☆ 2005年9月30日の新聞に「帰らなかった日本兵」◇インドネシア独立運動に身を投じた「一千名の声」◇と言う記事が出ていました。
その書名の本が発刊されたと言う文化欄の記事の題名でした。
これを見た時、1976年、昭和51年にジャカルタで出会った樋口さんを思い出しました。
樋口さんは、そのとき私がインドネシア出張に随行した会社の役員の大学時代の同窓ですが、国籍はインドネシア人でした。
戦争前に愛媛県のN市にあった何社かの会社の合同独身寮で、会社は違ったけれど杉村さんとラグビー部の親友だったと聞きました。
注)「帰らなかった日本兵」とは、日本の敗戦後、再支配を目指して攻めてきたオランダや英国など連合軍に対するインドネシアの独立運動に身を投じ、
祖国日本に戻らなかった兵士たちである。数は確認できただけでも約一千人。多くが独立後に現地女性と結婚、インドネシア国籍となった。
樋口さんは召集を受け会社の寮から帝国陸軍に入隊し、部隊はインドネシアのスマトラ島に駐屯していたそうですが、戦争末期の戦いでオランダ軍の捕虜になり、
銃殺される寸前に、駆けつけた(長く樋口さんが青年達を教育していた村の)村長の嘆願のお陰で釈放されました。
そしてその後、インドネシア独立戦争の時に、インドネシア国軍に参加するよう頼まれ、そのまま将校として銃を取りインドネシア兵を指揮し、
オランダ軍との熾烈な戦いに加わったそうです。
日本の敗戦を知った時も 日本には原爆が落とされ、空襲で殆どの町や村が焼けてしまったと聞かされ、
もう自分の親兄弟も皆亡くなってしまったと思って、それもインドネシアに残った理由の一つでしたとも言われました。
彼は秋田鉱専(現 秋田大学 国際資源学部)で鉱山学を学んだキャリアを生かし、国軍の技術将校として重用され、インドネシアの国籍を取り、
栄進され、個人的にも、インドネシア婦人と結婚されました。
インドネシアが独立し、日本と国交が回復したあと日本の親族とは連絡が取れ、そのご交流を再開されているが、
もう妻、子供もあり生活の基盤もこちらにあるので、日本に戻ろうとは思わなかったそうです。
そして日本の国が戦後、経済復興を遂げていきつあるのを心から喜んでおられました。
「こうして日本企業が昭和40年代からインドネシアでビジネスを盛んにするようになり、いろいろなお手伝いをしてお役に立てて、
私などは幸せです、戦友の多くは、せっかく太平洋戦争で生き残ったのに、インドネシア国軍の将校としてオランダ軍と戦い、戦死したものも多くいますから」と話されました。
はじめて樋口さんがジャカルタのホテルに現れて お会いした時、樋口さんは色浅黒く、濃い口髭を蓄えた、目の鋭い精悍な男性でした。
そしてお話をされる間、温和な笑みが顔に絶えることはありませんでした。
子供さんはアメリカの大学に留学されているとかで、アメリカと日本にも仕事で良く行っていますとの話でしたが、
当時国外に出て2,3回目の私には、こんな風に生き抜いてきた日本人がいるんだと強く心に残りました。
☆終戦からすでに60年。千人を数えた残留日本兵の生存者も、現在は9人にまで減ってしまったが、その方々のご存命中に発刊でき、ほっとしている。
日本でより多くの方に読んでいただくためウェブサイトも開設した。現在残留日本兵の子孫は、二世、三世を含めおよそ2千人である。・・・}
ジャピンドとはジャパニーズ・インドネシアンを略して言う言葉だそうですが、
樋口さんは、自分がジャピンドと呼ばれるような人生を、送ることになるとは思ってもみませんでした、と言われました。
☆新聞記事:2005.9.30 日経朝刊44面。ヘル・サントソ衛藤
(2005年9月30日作成)