阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

インドネシア国でジャピンドと呼ばれる人生を送る樋口さん   インドネシア残留日本兵たち   茶話 4

2023年09月15日 | エッセイ

☆ 2005年9月30日の新聞に「帰らなかった日本兵」◇インドネシア独立運動に身を投じた「一千名の声」◇と言う記事が出ていました。

その書名の本が発刊されたと言う文化欄の記事の題名でした。

 これを見た時、1976年、昭和51年にジャカルタで出会った樋口さんを思い出しました。

樋口さんは、そのとき私がインドネシア出張に随行した会社の役員の大学時代の同窓ですが、国籍はインドネシア人でした。

 戦争前に愛媛県のN市にあった何社かの会社の合同独身寮で、会社は違ったけれど杉村さんとラグビー部の親友だったと聞きました。

注)「帰らなかった日本兵」とは、日本の敗戦後、再支配を目指して攻めてきたオランダや英国など連合軍に対するインドネシアの独立運動に身を投じ、

祖国日本に戻らなかった兵士たちである。数は確認できただけでも約一千人。多くが独立後に現地女性と結婚、インドネシア国籍となった。

 

 樋口さんは召集を受け会社の寮から帝国陸軍に入隊し、部隊はインドネシアのスマトラ島に駐屯していたそうですが、戦争末期の戦いでオランダ軍の捕虜になり、

銃殺される寸前に、駆けつけた(長く樋口さんが青年達を教育していた村の)村長の嘆願のお陰で釈放されました。

そしてその後、インドネシア独立戦争の時に、インドネシア国軍に参加するよう頼まれ、そのまま将校として銃を取りインドネシア兵を指揮し、

オランダ軍との熾烈な戦いに加わったそうです。

 

 日本の敗戦を知った時も 日本には原爆が落とされ、空襲で殆どの町や村が焼けてしまったと聞かされ、

もう自分の親兄弟も皆亡くなってしまったと思って、それもインドネシアに残った理由の一つでしたとも言われました。

 

彼は秋田鉱専(現 秋田大学 国際資源学部)で鉱山学を学んだキャリアを生かし、国軍の技術将校として重用され、インドネシアの国籍を取り、

栄進され、個人的にも、インドネシア婦人と結婚されました。

 インドネシアが独立し、日本と国交が回復したあと日本の親族とは連絡が取れ、そのご交流を再開されているが、

もう妻、子供もあり生活の基盤もこちらにあるので、日本に戻ろうとは思わなかったそうです。

そして日本の国が戦後、経済復興を遂げていきつあるのを心から喜んでおられました。

 「こうして日本企業が昭和40年代からインドネシアでビジネスを盛んにするようになり、いろいろなお手伝いをしてお役に立てて、

私などは幸せです、戦友の多くは、せっかく太平洋戦争で生き残ったのに、インドネシア国軍の将校としてオランダ軍と戦い、戦死したものも多くいますから」と話されました。

 

 はじめて樋口さんがジャカルタのホテルに現れて お会いした時、樋口さんは色浅黒く、濃い口髭を蓄えた、目の鋭い精悍な男性でした。

そしてお話をされる間、温和な笑みが顔に絶えることはありませんでした。

 子供さんはアメリカの大学に留学されているとかで、アメリカと日本にも仕事で良く行っていますとの話でしたが、

当時国外に出て2,3回目の私には、こんな風に生き抜いてきた日本人がいるんだと強く心に残りました。

 ☆終戦からすでに60年。千人を数えた残留日本兵の生存者も、現在は9人にまで減ってしまったが、その方々のご存命中に発刊でき、ほっとしている。

日本でより多くの方に読んでいただくためウェブサイトも開設した。現在残留日本兵の子孫は、二世、三世を含めおよそ2千人である。・・・}

 ジャピンドとはジャパニーズ・インドネシアンを略して言う言葉だそうですが、

樋口さんは、自分がジャピンドと呼ばれるような人生を、送ることになるとは思ってもみませんでした、と言われました。

☆新聞記事:2005.9.30 日経朝刊44面。ヘル・サントソ衛藤

   

(2005年9月30日作成)

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 九十九里浜から茨城県・藤代町の家々へ魚の行商に来ていた小父さん         茶話 3

2023年09月13日 | エッセイ

 あらっ、この人あの魚屋の小父さんじゃないかしらと夕刊を見ていておもわず大声を出した。

えっどうしたのとテレビを見ていた二人の娘が、相方の両脇から頭を突っ込んで一緒に記事を読んだ。

 

 「九十九里浜の海水浴場で水泳監視人が死亡」と出ていた。

 

<これより遊泳禁止>の旗を無視して遠くへ泳ぎ出した高校生二人が、共に溺れかけ地元のボランティアの監視人が泳ぎだして二人を助けたが、

二人目を岸に連れ戻したあと心不全で亡くなったという記事だった。


 昭和55年の秋、南柏の会社のアパートを出て取手市の隣りの藤代町に家を買って引越した。

JR取手駅からバスで10数分の戸建住宅ばかり700戸ほどの住宅地だった。

  *(2003年の選抜に茨城県代表で出た県立藤代高校へは光風台というその宅地の入り口から10分ほどのところにある)

引越挨拶で近所をまわったとき、数軒の奥さんがその場で色々教えてくれた中に土曜日に魚屋さんが小型トラックで来て、新鮮な魚を買えるわよ、

そのトラックは前からお宅の家が建ったところの前に停まるからって教えてくださった。

 家は住宅地の入り口にあるバス停まで歩けば10数分かかるという奥まった場所で、日常の買物はまわって来るスーパーの小型バスに乗るか

自転車で行くしかなかったが、自転車ではスーパーまで結構距離があり難儀だった。

土曜日になると「魚屋だよ、魚屋だよ」と大きな声がして家の前にトラックが止まり近所の奥さん方が集まった。

取手駅のイトーヨーカドーまで行けばサカナは買えたが、この小父さんの毎週の行商のおかげで新鮮なイワシやサンマ、カツオなどが

手に入りうちもご近所も皆助かっていた。この小父さんに7年ほどお世話になった。

相方が小父さんといろいろ雑談する中で、小父さんは50歳代中頃で九十九里浜で漁師をしながら民宿を始め

民宿シーズン以外はこうして行商をするようになったと言うことがわかった。


 夕方のNHKのローカルニュースでも放送され小父さんの顔写真が映された時、相方と子供達は声がなかった。

特に3歳で引越して、小父さんが来ると毎回、相方について出ていた次女は、彼とは7年間近く毎週会っていた。

次女は生まれて初めて身近に知っている人が死ぬという経験をして、今でもあの時の事は忘れられない、

特に人の命を助けて自分が死ぬ事をする人がいるんだと忘れられないと言った。


 毎月の家のローンと夫の呑み代・麻雀などの遊び代で手いっぱいで子供のおやつ代にまわる金はなく、

おやつは母親手作りのジャムやオカラと人参のケーキ、きなこ飴などしかなかった子供には小父さんが無造作に

ビニールを破ってハイといつも手渡してくれるヤクルトは本当においしくて毎週土曜日が楽しみだったと言う。

 

 それからもう魚屋さんは来なくなり、その事に慣れ出して2ヶ月くらいしたら「魚屋だよ、魚屋だよ」と女の人の声が聞こえた。

外に出てみたら、あの見慣れた車の側に初めてみる女の人とその息子らしい若い人がいた。

予想どおり、あの小父さんの奥さんと長男で「これから引続きまわってきますので、ウチのお父さん同様よろしくお願いします」と挨拶された。

あの日の事を聞いてお悔やみを言った。

  その秋に神戸に引越したので、そのあとどうされたか分からないけど、7年も毎週顔を合わせていたあんなに気風のいい人が、

ああいう亡くなり方をするなんてと、いまでも忘れられない。海から遠く離れた土地で牛久沼の鰻やフナや鯉なんかはいつでも手に入る所だったけど、

あの小父さんのお陰で海の新鮮な魚も食べる事が出来てあの7年間は本当に魚には不自由しなくて済んで、ありがたい人だったと相方は言った。

 いつものように飲んで麻雀をして終電で深夜1時過ぎに帰ったら相方が、今日大変なことがあったのと小父さんが亡くなった話をした日のことは私も覚えている。

2003.8.04記

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阪神淡路大震災の15ヶ月後、「犬の里親探しボランティア団体」から家に来たパティ     茶話 その2

2023年09月12日 | エッセイ
 

 震災の翌年5月の神戸新聞にボランティア団体が解散するという記事が出ました。飼主が避難するときに手離さざるをえなかったり、
 
飼主が亡くなったりした犬を引取り、新しい飼主を見つける活動をしていた団体でした。
 
震災後15ヶ月が経過し、ほぼ目途がついたので活動を終了するけどまだ何頭か残っているので、飼主が現われて欲しいという記事でした。
 
 活動している場所がたまたま歩いていける範囲だったので相方が訪ねました。

会社に行く前に今日、犬を見てくると彼女から聞いていましたが、家に帰るとボサボサの毛の痩せこけた茶色のかなり大きな犬がいました。

話を聞くと、本部を訪ねたらその犬を一時預ってくれているお宅へ連れて行かれたそうです。
 
その家では犬がドッグフードを食べないので持て余していて、もう返すからと言われて本部も困っていた犬だったそうです。

相方が犬を見るとその犬がすがるようにじっと見つめ返したそうです。

 その瞬間、相方はこの犬連れて帰りますと言っていました。
 
しかしウチには既に犬が一匹いると聞いた団体の責任者が、相性を試してからにしましょうと言いました。大喧嘩をして全く合わないケースもあると。


 預っていた家の奥さんの運転で家まできた犬が車から降りて、前からいるタローが近づいてくるのを責任者や奥さんや相方は息を潜めて見守りました。

タローはじっと身じろぎもせずお座りしている犬の全身をぐるっと廻って時間をかけて匂いをかいだあと、吠えもせず静かに座りました。
 
そのときみんなほっと安堵の息をついたそうです。相方はタローのチエックにじっと耐えている新参の犬がいじらしかったそうです。

奥さんはこれ結局食べてくれなかったんですよと言いながら、車に積んできたドッグフードの袋を犬と共に残してそそくさと帰って行きました。
    

 団体の責任者の話によると、この犬は阪神電車の青木駅の改札のところに何日もうずくまって、どこにも行こうとしないので困った駅員さんから電話があって引取ったのだそうです。
 
元の飼主が青木駅からどこか別の避難先へ移って、移動先ではもう犬は飼えない事情でもあったのか?いずれにせよこの駅でこの犬は飼主が戻るのをずっと待っていたのでしょう。

当時学校から帰った長女が(いまでも時々笑いながら話しますが)、家に帰ったら見知らぬ薄汚れた大きな犬がいてエッ何!と思ったら、
 
その犬が何ともやさしげな目でじ~っと娘を見つめたのだそうです。そのごあんなに優しい目は見たことないのにと言います。

犬もそのとき家のメンバーから認めてもらおうと必死だったんだねと言います。


 飼ってからわかりましたが、なるほどドッグフードを食べません。皆で想像したのですが、家の中でお年寄りの飼主が食べる食事と同じものを貰っていたのではと。

犬だから食器に入れておいたらハラが減ったらかならず食べるよと私は言いましたが、口の中に押し込んでも食べようともせず、
 
ドッグフードがそのまま口の中でふやけてしまうくらい頑固でした。

長い間ろくなものを食べていないらしく、骨はスカスカ、毛は硬くてバサバサで身体はタローより大きいのに抱くと半分ほどしか体重がありません。
 
病気になっては困るのでご飯をやるとしぶしぶ食べるのですが、シーチキンなど魚関連ををかけると口をつけず、ウインナとか洋風の味の濃いものを喜びます。
 
これも想像ですが、避難所などに配られる洋風弁当を食べてきたような感じです。しかしそんなエサを続ける訳にはいかないのである時から、
 
「ウチにいる積りだったら先輩のタローが食べているのと同じのを食べないとだめなのよ」と、相方が根気つよくパテイと名づけた犬に言い聞かせながらエサをやりました。

ちゃんとお座りも出来ないほど骨が弱っていたので、今思えば最初噛む力も弱かったのかも知れません。
 
毛の艶も出てきた頃にようやくドッグフードをメインにして食べるようになり、家族全員が安堵しました。


 茨城県北相馬郡生まれの11歳のタローは随分年下ではあるけど、生まれて初めてガールフレンド(獣医さんの推定ではパティは2歳)が出来て、
 
弱り気味だった身体に元気を取り戻しました。タローはパテイをよく可愛がりました。そしてパテイはタローのことが大好きでした。
 
うちに来てから12年、14歳になったパティは1998年の12月のタローの死後、1999年に後輩に迎えたムーと共に元気に暮らしました。
2007年記
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「お稲荷さんのお告げ」で大きな注文をキャンセルされた話     茶話 その1

2023年09月11日 | エッセイ

3ヶ月間の同業とのきつい競争を経て、競争相手よりも品質が良さそうやし、値段も予算内に入れてもろたからと、

東大阪市の買い手の社長さんから「よっしゃ、オタクの機械買うことにするわ」と言ってもらった時は本当にほっとしました。

 心から御礼の言葉を社長に申し上げて先方を辞去しました。

淀屋橋の会社に帰って、チームでやってきた技術陣と管理部門に「受注できました」と報告して共に喜びました。

 売買契約書を交わす前の口頭発注であっても、社長のあの一言で契約は成立なので、早速部門は動き始めました。

 

翌週早々、社長から呼び出しがあり、すぐに伺ったところ思いがけない話でした。

「阿智胡地亭さん、あんな、ワシこのビル建てた時から屋上にお稲荷さん祀ってるねん

毎朝、お稲荷さんの前で無念無想になってお祈りするんがワシの日課なんや」

「今朝もお祈りしてたら、お稲荷さんのお声が聞こえたンや」

 「ハア?」

「今回の設備投資は時期が悪いから止めとけちゅうお声やった。そやから悪いけど、注文はいったん取り消しや」

お稲荷さん?瞬間、何を言われたのか理解が出来ませんでした。

 しかし、ピーんと来ました。

他社があの発注の話の後に来て、社長に泣きつき、もうこれ以上引けませんと言っていた数字を、

もう一回大きく引いたのに違い無い。

 それでこの社長が発注先を乗り換えたのだと。

 

   素直に引き下がりました。設備投資計画再開の節はどうぞ再発注をお願いしますと言って。

 まだ交渉をねばるだけの値引きの余地は多少ありましたが、こういう相手では製品を納入したあと、

検収を遅らせいろいろクレームをつけ、代金を期日にきちんと支払ってくれるかどうかわからないと思いました。

代金の回収も勿論営業の責任範囲ですから設備納入完了後に代金回収が滞っては大変です。

商談の規模はもうすぐ億単位になる受注金額規模でした。

それにしても「お稲荷さんのお告げ」を持ち出すこの商談のような体験は、これが初めてでした。

 会社に帰って実はあの注文はキャンセルですと言ったあと、さすがに「お稲荷さんのお告げ」は理由に使えず、

社内で説明するのに四苦八苦しました。

しかもこの受注品が消滅したので、この期の部の受注予算は末達になり、エライさんから「来期こんなんやったら、

キミ腹切ってもらうからな」と言われました。

考えてみれば、なかなか頭のいい断りテクだとは思いますが、今こうして書いているうちに思い出しても腹が立ってきました。

会社勤めをした期間の中で、1968年から1997年の29年間は注文を貰ってから、製品を作り始める企業相手の機械設備の営業をしていました。

 この受注生産方式は、在庫がないというメリットがある反面、受注がなければ工場の仕事もなくなると言う恐ろしい業態でもあります。

つまりお客のオーダー仕様に合わせた設計をする設計課、鉄板やモーターや配線材料などを調達する購買課、設計に合わせて機械を製造する

製造課、検査課、輸送課、お客さんの工場に完成した機械を据付ける工事課などの人員が遊ぶことになり、

給料が出るどころか部門は潰れてしまいます。

そんな部門の営業の仕事は、自社が製作・製造する機械を、どこの会社が新規に買う計画をしているかを探し、

見積もりをさせてもらうことから始まります。

幸い、工場新設や新規設備投資の話を知り、そのお客さんを訪問し見積もりをさせてもらうところまで辿り付いても、

それは競争の第一歩がスタートしたに過ぎません。

どこの発注者も一社だけに見積もりをさせることはありません。たいていは4,5社に引き合いを出し、時間をかけて技術と価格の比較をします。

それだけに受注にこぎつけた時は本当にほっとしたものです。

 それにしても、お稲荷さんの登場はあの社長だけですんだのは幸せでした(笑)。

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