポトマック川の堤から里帰りした桜があるのは知らなかった。
元町通に入った。15年ほど前にあいかたと歩いたイメージより洗練されているような気がした。
気のせいかローマやパリの街のような・・・(笑)。
元町通の一つ上の通りには5時から開店の店がいくつかあった。
石川町駅まで一往復し、いつものように鼻を利かして良さそうな居酒屋を探した。結局最初のころにあった焼き鳥屋に入ったが
正解だった。オーダーした品々はどれも旨く、帰る頃に店に出てきた女将さんは美しい人だったそうだ?
今日もまた何を喋ったか3人の誰も覚えていないだろうと思う(笑)。ただ後口のいい酒を飲み、来月はどこ?と
いう会話で締めて店を出て、JR石川町駅からそれぞれの方向に散会した。
船内は何階建てものビルのようなものだから一度甲板で一休みした。
消防艇が訓練?しているのが遠くに見えた
一休みして下舷の三等船室の方に降りた。船の等級などの用語はそのまま空を飛ぶ船ー飛行機にも共通語として使われている。
キャプテンもフィーストクラスもギャレーも。
三等船室やギャレー(厨房)は窓のない舷側から下の機関室に近い階にある。若い時に新居浜への出張で神戸の青木(おうぎ)
から高松まで加藤汽船の夜行便に何度乗ったかわからないが、あの雑魚寝の三等船室はやはり窓のない世界だった。
さすがに氷川丸の三等船室は寝台の相部屋だった。
三等船室やギャレー(厨房)は窓のない舷側から下の機関室に近い階にある。
機関室に降りた。航海中はこの空間の中で24時間を過ごした人たちがいて、船はアメリカや欧州まで動いた。
子供たちの見学者も楽しそうにレバーを触ってみたりしていた。
人の暮らす都会の上下水道から発電から全てのユーティリティが船腹にきちんと収められて動いてこそ、長期のクルージング
は成り立つんだと実感した。いくらITの時代になってもこのハードウェアの世界の技術が衰亡すると人間社会は困るはずだ。
長い航海の運航のためにメンテに練達のマルチ職人技術者が船員として乗船していたのだろう。
なお、船の心臓にあたる内燃機関はコペンハーゲンのバーマイスター・アンド・ウェイン造船所の製品だった。
氷川丸は貨客船として設計されたので、輸出用の絹製品を格納する空間などもあった。
この船に乗られた皇族方やチャップリンさんやアインシュタイン博士、宝塚歌劇団アメリカ公演団の生徒はんなどの
乗船時の写真が多数掲示されていました。